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陰間由夢乃丞と八丁堀  作者: 紫紺
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伍 その3


 目の前で、そのユメが俺に微笑を向けている。涼やかな瞳、だけどどこか儚げな様。


 ――――俺はこいつに惚れているのか。確かにずっと気になって仕方なかった。そうだよ。どんなに否定しようとも、俺の心はこいつに惹かれていった。


 だけど、ユメはどうなんだ。勘左衛門はああ言うが、こいつの気持ちは? 思わせぶりなせりふはどうとればいい? ああもう。どいつもこいつも勝手なことぬかしやがって。一体、俺にどうしろって言うんだよ。


「旦那? どうしたんだい。ぼんやりしてさ」


 だけど、今日、ここから何も言わずに去ってしまえば、今後ユメに会うことは叶わないだろう。住む世界が違うと言えばそれまでだ。

 それでも俺はそれがたまらなく嫌だった。それが今の、唯一はっきりとした正直な気持ちだ。


 ――――会うこともできず、おまえの行く末を案じるだけなんて嫌だ。俺は……おまえとこのまま別れたくはない。


「旦那、聞こえてる?」

「ユメ……」


 気が付けば、俺は窓辺に座るユメの手を引き、自分の体に寄せた。


「あ……っ」


 小さく声を出しながらも、ユメは抵抗しなかった。俺の腕の中に勢いよく転がり込んでくる。俺はそのまま暴走し、ユメの桃色の唇におのれのガサツなそれを重ねた。花びらのような唇は甘い香りがした。

 どうしてこんなことをしでかしたのか。だが、そんなことを考える余裕はない。そのままあいつの唇を貪ると、無我夢中で押し倒した。


「そこまでだよ。旦那……」


 畳の上に倒されたユメが俺にそう囁いた。俺はその低く抑えた、でも甘えるような声にハッとした。見開いた澄んだ二つの瞳が俺を見ている。


「それ以上やると、俺の金剛、佐之助が飛び込んでくる。お役人だって容赦ないよ」


 俺は我に返って起き上がり、慌てて座りなおした。遅れてユメも体を起こす。


「すまなかった……つい……」

「つい? ふふっ。出来心ってわけ」

「いや、そうじゃない。出来心じゃないんだ。俺は、おまえのことが……」


 勘左衛門の誘導にはまったわけじゃないだろう。触れてしまえば後戻りできない。本当にその通りだ。


「俺のことが……どうしたのさ?」


 なんだと。わかってるくせに、なんてこと聞きやがる。俺はその先が言えずに口ごもる。


「うるせえ……どうもしねえよ」


 悪戯が見つかった子供のようにバツが悪い。ユメは目を細め軽く微笑した。

 乱れた髪を繕う姿につい目をやってしまう。その目の中で、ユメは少しだけ真面目な表情を作り直す。


「旦那、もしかして市村の親父から俺の……身請けの話を聞いたのかい?」

「え? あ、ああ。面倒見るつもりはないかって……。ユメも知ってたのか?」


 ユメはさっき触れたばかりの艶めいた唇の端を上げる。


「知ってるも何も、俺が相談したんだ。旦那のところへ行けないかって」


 俺は一瞬息を飲んだ。いや、まさか、そうなのか? 勘左衛門からの提案に、俺は即答出来なかった。そんな大事なことをすぐ応じられるわけもないが、何よりユメの気持ちがわからなかったからだ。


「なに?! おまえから言ったってわけか? 俺のところへって、おまえ、正気か?」

「正気も正気さ。俺は、そうしたいと本気で思ってるよ。もちろん、旦那さえ覚悟してくれればね」

「なんで……八丁堀の俺なんかのところへ……普通の暮らししかできねえぞ」


 俺には宮仕えとして、分相応の暮らししか提供できない。ここで贅沢してきたとは言わないけど、少なくともおまえの飼い主のように、望み通りのものを与えることなどできない。金魚鉢だってガラスは無理だ。


「理由、言わないと駄目かい? 気付いてると思ってたけど……」


 白い肌をほんのりと朱に染め、ユメが小首をかしげた。俺は胸を射抜かれる。そりゃ、商売でやり慣れた仕草さかもしれないけど、変な汗が流れて、こっちこそ頭まで真っ赤になっちまう。

 俺がオタついてるのをどう思ったのか、ユメは一つ息を吐くと、音もたてずに立ち上がった。


「佐之助!」


 ふすまに向けて叫ぶと、待ってましたとばかりにそれは開いた。大きな影が俺の前に横たわる。頭を向けると佐之助が汚いものを見るような目で俺を刺していた。


 ――――な、んだよ、その目は。俺が何したってんだ。ま、今したかもだけど。大体、それはヤキモチってんだ。てめえの気持ちなんかとうにお見通しだよっ。


 無性に張り合いたくなって睨み返す。佐之助が中指を立てる直前、ユメが止めた。


「何やってるんだ、二人とも。佐之助、これを例のところへ持っていってくれ」


 ユメは奥の部屋にある鍵付き箪笥から文を出してきていた。そしてそれを佐之助に渡す。


「ユメ、本気なのか。寄りによってこんな八丁堀……」

「本気だよ。ご挨拶だなぁ。でも、おまえもわかってただろう?」


 しばしの間、佐之助は渡された文に目を落としていた。そしてもう一度、俺の方に顔を向けると、今度は本当に中指を立てて部屋を出て行った。っんだよ、こいつ!


「しようのない奴だな。旦那、どうする? 今ならまだ後戻りできるぜ」


 突然突きつけられた覚悟。何もかもが急すぎる。あの文は、もしかしてユメの旦那、例の御館様に持っていくものだろうか。身請けの準備をして欲しいとか、そういう……。

 俺は頭をフル回転させる。色んな問題や煩わしさが交差した。だが、自分の心内を何度探っても、答えは一つしか見つからなかった。

 俺はここにいつまでもユメを置いておきたくない。第一、今更後戻りとかみっともねえじゃないか。俺は口を真一文字に結び立ち上がる。


「勘左衛門のところへ行ってくる」


 俺の言葉にホッと胸を撫でおろす、ユメの気配を背中に感じた。




 市村の店主、勘左衛門の部屋に入ると、待ちかねていたように俺を座敷に座らせた。


「ご決断頂きましたか。やはり、ユメの目に狂いはなかったのですね」


 なんだかこのしてやったりの面を見ると、おまえらの計算通りにやられた気しかしない。まさかと思うが、帯刀させなかったのも罠じゃねえだろうな。


「まあ、その……そういうわけだ。どう進めたらいいのか教えて欲しい」

「火浦様のお手を煩わせることはないと思います。ユメにはそれ相応の素性を付け、火浦家に入らさせます。もちろんご相談させていただきますが、細かいところはお任せください」

「そうかい」


 やっぱり、おまえらの手のひらで踊らされたような。これは気のせいかね。俺が微妙な顔をしていると、市村の店主は思い出したようにこう続けた。


「あ、そうそう。金剛の佐之助もついていくと思います。あれは元々ここの者ではないのです。ユメがここに来てからずっと、護衛として仕えてきました。今後は火浦様の家臣として使ってやってください」

「ええっ! あいつも合わせてなのか!?」


 とんだ後出しだ。あんな中指立てるような奴を俺の屋敷に入れるのか。俺の家臣って、言うこと聞くとも思えない。第一、十一郎爺やおまつと仲良くできるのかよ。この期に及んで、それが今日一番の難題だった。


「はあ……」


 しかし、それは恐らくユメの願いなのだ。それを違えば決して俺の元には来ない。

 やっぱり佐之助は元陰間じゃなかったのか。どうりで浮いてるわけだよ。ちょっと考えればわかることなのに。奴は御館様が遣わした元家臣なのだ。俺は、相変わらず鈍いな……。


「承知した。覚悟は……できている。ユメを、火浦家に迎え入れる。話を進めてくれ」


 俺は商人である主人に頭を下げた。彼に対する礼儀だと思ったからだ。


「よろしくお願い致します」


 威儀を正した市村勘左衛門は、俺よりも深く頭を下げた。




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