第三章 猫
第三章です。
よろしくお願いします。
第三章 猫
由宇ちゃんと神社で話してから一日が過ぎた。
「ヒロ。これも持ってくれないかしら? お母さんじゃ持ち上がらないの」
「ああ。分かってるよ。よっこらせ……」
俺は母さんがリビングの掃除をしているのを手伝っていた。
今日は土曜日。
母さんはパートが休みらしく、俺に掃除を手伝う様に言ってきたのだ。美紀は早々に逃げてしまったらしい。
俺も気乗りはしないが、断れる理由もないので手伝いをしていた。
「ヒロが手伝ってくれて助かるわ。やっぱり男の人がいると違うわね」
母さんは家具の裏まででもとことん掃除をする為、必ず俺か父さんがいるときにしか掃除をしない。
俺や父さんの休みを見計らい、手伝わせるというわけだ。
掃除を手伝った日は例外なくへとへとになってしまうのが毎度のことであった。
「でも卯月ちゃんは良かったのかしら? 帰っちゃったけど」
母さんが言う様に先程、一度卯月が毎度おなじみとでもいう風に遊びに来たのであるが、掃除をしている様子に退散してしまったのである。
大学に行ってみるとか言っていた。
俺は休みの日にまで学校に行こうとは、夢にも思わないたちだ。
そんな俺からすると卯月の行動力というものは羨ましくもあるが、同時にどこか恐ろしくも感じる。
俺はあんなに動いたら死んでしまうかもしれない。
「せっかく遊びに来てくれたのに。ヒロにも悪いことしたかしら?」
「良いよ。あいつはそうでなくても、毎日のように上がり込んできてるんだ。一日くらい来なくても何がどうなる訳でもないよ」
「あら? 二人の仲はその程度じゃ壊れない?」
当然の様に茶化してくる母さんではあるが、俺は特に気にすることもない。
正直、仲の良すぎるくらいの幼馴染だ。茶化されるのは運命ともいえる。
様々な人に茶化され続けてきた俺に、動揺するなどということは既になかった。
「いつも言うけど、あいつは幼馴染。からの友達だよ」
「あら? そうなの? 残念だわ」
母さんとしては、卯月の評価は非常に高い様で、いつも残念がる。
まあ、あんな出来た奴はそうそういない。誰からも好かれて当然の様な存在なのだから。
表裏のなさは最大の魅力だろう。
美紀は卯月に憧れるなら、そこを見習うべきだと俺はいつも思う。あいつは裏が必ずある。
「もしかしたらまた来るかもしれないし、早く終わらせちゃいましょう」
俺は母さんに言われるがまま、その日の午前中をリビングの掃除のみに費やした。
午後一時過ぎ。
「ああ……くたびれた」
俺は自室のベッドの上で大の字になっていた。全身に気怠さを感じる。思えば夏休みに入ってから肉体労働などしていなかった。
なんとか掃除自体は午前中に片づけることが出来た。
その後、俺は母さんの作ってくれた昼食を食べ、部屋に戻ってきたのだった。
ゲームでもしようかとも思ったが、疲れた体では碌に進めることも出来そうにない。
だから俺は寝ると決めた。少し目を瞑っていると、睡魔が襲ってきた。
うつらうつらと少しずつ眠りに落ちていく。最高に気持ちいい、この瞬間が。
「ヒロ? ちょっといい? ヒロを女の子が訪ねて来てるけど……何? 寝てるの?」
部屋に入ってきた母さんによって妨害された。
だるい体をゆっくりと起こす。
「せめてノックぐらいはして欲しいんだけど……」
「あら。ごめんなさい」
一応謝ってはいるが、母さんは特に悪びれている様子もない。
「女の子……卯月じゃないの?」
「そうなのよ。私は見たことない子。ヒロも案外、隅に置けないのね」
母さんの茶々を聞き流し考えてみる。
俺を尋ねてくる女の子? そんなものいるだろうか?
しかし、そこではっとした。まさか、昨日の神社の由宇ちゃんかと。
しかし、名前は言ったが家までは……
いやもしかすると、名前から調べて来たのかもしれない。とすると、今日は向こうから会いに来てくれたということになるのか?
俺の心は根拠のない期待に高鳴っていた。
「分かったよ。直ぐに行く」
正直、俺は由宇ちゃんであろうということを何故か確信して出て行った。が、
「よう! ヒロ君! 元気にしてた?」
「せ、先輩? 何で家に?」
家に来たのは由宇ちゃんではなかった。冷静に考えてみれば当然なのであるが。
「家か? ヒロ君の担任に聞いたら教えてくれた」
「先生に……驚いた様子じゃなかったですか?」
「ん? そういえばそうだな……『どういう関係なの?』とか言ってたような……」
俺は大きく溜息を吐いた。
「先輩。勘違いされる様な真似はやめてくださいよ。ただでさえ普段から勘違いされてるのに……」
「ん? 駄目だったか? ヒロ君は私じゃ不満なのかな?」
「不満って……そんなことはないですけど……」
「じゃあ、いいじゃないか。そういうことで」
「ええ……じゃあ、二人は付き合っていると……」
「ううん。違う。そういうんじゃない」
「それはやっぱり違うんですね?」
「そういうこと」
先輩はそう言って満面の笑みを見せる。
「それは残念だわ」
後ろから母さんの声がして、俺は後ろを振り返った。
「私はてっきりヒロの彼女さんかと思ったのに」
「それはすみません。お騒がせして、でも私、こう見えてしっかりしてるんです。ヒロ君はまだ出会って浅いし。そういうのは」
先輩との付き合いはこの時点で一年と少しといったところであろうか。
「そうなの? でも大事なことね。世の中変な人も多いし、怖い事件も起こっているから」
言わなくても分かるかもしれないが、先輩も母さんもどこかズレている。少なくとも俺からはそう感じる。
ズレている者同士共感するところもあるのだろう。
「で? 先輩は結局何しに来たんですか?」
「あ、そうだ。少し話があってな。忘れるところだった」
「それなら上がって下さい」
「ん? いいのか?」
「わざわざこんな暑い所で話さなくてもいいでしょう?」
「そうだな。じゃあ、飲み物も頼むぞ」
「少しは遠慮してくださいよ」
「遠慮って……ヒロ君は私が脱水で死んでもいいのか?」
「そういうことじゃなくて、そういうのは自分から要求するものではないというか。慎んだ方が良いのではないかというか……」
「そうなのか? でも私は喉が渇いているんだが……」
「そうね。それも大事なことだと思うわ。ちゃんと思ったことは言わないと。ヒロも女の子に意地悪言わないのよ」
最早何も言うまい。
「まあいいですよ。どうぞ」
「お邪魔します。ヒロ君の部屋どんなのかな? 楽しみだな」
「俺の部屋? リビングに決まっているでしょう?」
「ええ? 何で?」
「いいじゃない。ヒロ。あなたの部屋でゆっくり話せば。そっちの方が私に気兼ねしなくていいでしょう?」
「そうですよね? じゃあヒロ君の部屋に行こう!」
こうして半ば無理やりに先輩は俺の部屋に乗り込んできた。麦茶を運んできた母さんの顔が少し意味深に笑っていたが、気にしても仕方ない。
先輩は俺のベッドにどっかりと腰を下ろしている。
「いいお母上だな。とても明るくて親切で」
「ちょっとお節介が過ぎますけどね。完全に勘違いされていますよ。先輩のこと」
「まあいいんじゃないのか? 私は何も被害は受けないからな」
俺は大きく溜息を吐いた。
「そうですね。どうせ茶化されるのは俺ですから。で? 何の用ですか?」
「勿論あれだよ。女子大生殺し。一昨日あっただろ。それについて話に来たんだ」
やっぱりかと俺は思った。
先輩は名前を三咲蔵玲子といった。大学で俺と同じ学部。一年先輩の女子大生である。
俺が入学当初、校内で道に迷っているときに手を差し伸べてくれたのが先輩だった。それ以来ずっと付き纏われている。
先輩の夢はジャーナリストになることらしい。
その為か、昨今県内で発生している女子大生殺し事件に大きな興味を持ち、独自に調べているのだ。
半ば探偵の様な事をしているが。
俺は危ないからよそうと何度も言ってきた。先輩も女子大生なのだから危険が伴うかもしれない。
だが俺の忠告など先輩はどこ吹く風。寧ろ俺も協力されてしまっている。
「俺は嫌ですよ」
「何が? まだ何も言ってないよ?」
「どうせまた嗅ぎ回ろうっていうんでしょう? 先輩もいい加減自覚してくださいよ」
こういうのも何だが先輩はとても美人だ。高校時代陸上でならしたという体は非常に引き締まって美しく映る。誰が見ても魅力的な女性だろう。度天然な中身以外は。
「私が狙われたらってことをヒロ君は心配してくれているのかな?」
「そりゃあするでしょう? 相手はもう何人も殺しているんだから。まだ被害者は出てくるだろうし」
俺がそういうと先輩は笑顔を見せた。
「ふふっ。ありがとう。でも心配ご無用。あんな犯人コロッと伸しちゃうから」
実際、先輩の腕っぷしは強い。頼りになるレベルではあるが……
「それでもやっぱりね」
「だから、いつもヒロ君に同行願っているんじゃないか」
俺は大きく首を項垂れた。
やはり分かってくれることはない様だ。俺など恐らく何の役にも立たないというのに。
「そうですか……じゃあ、何調べに行くんですか?」
「ん? 今日はもういいよ。昨日私なりに調べた。主に今回の被害者の事だけど」
先輩の行動力には恐れ入る。卯月といい先輩といい俺の周りの女の子はどうしてこうも行動的なのか。
俺は完全なインドア派であるというのに。
「聞きたい?」
「別に。ニュースで散々言っているじゃないですか? 被害者の名前も住んでたとこも。通ってた大学も」
「失敬だな。ヒロ君は。この三咲蔵玲子がそんな分かり切った情報ばかり並べ立てるとでも思っているのか」
「じゃあ、どんな情報があるんですか?」
俺がそう聞くと、先輩は待っていましたとばかりにニヤリと笑った。
「被害者の名は仰木由香里。県内の私大S大学に通ってる二年生。ここまではヒロ君も知っているわけだ」
俺は軽く頷いた。先輩は話を続ける。
「専攻は教育学。同級生からの評判も良くかなりの美人。写真見る?」
俺は美人といわれ好奇心に勝てなかった。故人には悪いと思いながらも、先輩が差し出した写真を手に取る。
「へえ。凄い」
そんなつぶやきが出てしまうほどの美人だ。この事件の一連の被害者は皆そうなのであるが。
「そう凄い美人。サークルは書道部。初段の腕前らしいわ。運動は得意な方ではない。身長は159センチ、体重が47キロ。スリーサイズは上から87・59・85。ナイスバディよね」
「……いつも思うんですが、どこからそんな情報が出てくるんですか?」
「被害者の同級生とか友達とか? こっちも女だからかな? 結構話してくれるの」
先輩は話を続ける。
「彼氏はいない。友達は気になる人がいるって話は聞いてたみたいだけど、詳しいことまでは知らない。まあ、そんなところかな。やっぱりこの子も他の被害者との共通点。そこから外れることはないね」
「そうですね。被害者は美人。スタイルもいい。あまりスポーツなんて嗜むタイプではなく肌は色白。見たまま御淑やかって感じですよね」
「そう。完全に犯人の趣味趣向が出てる」
「まあ男として別に不自然でもない趣味だと思いますけど」
「趣味で殺されたら堪らないと思うぞ?」
「そういう意味じゃありませんよ。女性を見る上での趣味です。ごく一般的かと」
俺がそう言うと先輩はやれやれとでもいう風に首を横に振った。
「じゃあさ。ヒロ君はその写真の子から好きだって言われたら嬉しい?」
そう言われて俺はもう一度写真を見た。
「ひっくり返りますよ」
俺がそう答えると先輩は徐に自分を指さした。
「じゃあ、私に言われたらどうだ? 中身は無しだ。外見だけで判断してくれよ」
俺は少し戸惑ったが、
「それは……嬉しいですよ」
「ほらやっぱり。男の子は可愛ければ何でもいいものじゃないか」
俺は少し呆れて溜息を吐いた。
「先輩。自分が可愛いって自覚しているんですね」
先輩はそう言われて、少し気怠そうに頷いた。
「今年に入ってからも、いったい何人の男の子に告白されたと思っているんだ? 私といえども疲れるんだ。後を引かない様にと断っていくのは」
いつも元気な先輩ではあるが、この時ばかりは本当に疲れている様にも見えた。
取り敢えず俺は話を戻した。
「いやまあ。それはいいとして。今の質問に何の意味が?」
「ヒロ君は本当に鈍いな。普通ならその程度の趣味趣向は時と場合によって変わるってことさ。実際その子と私じゃタイプが違い過ぎるもの。でもこの犯人は同じ様な子を見つけ出しては殺しているの。これが異常でなくて何なの? 執着心が凄すぎると思わない?」
「まあ、言われてみればそうですよね」
俺は軽く頷いた。
「だから私は狙われない。私は肌も日焼けして黒いし、体が締まってこの子みたいに柔らかそうでもないし、胸も無いもんね」
先輩はそんなことを言いながら胸を張った。
「結構自虐的ですね」
「私は今の自分が好きだからな。別に今のだってここまでの共通点との私の違いを言っただけだ。別に自虐的じゃないよ。胸が無くても気にすることなんてないだろう?」
強がりながらも、どこか悔し気で興奮気味な先輩はどこか可愛く思えた。
俺は軽く頷き、
「まあでも気を付けるのに越したことはないですよ」
「……まあね。ヒロ君は優しいなあ」
先輩は少し落ち着いた様子で軽く息を吐くと。
「しかし、私の心配より、もっと考えなければいけないことがあるんじゃないのか?」
「何ですか?」
「噂の幼馴染だよ。話を聞く限りじゃ、結構犯人の趣味に合っていると思うがな」
「卯月の事ですか? あいつは御淑やかなんて柄じゃないですよ。活発で、どちらかというと先輩タイプです」
俺がそう言うと、先輩は首を横に振った。
「卯月ちゃんというのか? 甘い甘い。それは中身の話だろう? 色白で美人でスタイルもいい。条件は揃っているじゃないか。これまでの殺人でも犯人の情報は殆ど出てきてない。多分、犯行は計画的ではあるが標的は決まっていない。中身の確認なんてしてないと思うからな」
「そうですかね。でもあいつ、あんまり可愛い恰好とかしないし、いつもジーパンにパーカーとか何かミーハーみたいな格好してるから大丈夫じゃないですかね? スカートなんて間違っても穿きませんよ」
「……私も似た様な格好だが、そんな風に思っていたのか?」
「えっ、いや、冗談ですよ」
先輩こそミーハーそのものであると俺は思うのであるが、少し気に障ったらしかった。
「まあ、いいや。でも分からないじゃないか。その程度」
「その程度ですか?」
「ああ、その程度の趣味趣向なら時と場合によっては変わるかもしれないぞ。殺しに縛りがある訳じゃない。あくまで犯人の趣味だ」
俺は少し考えさせられた。確かに先輩の言う通りであろう。
「考えてもみなよ。可愛い幼馴染が辱めを受けてその上殺されるんだよ。嫌じゃない? 怖いじゃない」
「まあ、そうですよね」
「じゃあ、ちゃんと守ってあげないといけないぞ」
先輩はそう言って、俺の肩をポンと叩いた。
「よし。じゃあ、帰る」
先輩はそう言ってベッドから立ち上がった。
「帰るんですか?」
「そうだよ。寂しい?」
「いや……いつもみたいに無理やり助手をしろとか言いに来たのかと」
「いや、今日はヒロ君に幼馴染のことを気を付けてやれって言いに来たんだ。助手なんてしてたらそうもいかないだろ? 実際見たけど、あんな可愛い子そうはいないよ」
「……どこで見たんですか?」
「今朝、この家から出て来たよ」
俺は先輩の言葉に驚きを隠せなかった。いつからいたんだ? この人。
「おかしいじゃないですか? 先輩、さっき昼過ぎに来たんですよね?」
「そうだな。近くまで来たけど、どの家か確信が持てなかった時に、この家の玄関から、その幼馴染が出て来たんだ。だから家を尋ねたんだよ」
「話までしたんですか?」
「家を聞いただけだよ。ヒロ君の家はここかってことの確認だけね」
「……卯月どんな顔してました?」
「ん? 何かニコニコしてたかな? 愛想のいい子だよね」
どうやら先輩は卯月にもばっちり勘違いをされて来たらしい。
「で? 何で直ぐに来なかったんですか?」
「その子が今は何か大掃除中だから後にした方が良いですよって言うからな。ちょっと時間を潰してきたのさ」
「家聞く以外の事も話しているじゃないですか」
「違うぞ。これは勝手に向こうが言ったんだ。私は聞いてないよ」
「そうですかね……怪しいな」
「そんなことないさ。余計なことなんてしてないよ。けどな……」
「けど何ですか?」
俺の問いに、先輩は少し答えにくそうに首を傾げた。
「あの子は少しヒロ君には勿体ないと思うぞ」
「……帰って下さい」
「何で怒るの?」
「今までの話とそれとは関係ないでしょう? それにそんなことは言われるまでもなく承知していますよ」
どれだけ自覚していても、こうもはっきりと言われると、それはそれで傷付くものだ。
それに俺は卯月の事をそんな風には……
「ヒロ君も結構自虐的だよね? だからお互い気が合うのかな? 自分に対して開き直っている者同士」
「あのね。直ぐに話を逸らすのやめてくださいよ。もう用は済んだんですよね? さあ、帰ってください。どうぞ」
「分かったよ。帰ります。そんなに怒らないでよ」
いったい誰のせいだと思っているのであろうか?
「じゃあ、家の前まで送りますよ」
「本当? やっぱり優しいな。ヒロ君は」
「ちゃんと帰ったか確認する為ですよ」
「……優しくないなあ」
俺は先輩を先導する様に部屋のドアを開けた。
「あ、あら?」
俺がドアを開けたことに対して、何故かその場にいた母さんが驚いた様子を見せた。
「母さん、何してんの? ……先輩もう帰るらしいから」
「あら? そうなの……」
その後、一瞬の間があったが、そこで母さんは俺がある疑いを持っていることに気付いたらしかった。
「ち、違うのよ。別にあなた達の話を聞いていたわけじゃ……」
「そうですか……お母様、すいません。私が急にお邪魔したせいで余計な心配をお掛けしてしまって」
「もう先輩は黙ってて貰ってもいいですか?」
「本当に違うのよ。ヒロにもう一人お客さんが来たから。知らせに来たの」
「今回も卯月じゃないの?」
母さんは縦に頷いた。俺に対して、一日のうちに卯月を除いて複数人のお客があるなど本当に珍しい。
「誰? 母さんも知ってる人」
「ええ。相川君よ。同級生の」
俺はその言葉を聞いてドキッとした。
相川と言えば、一昨日一緒に神社に行って、その時に確かとある約束を……
どうやら完全に真に受けてやって来た様だが、肝心の卯月は今日に限って来ていない。
しかし、だからといってお引き取り願うわけにもいかないだろう。暑い中せっかく来てくれたのだ。多少のもてなしはあって当然だろう。
もしかしたら、この後、宇月が来ないとも限らないし……
まあ、とにかく先輩には早くお帰り願うことに限るだろう。
「じゃあ、先輩。俺、友達が来たみたいなんで、早めに……あれ?」
俺の振り向いた先には、何故か先輩の姿はなかった。ゆっくりと母さんの方に向き直す。
「……先輩は?」
母さんは首を傾げると、
「ヒロが少し黙ってる間に、お辞儀だけして階段降りて行ったわよ」
どうやら、今俺が早急にするべきことは先輩を追いかけることらしい。
俺は急いで一階へと降りた。しかし……
「おおお……べーやんか」
時は既に遅しというやつだった。
「この美しい女性は……まさかべーやんの……」
相川は意味が良く分からないが異様に動揺していた。
先輩はこっちに振り向き、にっこりと微笑んでいる。
「そんなんじゃねえよ。先輩だよ。大学の」
「へえ。友達相手だとそんな高圧的な口調になるんだな。ヒロ君は。知らない一面だ」
「それ、今は必要ない話でしょう?」
「何て親しそうなんだ……」
相川は両手で顔を覆ってしまっている。
「お前は勝手に想像するなよ……」
「はっ……まさかご利益が?」
「ん? 何だ? ご利益って?」
急に会話に飛び出した不自然なワードに先輩が飛び付いてくる。が、ここは放っておくのが吉だ。
「何でもないですよ。つまらない話だし、話せばそこそこ長いです」
「それをつまる話というんじゃないか。私は是非聞きたいぞ」
俺は取り敢えず、それに関しては無視することに決めた。
先輩はその後も少しの間聞いてきたが、俺が何も答えないでいると流石に諦めたのか、問うことをやめた。すると今度は相川の様子が気になってきたらしい。
「なあヒロ君。彼は何でさっきからあんな様子なんだ?」
先輩が小声でそう尋ねてきた。
相川は相変わらず両手で顔を覆ったままだ。
「先輩が俺の彼女とか……そんな風に邪推してショックを受けているんですよ。多分。感受性の強すぎる奴なんで」
「そうなのか?」
小声でそう言うと、先輩は相川の方に向き直り、
「なあ君。私はヒロ君とはそういう関係ではないよ。ヒロ君の言う様に先輩後輩」
先輩の言葉を聞き、相川は少しだけ両手の間から目を出し、俺の方を見た。
「そうなのか? ベーやん」
「そうだよ。言った通りだろ?」
「そうそう。それに私はどちらかと言えば、ヒロ君よりも君の様な体育会系の男の子の方が好みだぞ」
それを聞いた相川はそれまでの様子から一転、目を輝かせた。完全復活とでもいう様子だった。
だが、正直この発言には俺も驚いた。
「本当ですか!?」「マジですか!?」
相川と俺は同時に驚きの声を上げた。
先輩はやれやれとでも言いたげに頷く。
「何だ? ヒロ君ショック?」
正直に言うと、かなりショックだった。
先輩が好きだからというのではなく。ある程度、付き合いも長いと思っていた先輩に相川との比較で負けるとは……
悪い奴ではないのであるが、こいつの女性への誠実さという意味では……
「言いたいことは分かるよ」
先輩が俺の心を見透かしたかの様にそう呟く。
相川は嬉しさが抑えきれないといった様子で、何か呟いている。
「私が言ったのはあくまで好みだよ。その時々で変わってしまう様な軽いもの。まあ、確かに彼は……」
先輩は少し苦笑いをした。
「リアクションに必死さが混じっているな。そういう意味では少しあれだね。分かる、分かる」
だがそこまで言って、先輩はニヤリと笑った。
「こういう子も嫌いじゃないよ。扱い易いから。ヒロ君、この子借りていい?」
「借りるですか? それってどういう……」
「別に変な意味じゃないよ。でも上手くいけば、暫くの間はヒロ君に手伝って貰う必要もなくなるかも……」
「じゃあ、どうぞ。お貸しします」
俺の答えを聞き、先輩は相川の方を向き直った。
「ねえ? 君。名前は?」
先輩の問いに相川は即座に答えた。
「姓は相川。名は洋二。歳は二十歳になりました! よろしくお願いします!」
「相川君だな。よろしく。ところで相川君はこの夏暇かな?」
「勿論! オールタイムフリーです!」
「暇って、お前。受験勉強は……」
「ベーやん!」
「暇なんだ。良かった。じゃあ、女子大生の連続殺人事件。あれに対してどう思う?」
「とんでもない事件です! 絶対に犯人を許すわけにはいきません!」
「そうだよね。うん。良いね。君。じゃあね。少し私を手伝ってくれないか?」
「勿論喜んで! 先輩のお供でならたとえ火の中水の中!」
「お前、卯月の事は……」
「ベーやん!」
相川の目は頼むからもう黙っていてくれと言わんばかりであった。ギラギラしたものを感じる。
「じゃあ、さっそく話を聞いて欲しいな」
「そうですね。近くの喫茶店ででも話しましょうか。行きましょう。こんな暑い所で話す必要はないですよ」
「どういう意味だよ?」
俺の言葉に、相川は上目遣いでニヤリと笑った。正直、心底鬱陶しさを覚えた。
「それがいいかもな。それじゃあ、ヒロ君。邪魔したね。行こうか。相川君」
「そうですね。先輩」
二人は俺の別れのあいさつを待つでもなく、足早に玄関から出て行った。
つくづく、女性というものは恐ろしい……
しかし、あの先輩でも女の子という武器をああも使っていくとは、正直イメージとは違った。俺の知らない先輩の一面というやつだろうか?
「あら? もしかしてヒロ、振られちゃった?」
今度はどうやら本当に盗み聞きしていた様子の母さんがそう話し掛けてきた。
「いや……先輩は元々、そういうのではないし……それに、相川は苦労すると思うけど……」
先輩の行動力、そしてなかなかの傍若無人ぶり、俺が知りえて、相川の知らない情報。
正直、相川が付いていけるかどうかは、少し心配になってしまうところだった。
「俺、少し見送ってくるよ」
俺はそう言って家の外に出た。
玄関を出て右。西の方角に二人の後ろ姿が見える。相川は本当に嬉しそうに身振り手振りを交えながら先輩に話し掛けている。そんな様子だった。
「何なの? あれ」
二人を見送る俺の後ろで突然、そう尋ねる声がした。
振り向いた先にいたのは妹の美紀だった。
「何あれって……俺の友人二人だよ。……それより、お前こそなんだよ? それ」
俺が気になったのは、美紀が胸に抱いていた一匹の動物である。
「何って、猫だよ。見て分からない?」
美紀の腕の中でその猫は、
「にゃあん」
甘える様な猫なで声で一度だけ鳴いた。
ありがとうございました。
次章もよろしくお願いします。




