妻ですが何か
砦じゅうを巡ったハイネスがやっとリラを見つけた時には、既に手遅れだった。
リラはお茶の入ったワゴンを押して、応接室の扉を開けたところだった。
突然お客様が来たらしいと聞いたので、リラはメイドとしてお茶を出さねばと思ったのだ。お茶出しはメイドの使命だ。というかここの騎士も兵士もティーカップの存在を知らないだろう。お客様にお茶を出すときはカップにソーサー、ティースプーンにミルク、オプションが沢山あるのだ。だいたいリラ以外の淹れたお茶はクソ不味い。皆がお茶でなく井戸水を直飲みしていたのは、水が好きだからではなく、お茶が不味いからなのだ。わざわざ手間をかけて不味い水にするくらいならそのままの水を飲めば良い。真理は身近にある。
お茶菓子は予備にいつも隠し持っているクッキーがある。どこに隠しているかはリラしか知らない。これはうっかり居残りさせられたり何かで、週に一度のお楽しみのお菓子を食べ損ねた領兵に渡すための予備だ。食いっぱぐれたらこの世の終わりみたいな嘆きをするので、必ず用意している。大人の男がクッキーひとつでぐずる姿は見ていられない。
そんなわけで応接室に踏み込んだリラは、こちらを向いて青い顔をしている領主の細かいハンドサインがわからず、楚々としてお茶の支度をはじめた。
客人はメイドに構わず会話をしている。身分の高い人なのだろう、護衛が四人もついてソファの後ろに立っている。聞いたことがある声だな、とはちょっと思ったが、茶葉がちゃんと開く時間を測るほうがリラには重要だった。蒸らし時間を測り終えて、お茶を綺麗に磨いたティーカップに注ぐと、お茶のいい香りが漂った。ゴールデンリング。合格だ。満足のいく出来である。
「……ですから、こちらは国境を侵すつもりはないのです。探し人を見つけ次第、すみやかに撤収することを誓いましょう」
「この数ヶ月、幾度となく境界を越えてきた貴国の言葉とは思えませんが」
今日の領主はすこぶる機嫌が悪いなあと背中で声を聞きながらリラは思った。声の低さはリラが聞いたこともないほどだ。多分眉間の皺も山脈級だろう。相手のお客様はよくチビらずに話をしている。もしかして勇者かもしれない。
勇者はどんな顔をしているのか。
興味本位でお茶を出しながら、ほんの少しだけ客の顔を覗き見た。つもりだった。何故か最接近したタイミングでメガネ越しに目が合ってしまった。
「リヴィアディラ!」
かつてリラがそう呼ばれていたこともあったと思い出したのは、配膳を終えてワゴンを片付けて退室しようとした時だった。素で勇者の声かけを無視していたことになる。仕方なかった。ずっとリラと呼ばれていて、今更そんな名前が自分のことだと本気で忘れていたのだ。
やっと自分の名を呼ばれたのかと気がついたリラは、退室寸前で勇者に向き直って小首を傾げる。
「どちら様でしょうか?」
リラの顔をみて口をぱくぱくさせているのはかつてリラを追放した王家の第二王子、クリオスフィート殿下。金色の髪と緑の瞳が相変わらずキラキラしている。だがリラはいくら勇者が王子でキラキラしていようが、かつて濡れ衣を着せられたことを許したわけではない。だいたいリラはここではメイドである。主を差し置いて急に声をかけるなど領主に対して無礼ではないか。そういえば後ろに立っている護衛は近衛だ。被服部屋にいたときに袖の刺繍をしたことがある。襟もやった。肩章も。そして国境でリラを斬って川に落としたのも。顔は覚えていないが。興味がなかったので。
クリオスフィート第二王子は立ち上がると、リラの方につかつかと歩み寄ってその腕を掴んだ。
「生きて……おまえは……」
怒りというか憎しみというか、至近距離でたちの悪い感情を浴びせられて、掴まれたリラの腕がびくりと跳ねる。容赦なく掴まれた腕はギリギリと痛んだ。キラキラが台無しである。王子からキラキラを抜いたらただの勇者だ。
「彼女に触れないでいただこうか」
地の底から響く低音とともに領主がリラとクリオスフィート王子の間に割り入った。目の前に岩の壁が生えたようだ。視界が一気に暗くなる。
流石の勇者も、リラから手を離した。
ひんやりとした冷気を放つような威圧感。なのにリラは何故か安堵していた。
「貴殿はご存知ないかも知れないが、これは私が探していた女です! 罪人は裁かなくてはならない。こちらに渡してもらおう」
クリオスフィート王子の怒声などケインのそれに比べれば子犬の戯れ声でしかない。重低音の格が違う。
「人違いでしょう」
可聴領域ギリギリの低音で、唸るように領主が言う。
「彼女は私の妻です」
冷たかった部屋の空気が、ぱっと凍ったようだった。
間抜けな声を出さなかったリラを誰か褒めるべきだと思う。早く誰かに褒めてほしい。気の弱い深窓のご令嬢ならふらっと倒れていたところだ。その頃扉の向こうで踏み込むタイミングをはかっていたハイネスは、声を出さずに爆笑していた。
そろそろと薄氷を踏み抜かぬように、出来るだけ気配を消してリラは扉を開けて退室した。
扉の側でハイネスがこっそりと、あとは任せてと片目を瞑り、リラの背を押した。目尻には笑いすぎて涙が滲んでいた。
第二王子一行を押し返したあとの砦は、領主の結婚祝いの歓喜で覆われた。




