バレンタイン・イフ
【番外編】
バレンタインだし、500文字くらいで何か書くか。そう思っていたら四倍になっていた。何を言っているかわからないと思うが、筆者も何でこんなに書いてしまったのかわからない。やることあるのに。
今回は本編の起の部分において、主人公がある選択をしてしまった場合のイフである。よって、本編には一切の関係がないことに注意してほしい。
今日はバレンタイン。つまりただの平日だ。
冬の寒さもまだ消えず、大学もないから電気代が余計にかさむだけ。窓も結露するものだから、窓のレールに洗濯物をかけておくと洗濯ものが濡れてしまうのも困りもの。彼女は昨日、それで泣く泣くワンピースをキャリーケースにしまっていた。
おかげで、冬特有の斜陽が嫌というほど瞼を焼く。抗議の唸りとともに体を起こしスマホを確認すると、まだ朝の七時だ。
「あと一時間……」
「だーめ、もう起きるのー」
頭を小突かれる。あんなにも煩わしかった太陽の光が消える。
見上げれば、彼女が窓を背にして立っていた。逆光になった彼女の髪が、オーロラみたいにキラキラと光って見える。いつものスウェットにエプロンをつけた彼女はなぜか得意げで、僕は違和感に気づく。
「あれ、そういえばなんで起きてるんだ?」
「さぁ、何ででしょう?」
「それに、料理もしないくせに何でエプロン?」
「むぅ、失礼な。最近は頑張ってるでしょー」
僕の上に馬乗りになって、彼女は僕の頭をぐりぐりとする。痛い痛いと反応してやると、彼女は一層楽しそうにぐりぐりを続けてきた。実際そんな痛くないし、むしろスウェットの襟元がたるんでいて眼福だった。
しかし、不思議なことは不思議なまま。朝に弱い彼女が、こんな朝早くに起きているはずはなく、僕の日常は隣で寝ている彼女を起こすことから始まるのが常である。そして、ただでさえキッチンに入らない彼女が朝にエプロン姿などもってのほかだ。
その時、何か甘い香りのすることに気付いた。
「あ、そろそろ気づいたでしょ」
「気づいたって、なんか匂うんだけど、それのこと?」
「言い方がひどい。食べさせてあげないよ?」
何を、とは聞く必要がなかった。ぶーたれた彼女がどくと、テレビの前の丸机に答えはあったからだ。
潰れた円筒状で、表面がてかてかと黒く光る、それはチョコケーキ。昨日まで冷蔵庫に材料すらなかったのに、魔法のようにそれはあった。
「どうしたの、あれ?」
「そりゃあ作ったんだよ、私が」
「嘘つけ、材料も技術もないじゃん」
「じゃあ、魔法で作ったんだよ」
ようにではなく、魔法だったらしい。随分お粗末な魔法だったようで、共用のエプロンには昨日までなかった黒い汚れがついている。
彼女は僕の背中をぐいぐいと押す。そうしてベッドからずり落ちるようにして食卓に着いた僕の前に、小皿とフォークが突き出された。取ろうと手を伸ばすと、なぜか引っ込められる。
「やっぱ、食べさせてあげようか?」
「いいよ、そんな恋人みたいな」
「だよねー、きみ、私のことキライだもんねー?」
なっはっはと笑いながら、彼女は小皿とフォークを僕の前においてくれる。そして、用意してあった包丁を、ケーキに差し込む。
「いや、均等に切りなよ」
「いいでしょー、作った人特権ー」
切り分けられたケーキは、当然の如く僕の方が小さい。近くで見ると表面のチョコにムラがあって、断面も微妙に生焼けのようで。どうやら本当に手作りらしい。
彼女の手作りは、もう半年以上一緒に住んでいるが初めてだった。
「どうしたのさ、一体」
「わかってるでしょ、今日はバレンタインだよ?」
「あぁ、なるほどね」
「そ、これはね……?」
義理チョコだよ。
義理チョコ。恋人へチョコを贈らせようという商売戦略が高じた、関係を取り持つための女子の社交術。それは、僕らの関係にとっても相応しい感じがした。
二人でいただきますと言って、口に運んだケーキはほろ苦かった。僕の嫌いな味。向かいに座った彼女は組んだ両手に顎をのっけて笑っている。
「小さくて良かったでしょ?」
「最初から苦くすんなよ」
「なっはっは、ごめんごめん。それよりさ――」
彼女は腕をほどくと、滑るようにして僕の隣に来る。肩が触れた。そのまましなだれかかって来る彼女。耳元に彼女の吐息。こそばゆい。背筋をぞくぞくとかけあがる、感覚。
「さっき、大きくしてたでしょ」
「なっ、ばっ!」
思わずケーキを吹き出してしまう。彼女はそれなりぱっと身を離し、「汚いなぁ」なんて笑っている。思わず睨んでしまうが、事実だからどうしようもない。おとなしく吹き出した食べかすを拾い集めるしかなかった。
そんな僕を机に突っ伏して見上げながら、彼女は何となしに言う。
「ねぇ、それじゃさ。今日もシよっか」
「だから、食事中にからかうな」
「えー、からかいじゃなくてさ」
彼女はこてんと首を傾げ、「ね?」と上目遣い。僕はしばらくそれを受け止めて、やはり掃除の手を再開する。
「やだよ、シない」
「えー、いいじゃーん」
「僕は、目の下にクマを作るような女は嫌いだ」
彼女は自分の目の下に手をやり、徹夜明けかのようなクマをなぞる。見えてもいないだろうに、わかったように「あっちゃー」という彼女に、ぶっきらぼうに寝るよう言った。彼女はなんだかんだと言っているが、どうせ食べ終わってゴロゴロとしているうちに寝てしまうだろう。
そして僕は、この明らかに量の多いケーキを処理しなきゃいけない。あまりの憂鬱にため息一つ。
今日はバレンタイン。つまりただの平日。今日も今日とて、甘くただれた二人暮らし。