現代に必要とされる物語とは?
ここ最近、私の周辺ではどうも忙しさのストレスなのか、遣る瀬無く感じる事が多くありましたので、今回は心を癒やす物語というテーマを考え、エッセイを書いてみようかなと思っています。
どうしてこのテーマになったかと言いますと、最近は私はこんなことを思いました。
『人は幸せになるために社会を作り、文明を発達させて利便性を追い求めたはずであり、電子機器の恩恵で世界が小さくなって、人々は互いに容易に繋がりを持てるようなって孤独を感じなくて済む様になったはず、なのにどうして現実世界はこんなにも笑顔の少ない世界になって、多くの人が孤独を抱え苦しいと感じるのだろうか』
この自らの問へ私がアンサーを返すのなら、現代が格差社会でストレス社会と言われていることに有ると思います。
文明の発達や電子機器の発達で、人との繋がりが評価的な数値や優劣に左右されるようなり、精神的な閉塞感を感じる事が多くなり、立場や地位を傘に他者をストレスの捌け口にするような人が増え、ネットの匿名性という立場を傘にした負の感情の投棄が増えたからではないか?などと思うのです。
人間はストレスで余裕が無くなれば我が強くなり、そこまで我儘で思いやりのない生き物になれるかと驚くこともしばしばで、先人が残した『人は忙しいと書いて心を亡くす』という、その言葉の意味を嫌でも理解してしまいます。
そうした気付きは他人の有り様だけでなく、時には自己に見られる部分もあり、その度に人の心を無くしたくないと考え反省し、笑顔を絶やさぬように気をつけ、優しさを忘れぬように気持ちを落ち着かせるようにしています。
ですが、そう思って気分を変えようと余暇にネットを見ると、そこまで間違いでも無い人や、見当違いでもない言葉を小馬鹿にするような態度でこき下ろしたり、逆に自らが間違っていても正しいと盲信した人々や言葉が溢れています。
そうした行動をする方は、窘めてくれる相手に喧嘩を売るように強くあたったり、そもそも人を馬鹿にしてマウンティングしたいだけの態度で他人を傷つけていきます。
これらの一部の心を亡くした方が行う、誰かにストレスを押し付ける行為は、顔が見えないからリアル以上に醜く、彼等の吐き出した負の感情が澱のように電子空間と自分の心に残っていき、遣る瀬無い心が余計に腐っていく様に感じてしまい、ネットを開くのが億劫になったりもします。
リアルの傍若無人な人間に驚いて、ネットで暴れる人種の嫌な部分を見せつけられるという、まさに人間嫌いを助長するような社会で、こうした人種から与えられるストレスを上手く受け流す解消法があるとすれば、私個人としては日常で会う全ての人に出来るだけ笑顔で話しかけることだと感じています。
例えば買い物をした時、自らが丁寧な言葉で笑顔で店員さんに話しかけると、彼等は素敵な笑顔で丁寧に送り出してくれますので、とても気分良く店を出ることが出来ます。
病院でお世話になっている看護師や理学療法士さんでもそうです、彼等の何気ない行動に感謝を述べたり、彼女達のちょっとした趣味や髪色の変化に気付き、私が好意的な話題にすると相手も自分を好意的に覚えてくれて、色々と相手も気を使ってくれたり、時には冗談を言い合えるような仲にもなれます。
こうした経験から、優しさや好意というのは自分と他者の中で無限に再生産されるものではないかと感じていますが、私はどちらかと言えば口も達者で初対面でも物怖じせずに人に話しかける方ですから、やはり恥ずかしがり屋や人と話す事が苦手な人も居るでしょう。
全ての人に私のように振る舞えと強要する気はないですし、なろうという世界に触れて自らが作者として活動するようになったからこそ、疲れた方々に私が何かできる事、人の心を癒やす物語や人に優しくなれる物語はなんだろうかと、深く考えるようになったと思います。
そうした中、なろうには色々な物語が有って、日々沢山の方がそれぞれの思いやスタンスを持って利用していますね、例えば明るく楽しい物やスローライフ的なゆるいお話、色々と考えさせられる作品、勉強になるエッセイなど、多くの作品がどなたの目にも触れる様に広がっています。
この多くのなろうにある作品で、心が疲れた時に読む良いものはなんだろう?リアルが辛いから明るく楽しい物語?それともリアルで疲れているからまったりスローライフ?
私の考えた結論から言えば、基本的に楽しいと言える間はそう言った物語を楽しんでいるのが良いと考えますが、過剰な攻撃に晒され疲れた心では、楽しいはずの物語やまったり出来るはずの物語が楽しめないと感じるようになるかもしれません。
残念な事に、疲れた心には楽しい物語というのは時として猛毒たり得るので、そういった時に読むとつまらない、醒めてしまうと感じるでしょうから、暫くはそう言った物語から離れた方が良いと思います。
楽しい物語の多くは成功体験ばかりの物語であり、要するに成果を出す強者を追体験して何かやった気になるようなお話で、貴方自身が辛い時に楽しそうな声や、幸せそうな行動に疎外感を感じたり、悲しい時に苦痛を感じるのは当然で人の性なのです。
明るく楽しい事を楽しむというのは、実はとても大きな心のエネルギーを使いますから、人は本当に打ちのめされ疲れてしまった時、辛い時に無理に読むと楽しい物でも苦痛に変わります。
元気な時はそういった物が素直に楽しめますけれど、まるでリア充がウェーイしてるのを見てるようで疲れてしまうとか、簡単に苦労なく成功するスローライフがうそ臭くてイライラする、そんな風に感じてしまうなら、貴方の心は酷く疲れていて慰みになる物語を求めていると思います。
そういった時は心が無理なく読める、心の閾値にあった物語を選ぶのが大切であり、疲れた感情を揺さぶる物語や、傷ついた心の慰めとなる物語など、人間的な感情の伴った物語を読んで誰かを思いやったり涙を流す事で心の緊張を解消したり、凝り固まった心を共感で動かしてケアする方が良いのかもしれません。
我々人間は生まれ落ちたその時から、誰かの心の痛みに共感して思いやる事が出来る、感受性という素晴らしい本能が備わっています。
現実に打ちのめされて疲れ果てた心には、感動する話や悲しい話は深く浸透して感受性を刺激しされ、ストレスで辛く乾燥した心を涙で洗い流す事が出来ると学術的な研究結果も多くあります、もし貴方が辛い感情を抱いているのなら一度試して見るのも良いかもしれません。
私はそうした感受性の観点から、誰かに優しくなれる物語や誰かに優しくしようと思える物語が現代は必要なんじゃないか?と、ストレスを他人ぶつける人々にはけ口として理不尽を言われ、傷ついた会社の若手の背中を優しく押しながら考えました。
彼らが叱られて落ち込んだ時、誰かの優しさに触れて感動したり、同じ苦しみを分かち合うことで心が解きほぐされて自然と涙を流すように、物語もまた誰かに寄り添う優しさを持って、誰かの心を癒せるのではないかと思ったのです。
人というのは高度な社会性を維持するために、本能として誰かと分かり合いたい、幸せを分け合いたいと願う思いやりを持って生まれてきます。
他者に自らのなにかを分け与えありがとうと言われ自然と笑顔になったり、他者から与えられた時に感謝したりするのはその査証で、生まれて間もない乳児にすらある感覚です。
失敗だって、AIでは再現することが出来ない脳が持つ不思議な可能性の欠片、そうした視線でもって辺りを見渡せば、世の中には失敗や間違いの中から多くのモノが生まれてきているのですから、失敗をする人が愚者でも敗者もなく、そこから何かを学ばないのが真の愚かな行動なのです。
脳というのは私達が死ぬまで成長してゆくのだと、最新の脳科学だって証明してくれた時代、私のようなおっさんだって、なろうで他者から与えられた何かを吸収し、日々少しずつ学んで成長を感じることが出来ます。
でもやっぱりおっさんですから、若い方よりはちょっとばっかり歩みは遅いかもしれませんけど、何処にでもいる学のない冴えないおっさんでも可能だって言われると、貴方だって不可能じゃないって思えたりしませんか?
全ての人間は生きてく中で様々な経験で成功と失敗を繰り返し、何が良い事で何が悪かったのかを一つ一つ学んで知らねば何一つ出来やしない、そうした道のりの中で人は何度も躓き、時に悲しみ苦しみの中、涙を流して成長していくのだと思います。
そうした人生という学習を社会が最初から許さないのであれば、この世は成功することしか許されず、誰もが勝者を目指し知らない誰かを蹴落としてでも成功を望む、まさに鬼が笑う地獄だと、私は強く感じています。
目まぐるしく息苦い忙しさの中でも時には立ち止まり、他者に打ち勝ってその先を目指す様な、刹那的な楽しさを求める世界だけではなく、時には優しさでもって誰かの悲しい世界に目を向けて、誰かの痛みに涙を流したり誰かの流す涙を拭える人でありたい。
そんな風に考える人が増えれば、このストレス社会は少しだけ生きやすくなるのではないか?そんなこと考えずには居られないのです。