〜授業中に不審者(前)〜
空は厚い雲に覆われ、てっぺんを過ぎてすぐの太陽の日差しは届かない。教室は蛍光灯の青白い光に照らされ、不審者もその常人には分からない感情をたたえた顔を薄暗く照らされている。
教室の二つのドアを、行き来しながら塞ぐ男。手には鋭いナイフが握られ、男は必死に宙を切り裂いている。意味をなさない雄叫びと、口の端から垂れ流されている涎。おぼつかない足取りと、テンポの悪いステップ。ドアから逃げようとすればこの、頭のおかしな奴に斬り殺される。窓際に追いやられたクラスメイトは必死に机でバリケードを作った。クラスメイトからは冷や汗と、労働の汗が入り交じる。けれどその机のバリケードを、いかれた男は横に投げ、足で蹴り。着々とバリケードは破られ、降り出されるナイフは彼らに接近していく。
「うらああ、うひっ、きえあああ!」
時々しゃっくりのごとく奇声が裏返り、大人しくなったかと思うと突然の叫声。追いやられた子羊たちの肩がびくんと震え、いかれ男は満たされる。
また、男のナイフの振り回し方が変わった。横振りから、突き出しへ。風を切る音が、後から聞こえる。ナイフはすでに、一人の生徒の喉元へ。紙切れ一枚で切れそうな距離。このいかれ男が測ったわけでもなかろうし、ちょっと間違えたら三途の川を渡っていただろう。のど仏をナイフの切っ先で指し示された生徒は、手の甲で不審者の腕を振り払う。
「止めとけって!」
「危ないから!」
他の生徒からの、牽制の声はもはや耳に届かない。彼は、命の瀬戸際にいて、聞く耳を失った。視野も奪われ、見えるのはいかれ男のみ。他の五感も遮断されている。
「仁科、もっと下がって!」
女教師の一際耳を突く命令もはじかれる。
いかれ男からの次の一突きを上体を傾ける動きのみで躱す。
「実は俺……皆が思ってるより、強いんで!」
彼の心臓の音が、全員に聞こえた。任せるには、彼に荷が重すぎるだろう。一人の、一番窓際近くに追いやられた生徒が、窓の外を見た。二階。飛び降りたら足を挫くかもしれない。そしたら逃げそびれて、奴に斬り殺されるかもしれない。今は、彼に、一クラスメイトに。命を預けるしかないのだと。一生徒は目をつぶった。まぶたの裏には、もうすぐ咲きそうな大きな桜の木と、それを囲むようにそびえる校舎が映し出されていた。
お前に託したからな。俺らを二年生に進級させてくれ、可愛い後輩を作らせてくれ……仁科!
デタラメに突き出されたナイフを裏拳で振り払う仁科。彼は無言で――――いかれ男に飛びかかった。
そして時はさかのぼる。たった少し前の、ささやかな平和の時に。
外は曇り空。蛍光灯の薄暗い明かりと、満腹から来る眠気。しかし生徒たちの眠気を晴らすかのような、女教師の高い声。年はある程度あろうが、かつての美しさの面影が残っている。フリルのシャツにタイトスカート、濃い目のストッキング。そんな大人の色気をたたえた彼女の声だから、生徒たちは不快感を覚えることは無かった。
しかし仁科は授業内容を聞く程の集中は持ち合わせておらず、鉛筆の動きは明らかに文字を書いているものでなく。ノートには下手な落書きが描かれている最中であった。
仁科は真剣な顔で鉛筆を動かす。
(釘バッドって、木製バッドより金属バッドで作った方が強くないか? あ、それだと釘が刺さんないか……。じゃあはんだごてで溶接すればいいな。釘も尖ってる方が外側の方が、威力が強いから……これをもって不良が振り回したら最強……あ、でも先輩は武器なんかいらないよな)
仁科の頭の中に、リーゼント頭ですぐ手が出る先輩の姿が浮かんで消えた。消しゴムで落書きを消し、次の落書きのネタを探す。
そして時は悪魔の時間――――授業の後半に入る。
授業も後半にさしかかるが、仁科の落書きの手は止まない。そして握り拳のノートに接していた方が、鉛筆の粉で真っ黒になってきた。仁科は消しゴムで手の汚れを消し始める。
そのとき、手前のドアが乱暴に開かれる。全員が驚くほど大きな音。
「うばあああああ! うらああああ!」
知らない男。汚い外靴のまま入ってきた男は、雄叫びを上げる口の端から、涎が止めどなく出ている。奇怪なステップ。そして一番生徒たちを恐怖に陥れたのが、手に握られている、ナイフである。仁科は脊髄反射のように立ち上がる。他の生徒たちも立ち上がり、急いで教室の後ろへ走る。ナイフを持った男が、後ろのドアに向かって走り出す。生徒たちは行き場を失い、窓際へ追いやられた。窓を開け、飛び降りようとする生徒。しかし、二階といっても案外の高さで、下はコンクリート。飛び降りる者は一人としていなかった。仁科もその一人で、足がすくんで飛び降りることは叶わなかった。そうしている内に、生徒たちが机を持って教室の不審者と生徒たちの間を仕切るように、机を並べ始める。
そうだ! これ、避難訓練でやったな。
不審者が入ってきたときの避難訓練。一年に一度だけやる、仁科の学年も経験した。避難訓練だ。それを思いだし、仁科も机でバリケードを作る作業に参加する。避難訓練では、こうして不審者から距離を取り、教師が投げ技で投げ飛ばし、取り押さえるとなっていた。しかし、今の授業を担当していた女教師は、生徒と一緒に窓際に避難している。だれも、教師を責めようとはしなかった。か弱い女性がこのいかれた男に立ち向かうなど、無理な話だ。だれか、助けてくれ……隣のクラスから、たくさんの足音が聞こえてきて、遠ざかった。男教師の、生徒たちを先導して逃げる音だ。一つ、希望が消えた音だ。
いかれ男は机を横に投げる。そして蹴り飛ばす。机のバリケードは徐々に薄くなる。突き出されたナイフが、仁科の喉元を掠める。クラスメイトたちの、仁科を止める声が、仁科には聞こえない。仁科は、飛び出していた。机のバリケードの、残る一つを飛び越え。
「っと!」
仁科は、バリケードの向こうへ出た。ナイフを持っている、いかれ男の腕を裏拳で払う。跳び蹴りを食らわす。しかしそれは失敗で、仁科まで床に仰向けに転がってしまった。急いで立ち上がるも、いかれ男は飛び上がり、すぐに仁科にナイフを突き出す。仁科はすっかり汗が引けた。春だというのに、真冬のように寒い空気が背中を撫でた。
隣のクラスから、不穏な音が聞こえる。有里はただならぬ物を感じていた。教壇に立つ教師の動きが変わる。チョークですらすらと書き出される文字。
『静かに席を立ち、後ろのドアから出なさい』
生徒が一斉に立ち上がる。有里も立ち上がる。
バトル部としては、助けにいくべきよね。仁科もいる。だけど……怖い! 逃げたいよ! 仁科ならどうにでもできるよね!
有里は静かに教室を出た。
またその隣の教室では、廊下に有里のクラスの生徒たちが静かに避難していくのが見える。教師が合図を出し、その後に続いてクラスメイトたちが教室を出始める。新藤は、富枝と視線を交わす。
助けにいくべきか……いや、仁科だぞ。なんとかなるだろ。
富枝は教室の後ろの出入り口を見ていた。逃げる方向につま先が向かっていた。
仁科はいかれた男の手首を掴む。手に握られたナイフはじりじりと仁科の顔に近づく。そのとき、入り口から有里、新藤、富枝が入ってくる。三人は素手で仁科に参戦し、四人でいかれ男を取り押さえようとする。いかれ男は奇怪なステップを踏みながら、ナイフを予測不可能に振り回す。ケガをしたくない。その気持ちは彼らの動きを鈍らせ、いかれ男の周りにドーナツ型の空間ができた。
「うおおおおお」
いかれ男の雄叫びに被せる様に聞こえる雄叫び。用務員が飛び出してくる。そして用務員は不審者の腕を掴み、ぶん投げる。いかれ男の雄叫びが止まる。宙を見たまま涎を垂れ流しにする男。
動きが止まった!
全員が、いかれ男の挙動を見守る。男の気持ち悪い呼吸音だけが教室を満たした。
いかれ男は動きが止まったまま。生徒たちは、ゆっくり後ろの扉から脱出しようと、バリケードを動かす。
「ぐおああああ! うらあああ! 逃げんのか!」
いかれ男が初めて言葉を話した瞬間であった。それだけに、全員に恐怖が走った。今までは、意思のない、人でもない動物とした認識をどこかでしていた。人の言葉を話した瞬間、高度な技術を持ち、自分たちの命を狙っている――――存命確率が下がった気がした。
「皆であいつを囲むぞ!」
仁科の命令で、いかれ男を皆で、机で囲み始める。仁科も机を押して、いかれ男にぶつける。全員がそうして、男を取り囲むように机を押しつけた。
「刺股取ってくる」
用務員がそう言って出て行く。力のある男性が一人消えた。仁科は心許ない気持ちでいっぱいであった。全員で、机でいかれ男を押した。男も机を押し返す。
男は暴れている。しかし全員で囲んだ机を押し返すことはできず。不審者の動きを拘束した瞬間であった。皆がため息をついた。涼しい風が、窓から拭いて彼らの体を冷やした。
後半に続く!
今回は読みやすいよう、前後編に分けてみました。




