第二章【井鞘達郎の奔走】①
【第二章──井鞘達郎の奔走】
[1]
「それでは定例生徒議会を始めます」
議長の長谷井毬がいつも通りの平板な声音で宣言するのを聞きながら、井鞘は第一会議室の中に立ち込める不穏な空気を感じ取っていた。
井鞘は普段と同じように、ロの字に配置された机の左手前端に座っている。そこから時計回りに、サッカー部、バレー部、水泳部、陸上部、文芸部、吹奏楽部、美術部、映画研究部、天文部の部長が右手前端までを囲むようにそれぞれ座っている。生徒議会の議員を兼任する、柳骸坂高校に存在する十の部活の部長達である。そして、手前側の一面には生徒会の三人が肩を並べている。
向かって右側には議長の長谷井毬。
向かって左側には生徒会事務局局長の酔月宗太。
そして中央に鎮座しているのが──生徒会長の損崎巳樹である。
と言っても、進行役の長谷井以外の二人は必要がない限りめったに口を挟むことはない。
「まず、本日の議題の確認をします。生徒会からの議題は、来月の球技大会の企画について──そして今回は、横谷部長から動議の提出がありました。生徒会規則三十一条により、この件を最初に審議することになります」
長谷井が能面のような無表情を保ったまま会を進行する。立て板に水が流れるような流暢な台詞だが、まるで抑揚がないために機械の合成音声を聞いているようだ。
「続いて、提出趣旨の説明と論点の確認に移ります。どうぞ、横谷部長」
「井鞘、お前一体どういうつもりだ」
最初から声を荒らげたのは、サッカー部部長の横谷章である。
「何の話だ?」
「とぼけるな」横谷は角ばった顔の中心にあぐらをかいている大きな鼻から息を吹き出す。「交流試合の件に決まってるだろうが」
「ちょっと、それはもう前回決まったことでしょ? また同じ話を繰り返す気?」
吹奏楽部の杉野やすなが眼鏡の奥の目を細めたが、横谷は違う、と言い放つ。
「前回の議会で交流試合についてはひとまず見合わせるという結論に至ったはずだ。なのにお前はこの間、陽陵学園に申し込みの手紙を送ったらしいじゃないか」
室内がざわめいた。
──もう漏れていたか。
痛いところを突かれ、井鞘は唇を噛んだ。
「井鞘、それは事実か?」
陸上部の輪田俊樹が眉をひそめて井鞘を見る。井鞘は一度輪田を見返してから、再び横谷の方に視線を転じた。
「誰から聞いた?」
井鞘の問いに、横谷はふん、と鼻を鳴らした。
横谷と井鞘はどうにも相性の悪いところがある。去年までは普通に会話していたのだが、二年になってからなぜだか打ち解けて話すことができなくなった。井鞘の方の感情はその程度なのだが、横谷ははっきりと井鞘を嫌っている。
「そんなことはどうだっていいだろうが。今重要なのは、お前が議会の決定を無視して独断行動をとったことだ」
「生徒会の方から連絡があったんだよ。交流試合を申し込むようにって」
「!」
「どういうことよ」
バレー部の逆井早紀がじっとりとした視線を生徒会の三人に向けた。逆井は常に生徒会に対して懐疑的な態度を取っている──今回もやはり、一番不満そうな顔をしている。
「それについては、俺の方から説明します」
生徒会事務局局長の酔月宗太が右手を上げて言った。
生徒会事務局──それはある意味柳骸坂を象徴するような独自の機関である。「生徒自治」を標榜する柳骸坂では、普通ならば教師や事務員が処理するような多くの雑務が生徒の手に委ねられている。
各種年中行事や一部の特別カリキュラム。
制服着用等の校則。
受験生へ渡すパンフレットの作成をはじめとした校外広報。
その他、多くの事項が各種の委員会やこの生徒議会によって決定される。それを実行するのが生徒会事務局なのだ。事務局は生徒会執行部の直属組織として部活動扱いになっており、その構成は校内の行政事務にあたる内務部と、校外との一切の接触を司る外務部、そして両者のフォローをしつつ代表として表に立つまとめ役としての局長から成っており、その位置には現在二年の酔月が納まっているというわけである。
「外務部からの報告によりますと、どうやら前回の議会の後に陽陵学園さんの方からアプローチがあったようなんですね」酔月は部長達の視線を受けながら説明する。「前回の議会では、交流試合は井鞘部長の意見でしかないという前提で議決がなされたわけですから、これは状況が変わったわけです。双方が望んでいるのならば別に止める理由もないだろうということで、井鞘部長には改めてこちらから正式に申し込みをするよう俺の方から通達しました。議員の皆さんには事後報告という形になってしまったわけですが、まあそうした事情があったわけでして」
前回の議会で、井鞘は樋野の名前は出さずにあくまで自分の希望という形で交流試合を提案した。本来、試合は各部活のことなのだから議会など通さなくても良さそうなものだが、地区大会などの公式戦でないものは他校との接触・交渉があることなので議会の承諾を得なければならないのが慣例となっていた。
樋野の名前を出さなかったのは、向こうからのアプローチが正式な要請ではなかったからだった。書面での要請がなければ相手校の意志を議会に確認させることができない──規則とは言え、煩雑な手続きだった。
それはさておき、そんな事情があったので井鞘はとりあえずこちらからの要請という形を取ったのだったが、これは否決された。その後何度か事務局と協議を重ねるも、大した進展はなかったのだが──その数日後に陽陵学園生徒会から試合を行うなら受け入れる準備があるという通達があった。正式な申し込みでこそなかったが、樋野はどうやら生徒会すら丸め込んだらしい──それを事務局に伝えると、ならば試合は行う方向で進めていいだろうという指示が来た。酔月の説明を井鞘側から補足するとすれば、大体そういった話である。
「そうだとしても、せめて申し込みは議会を通してからにすべきだったのよ。向こうも了解しているってわかれば、あたし達だってすんなり追認するわけだし」
逆井が口を尖らせる。
「でも、どうせ追認することがわかってるんなら、別にわざわざ議会を待つ必要もなかったんじゃない? その意味では、今回の件には別に問題はないと思うけど」
杉野がこともなげに言う。
「そういう問題じゃないわ」
「そうです! 議会の無視です! 行政の独走です!」
軽蔑したように吐き捨てる逆井に、直情的ですぐに熱くなる癖のある美術部の福居揺枝が同調した。
「まま、まあまあまあ」天文部の仰見岳彦が困ったような笑みを浮かべて取りなす。「まずは落ち着きましょうよ。そもそも、そんなに大げさに考えなくてもいいじゃないですか。穏便に行きましょうよ穏便に」
「落ち着いていられる問題かよ! こんなことが続いたんじゃ俺達のいる意味がなくなる!」
横谷が怒りの声を上げながら井鞘を睨む──これでは生徒会を糾弾しているのか井鞘を攻撃しているのか分からない。もちろん横谷の本心は後者なのだろうな、と思って井鞘はイガグリ頭を掻いた。場を収めるために手を挙げる。
「わかったよ。次の議会を待たずに軽率な動きをしたことは俺から謝罪する──でも、議会は月に一回だ。向こうにだって都合があるし、あんまり間を開けて返事しても試合日程のスケジュール調整が難しくなる。議会を軽視したわけじゃなくて、あくまでも部のためを思ってやったことなんだ。大目に見て欲しい」
井鞘の主張は、逆井の冷ややかな視線に迎撃された。
「井鞘君、生徒会規則をちゃんと読んでないの? 議会は定例生徒議会だけじゃないのよ。柳骸坂高校生徒会規則第十四条──『生徒会が特に必要と判断した時には、臨時生徒議会を開くことができる』。酔月君の方から会長に話をして臨時生徒議会を開けばよかったのよ」
「発言したい」輪田が静かに手を挙げた。「確かに逆井部長の論旨は筋が通っている。しかし、奇しくも先程逆井部長が自分で言明した通り、議会の場で事情が説明されれば我々は満場一致で追認したであろうことは明らかだ。瑣末な事柄が浮上する度ごとに臨時議会を開くというのはあまり現実的な話ではない──ゆえに、確実に追認が為されるという推定がある場合には一定程度の独断行動も許されるべきではないだろうか? 仮に何か問題が起きるとしても、こうして事後的に定例議会で報告はされるから対処は可能だろう。そして、事務局の独断からはそうした不都合が生まれるということが確認されたのであれば、それからは逐一臨時議会を開くこととすればいい」
「そう、そういう事を言いたいのよ私も。そんな事でいちいち呼ばれてたらたまんないわけ。部活の練習だって忙しいんだし」
輪田の理路整然とした言葉に、杉野がうんうんと頷く。この二人は冷静なキャラクターが一致していて、よく互いの意見に賛成している。
「うーんどうなのかしらー、こういう場合どっちに味方したらいいのかしらー」
水泳部の桜森みのりが顔を左右に向けながら、どこか間延びした調子で言った。
文芸部の片桐中也は、さっきから腕を組んでじっと何事かを考えている。
映画研究部の不見沢柚は我関せずといった表情でそっぽを向いている。
この三人は議会内ではあまり発言しない。常に場に波風が立たないように立ち回る仰見を加えて、議会内の浮動勢力と称してもいいかもしれない。
逆井と福居は同じクラスで、仲がいい。また、熱くなりやすいという意味では福居と横谷も発言の方向が重なることが比較的多い。この三人組と、体面や感情といった部分よりも合理性を重んじる輪田プラス杉野が対立するという図式が割と頻繁に成立している。この間で浮動勢力が揺れ動き、多数決によってどちらかの意見が通るという感じである。井鞘は、自分ではグループとして固まることなく理性的に物事を見ているつもりではあるのだが、傾向としてはやはり自分を敵視している横谷のいる側よりも公平で客観的な意見を出しているように見える輪田・杉野側に与することが多いかもしれない。
「議会に参加するのは議員の務めでしょ? それが面倒だから事務局の独走を許可しようだなんて怠慢もいいところね。そんな気持ちの人はさっさと部長を降りればいいんだわ」
「そうです! 私達は選ばれた議員なんです! 生徒自治の理念のために努力すべきです!」
「だがなあ……今以上に議会が増えるのは困るな」
それまで逆井に同調していた横谷が声のトーンを下げ、渋面を作った。この男は部長としての責任感が強く、常に自分がサッカー部を引っ張らなければという思いに駆られているように見える──その横谷からしてみれば、臨時議会の濫発というのは好ましくない事態であることは明白だった。
「それじゃ、この辺りでそろそろ議決を取りましょう、その結果で恨みっこなしということで、ね、ここは一つ」
仰見が他の部長の顔色を窺うようにしながらそう言った。場を収めるための事なかれ主義的な進行と言えなくもないが、あらかた意見が出尽くしたタイミングを見計らっているあたりに抜け目ない計算が見え隠れしている。案の定、合理的な輪田があっさりと首肯した。
「そうだな、仰見部長の言う通りだ。お互いの立場で言うべきことは言ったし、これ以上論を戦わせてもどちらかの意見が変わるとも思えない──長谷井議長、議決を。『今後、議会の追認が確実な場合には事務局に一定程度の裁量権を認めるか』、だ」
「それでは決を取ります。『今後、議会の追認が確実な場合には事務局に一定程度の裁量権を認めるか』──賛成の方、挙手をお願いします」
輪田。
杉野。
桜森。
仰見。
──横谷。
手を挙げた人数を確認してから、井鞘はゆっくりと右手を挙げた。
「六人。では次に反対の方、挙手をお願いします」
長谷井が言う。投票権があるのは十人の部長のみ──その内の六人がすでに賛成の意思表示をしているのだから、実際にはわざわざ反対の挙手を求める意味などないのだが、長谷井はそういった省略を一切しない。いつでも同じように、まるで機械の反復再生のように一言一句変えることなくテンプレートを踏襲する。
逆井。
福居。
不見沢。
片桐。
当然のごとく、残りの四人が挙手する。
「四人。六対四で、本議題は可決されました」
井鞘は椅子の背もたれに体を預け、心中で安堵の溜め息を漏らした。
輪田がもっともらしい意見を述べてくれたおかげで助かった。逆井は敵に回すと厄介だ──疑い深く、どんなに細かいことも見落とさない性格で、おまけにやたらと弁が立つ。生徒会規則を持ち出して事務局の不備を突いて来た時には、井鞘自身もそれが正しいと思いかけた。輪田が黙っていれば、浮動勢力は皆逆井の演説に流されてしまっただろう。横谷も、部活の練習時間が減りかねないという問題点に気付くことなく井鞘を糾弾し続けていたに違いない。
そして逆井側が多数派になれば、今回の事務局の動き自体も否定される。そこからまた話がこじれるようなことがあれば、交流試合の話自体が白紙に戻るということも十分あり得る。樋野から圧力をかけられている井鞘としては、それは最悪の事態だった。
しかし、幸いにも話は良い方向で纏まった。
これでどうやら──交流試合が議会によって潰されることは免れたらしい。
長谷井が相変わらずの事務的な口調で言った。
「それでは次の議題に移ります──」