第一章【樋野祐圓の策動】⑥
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島崎は小さく溜め息をついた。
「なるほど。柳骸坂野球部の不自然なアプローチは──君の策略だったってわけか」
「か、会長」
樋野は戸惑った表情でうつむき、すぐにはっとした表情を浮かべた。
おそらく、考えが至ったのだ。すべてが島崎によって仕立て上げられた舞台──裏で動いている何者かを釣り上げるための仕掛けだったことに。島崎は樋野の推察を肯定する意味で、小さく頷きかけた。
「どうして俺だと?」
「君のことを調べた。君は留年しているね──つまり、実際には僕達は同い年だ。留年の理由は長期入院──それも病気ではなく怪我だ。それはこの陽陵学園にかつて存在した組織──テコンドー部によるものだろう?」
「…………はい」
「僕も親友がテコンドー部にやられたことがあってね──生徒会長になったのも元を正せばそれがきっかけなんだが、とにかくその時に色々とテコンドー部の前歴について調べていたんだ。その時見つけた事件の一つが君と合致した。この学校の裏の顔を知っている者は少ないからね──疑うには十分だった」
「……なるほど、ですね」
「柳骸坂との試合を仕組んだ理由──話してくれないか」
樋野は押し黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「俺は……南岳密とは同じ中学だったんです。二年の時に、双子の姉が奴に暴行を受けました」
「!」
息を呑む。
樋野は、言葉一つ一つを絞り出すごとに身を切られていくかのように辛そうに、痛そうに話した。
きっと樋野は本当に痛みを感じているのだろう。
未だ癒えぬ心の古傷が──言葉と共に開いているのだ。
「姉はそれがトラウマになって学校へ行けなくなりました。独力で勉強して受験に成功し、今は女子高に通っていますが、未だに俺以外の男性と話すことができません。幼稚園児の頃からかかりつけの医者でも、顔見知りの近所のお爺さんでも──実の父親でさえも、正面に立って見下ろされただけで気分が悪くなるんですよ。俺は……姉の生活を歪めたあいつに復讐を誓ったんです」
うつむいて静かに語っていた樋野が、ふと顔を上げて島崎を見やった。
冥く冷たい瞳の中に、抑え切れない恨みが宿っていた。
凄まじい過去──この少年もまた、あの南岳密の被害者だったのか。
「それから丸一年──柔術を学んで体を鍛え、並行して拷問法を習得しました。そして中学三年の夏に、風の噂で奴が陽陵学園の生徒会長になったと聞いて、これは確実に裏がある、何が何でも潰してやろうと思ったんです。しかし奴の動きを見張って裏の支配体制を知ると、生半可な攻撃じゃ奴は倒せないことがわかりました。何しろ、ある意味じゃ学園を丸ごと握りこんでいるようなものですからね──それで俺は、長期計画に狙いを変えたんです」
「長期計画?」
「南岳政権の強固なシステムは、外から突き崩すのは難しい。ならば中から──内側から掻き回し、仕組みを狂わせてやる方が勝ち目があると踏んだんです」
島崎ははっとした。
この少年は、あの連上と──基本的な思考の方向が同じなのだ。
近しい者の悲劇を経て復讐に燃え、学園に潜入した。その読みの正確さ、判断の速さ、そして積極性──もしかすると樋野は、彼女に匹敵するような素質を持っているのかもしれない。
樋野は語り続ける。
「俺は志望校を陽陵学園に変え、同時に下準備も始めました。陽陵学園と繋がってるゴロツキやテコンドー部の下っ端を待ち伏せで捕まえては強引に絞り上げ、持っている情報を洗いざらい吐かせる──生徒会転覆のヒントを得るために、その活動を半年近く続けました」
短絡的で危険な方法だが──効率が悪いわけではない。何より、そこまで思い切ったことをやれる者はなかなかいない。
島崎は意外な気持ちで眼前の少年を見やった。少女と見紛う程の華奢な体躯と柔らかな表情を持った少年の本性は、凄まじいゲリラだったのだ。
「まあ、結局は失敗したんですけどね。詰めが甘かったといいますか」樋野は苦笑いした。「自分では隠していたつもりだったんですが、奴らにはとっくに俺の正体がバレていたってわけで。入学早々にテコンドー部の連中総出で取り囲まれて酷い目に遭わされました」
袖をまくる。島崎の呼吸が止まったのがわかった。
綺麗なのは手だけで、手首よりも先の腕は生々しい傷跡と痣に埋め尽くされていた。
「ほとんど全身こんなもんですよ。打撲傷、切り傷刺し傷、火傷にひきつれ──傷のデパートみたいなもんです。おかげで高校生になってひと月も経たないうちに長期入院する羽目になりまして、結局は単位不足で留年しちまったわけです」
生まれつき肌が弱く病弱だ──という言葉は嘘だったわけか、と島崎は納得した。そういうことにしておけば留年の体裁も繕えるし、夏でも半袖を着ない言い訳になって傷が隠せるということなのだろう。
「しかし驚きましたよ。ようやく体が治って久々に登校してみたら、南岳がいなくなってるんですからね──奴だけじゃなく、魚住や朱河原なんかの手下も、支配システムすら影も形もない。これは一体どういうことかと思っていたら、書記の補欠選挙という格好のチャンスが訪れたんでね──潜り込ませてもらったわけです」
「場合によっちゃ──僕も潰す気だった、ってわけだね」
「まあ、正直に言えばそうですね」樋野はあっさりと認めた。「南岳を追放した上で新たな形の利権システムを作り出し、その支配者に納まろうとしていたなら標的にするつもりでした。そうでなかったとしても、あんたは俺から復讐の相手を奪った──それだけでも怒りをぶつける理由にはなる」
「じゃあ、どうして今まで何もしなかった?」
「はっきり言って毒気を抜かれたんですよ。あんたがあまりにも真面目に生徒会の仕事に取り組んでいたから」
「……まあ、評価されたと取っておくよ。それはそうと、南岳政権を憎んでいた君なら、少し前に別の場所で同じような形の利権システムが生まれつつあることも知っているな」
島崎はそう問うた。
南岳に取って代わるようにして、裏の世界を支配しつつある連中。
悪事に手を染めて、他人を傷つけて──そうして生まれた利益を貪る、唾棄すべき連中。
こくりと頷いた樋野を見て、島崎は続ける。
「だろうね──だからこそ君も、柳骸坂を調べていたんだろうから」
樋野の身の上話を聞いて、島崎は自らの推論が正解だったことを確認した。背景にそんな悲惨な物語があったことまでは予測できなかったが、常日頃から樋野が自分に対して不信感のようなものを向けている気配は感じていた──だから、柳骸坂の突然の動きに対し、裏で誰かが糸を引いているのではないかと考えた時にまず思い至ったのが樋野の存在だった。樋野に語ったのは彼を調べ始めてから浮かんできた考えで、一番最初のインスピレーションはごく曖昧な雰囲気によるものだった。
彼はおそらく、柳骸坂との接点を無理矢理作り出すことで島崎の正体を確かめようとしたのだろう。
あの南岳政権が倒れた後の生徒会となれば、事情を知っている者から見れば何かを企んでいるのではないかと疑うのは当然だ──しかし、当の島崎の態度は真面目一本にしか見えない。樋野はそんな姿を見て「毒気を抜かれ」、攻撃を取りやめたと言ったが、本当のところはむしろ判断しかねた末の保留といったところだろう。つまり、島崎の態度は、新入りでしかも部外者である彼の目を欺くための偽装なのではないかと疑った──だからこそ、わざと分かれ道を用意して襤褸を出させに来たのだ。
柳骸坂からの交流試合をなんの疑いもなく受ければ──何も知らない。
逆に接触を回避する方向に動けば、裏の勢力状況を知っている──知った上で見て見ぬふりをしようとしている、ということになる。
樋野は島崎が予算委員会という手を使って交流試合を阻止しようとしたのを見て、自らの属する生徒会の本性を後者だと判断した。そして、島崎自身が暗に言及していた「策の急所」を突いて交流試合を成り立たせようとした。柳骸坂と島崎政権、悪者同士をぶつからせて共倒れに持ち込もうとでも考えていたのだろう。
しかし、樋野が島崎の策を潰す工作を行っている、まさにその現場を押さえてしまえば逆に島崎の勝ちということになる。
最後の一手ですべてを引っ繰り返す島崎の作戦だった。
参りましたね、と樋野が言った。
「ピンポイントでここを見られたってことは──すべて罠だったんですね。わざわざ役員を集めて予算委員会の話をしたのも、先生の認可を受けに行くのを明日に設定したことも」
「そう、君の推測は多分大体合ってるよ」島崎は首肯する。「でも間違えないで欲しいのは、僕は南岳みたいに器用な人間じゃないってことだ」
「え?」
意外そうに眉を上げた樋野の手から予算委員会の資料をもぎ取り、部屋の隅へ向かう。
すでに電源のついていたシュレッダーに、無造作にその紙の束を差し込んだ。
「え……! 会長!」
無数の細い切れ端に変わっていく資料と島崎の顔を見比べながら、樋野が理解できないと言うように目を丸くした。
「予算委員会は開かないよ」島崎は静かに言う。「表では誠実な生徒会長、裏では非道な帝王──そんな風にころころ演じ分けられないってことだよ。僕はこの一面しか持ち合わせていない」
「じゃあ──あんたは」
「僕は僕だ」
きっぱりと、島崎はそれだけを言った。
島崎は、南岳や朱河原や梁山ではない。絶対的な高みから学園を見下ろす王ではないし、地位や力を得ようと野心を燃やす陰謀家でもないし、邪魔者を排除するために策略を玩ぶ指揮官でもない。
学園のすべての生徒が楽しく学生生活を送る──島崎が見たいと望むのはそんな景色であり、その理想の実現が島崎の野心であり、そのために用いられるのが島崎の策略だった。
だが──。
島崎は顔をしかめた。
絶対に避けなければならないと思っていた一般生徒の犠牲が、出てしまった。
「昨日、うちの生徒が何者かに襲われたんだ。明らかに柳骸坂による見せしめ──いや、牽制と言うべきかな」
襲われた本人の証言では──彼は比較的軽症だったので、島崎は昨日のうちに病院に出向いて話を聞くことができた──襲撃者達は単なる不良の集まりではなくむしろ見た目は真面目そうな連中で、かつ統制の取れた動き方だったらしい。そして極め付けには、御丁寧に柳骸坂の制服を着ていたというのだ。
こちらの手の者ではない、何も知らないただの生徒がターゲットになったのは偶然ではなく、吟味の末に選ばれたと見た方が筋が通る。組織的な行動も、自分達の存在の誇示も、ターゲットの選択も──すべては一つの目的の下に行われたことだ。
奴らの目的は、より明確に意図を伝えるため。
──暴力も辞さない。
そのメッセージを、島崎は確かに読み取った。
「それって……その」
樋野が居心地悪そうに身じろぎした。
「まさか、俺が柳骸坂の事情に首を突っ込んだから」
「君だけのせいじゃないよ。実は報道部の方でも前々から柳骸坂の動きを調査していたんだ──平和的かつこちらが恨みを買わない形での解決はないものかと考えていたが、生徒に被害が及んでしまった以上、そんな悠長なことは言っていられないな。もはや柳骸坂は、僕の理想にとって邪魔な存在となった」
樋野が顔を上げる。
島崎は歩み寄り、樋野の肩に手を置いた。今までは細く華奢な体だとしか思っていなかったが──話を聞き傷痕を見たせいか、その肩からはしなやかで力強い生命力が感じられた。
「君の気持ちはわかった。安心したよ、君が柳骸坂に魂を売ったスパイじゃなくて。僕は君を信用するが、君が僕をまだ信用できないのなら──これからの僕の働きをその目で確かめてくれればいい」
「島崎──さん」
「そのためのチャンスはいくらでもある。何しろ、我々陽陵学園生徒会には片付けるべき大きな仕事ができてしまったからな。もちろん、生徒会の一員として君にも存分に手伝ってもらうからそのつもりでいてくれ」
柳骸坂を潰すぞ──。
島崎はそう結んだ。