第五章【島崎栄一の策略】⑦
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「交流試合の三十分前──私達は、陽陵と直接対決する。これが事実上の最終決戦となることは間違いないわ」
五月二十一日、土曜日──午前九時。
生徒会執務室に集まった酔月、朱河原、長谷井に向かって、損崎はあくまで尊大にそう告げた。
「陽陵は、してやったりと思っているでしょうけれど──彼らには重大な見落としがある。状況は私達に有利、そう考えてくれて構わないわ」
「……差し支えなければ、その見落としとは何なのかお教えいただけますか?」
やや緊張した面持ちの酔月に、損崎は鷹揚に頷いた。
「それは、陽陵が弄した小細工──風紀委員の拉致による真実暴露の脅迫に、私達が屈したと彼らが思いこんでいる点よ。もっと詳しく言えば、その一手が本当に危険だと私達が信じていることについて、陽陵側が疑いを持ちえていないということ」
実際は虚仮なのよ──と損崎は片手を広げる。
「大掛かりなだけの、ただのフェイント。島崎栄一は、風紀委員に自白させて問題を表沙汰にすることが絶対にできない。これは彼の人間性を分析し、至った結論よ」
はあ、と酔月は納得しかねる様子で応じた。
長谷井は無批判に損崎の言葉を受け入れ、何度も頷いている。
朱河原は納得半分、疑問半分といった表情を浮かべている。人間性、という損崎の言葉に、島崎に接したことのある朱河原は共感できたのだろう──疑問は、間接的にしか島崎を知らない損崎がその結論を出すに至った過程についてだろう。
さすがに朱河原は鋭い──確かに、これは損崎の考えではなかった。
この考えは、損崎を背後から支えるあの人の受け売りなのだから。
「その誤認があるとないとでは、大きな違いがあるわ──陽陵は切り札がある以上、基本的に自分たちのペースで話ができると思ってやって来る。しかしその切り札がハッタリでしかないことを知っている私達は、隙を突ける。隙を突かれて慌てた時には、彼らはもう私達の手の中、柳骸坂というテリトリーから逃げることはできない──彼らは敵の本拠に斬り込んできたつもりでしょうけど、その実、まんまとおびき出されているってこと」
「会長には確固たる構想があるわけね」まあいいわ、とでも言いたげに朱河原が腕を組んで微笑んだ。「なら何も言うことはないわ──すべてあなたの指示通りに動く」
「当然、そうしてもらうつもり。とは言え、複雑な動きは必要ないけれど」
損崎は頷いて、指示を与えた。
基本的に交渉を行うのは自分。
朱河原は要所での補足と、陽陵に対する示威のために随行する。
酔月は陽陵の動向を注視し、いざおかしなことがあれば腕ずくで止める役割。
「巳樹ちゃん──私は?」
不安げに問いかけてきた長谷井を、損崎は見やる。
「マリ、今回あなたは別行動よ。これから、ある場所に行ってもらわなければならない」
「え…………」
「監視システムが突き止めているわ──あなたには一つのお誘いが届いているでしょう? 執行部に反旗を翻そうとしている、井鞘・輪田両部長から」
「あ……」
それはおそらく、決起集会。
執行部が陽陵への対応にかかる、その間隙を突いて行われる──他の議員への啓もう活動なのだろう。その声がかかっていることを、長谷井は損崎に報告していなかった。
意図的な秘匿──つまり裏切りの可能性は、こと長谷井に関しては考えられない。おそらく、参加する気がなかったということなのだろう──その時間、長谷井は損崎の傍らにいることが彼女の中で確定事項だったのだろうから。
しかし。
「その動きは見逃せない──何しろ今日は土曜日なんだから、その気になればこちらの見えない範囲で容易く集まりを開けたはず。二人が校内で堂々と結託の会話をしていたことからも、わざとこちらに知らせる形をとって動いているのがわかる──こちらが横槍を入れようとすることも事前に見通して、あなたを招待しているってこと。つまり、こちらは先手を取られ続けているの。これ以上後手に回るわけにはいかないわ」
輪田の計算だろう、と損崎は思う。
あの明晰な男は、わざと執行部に見える範囲で議員を扇動しようとしている。
それは陽陵を支援するための陽動か──もしくは別の目的があるのか。
何にしろ、その動きを探らない選択肢はない。たとえそれが輪田の思惑通りだったとしても。
「そんな──」
長谷井は一歩踏み出し、損崎の両手を握った。
いつものように、さわさわと執拗に──彼女が信じるたった一つの温もりに縋って、長谷井は両手を蠢かせる。
「どうして? ねえどうして私なの? 私不安だよ怖いよ心配だよ巳樹ちゃんに何かあったら」
「ありがとう──でも大丈夫よ。陽陵を倒すのは、私達だけで大丈夫。それよりもあなたは、各議員に目を配ってほしいの。むしろこちらの方が重要──倒す道筋がついている外敵よりも、内部の不穏分子の方が何倍も危険なのよ。そしてそれを追う仕事は現在、あなたにしか頼めないの」
「…………っ」
長谷井は損崎以外の相手に対しては、生徒会手続き関連の事務的な会話しかすることができない。そのことは当然損崎も知っている。
無理だよ、と長谷井が言おうとするよりも早く。
損崎は長谷井の手をほどき──改めて長谷井の手を自分で包み込んで、強く握りしめた。
「不安よね──でもね、前に進まなければならない時は必ず来る。私達が生涯一緒にいられる保証は、どこにもないのよ」
「巳樹……ちゃん」
「あなたならできる。人より歩みが遅くとも、その一歩一歩を貫徹する密度は、他人とは比べ物にならない──そんなあなたが自分を包む殻を破れたら、誰よりも大きくなれるの」
自分の言うことを聞かせるための方便──ではなかった。
確かに、今まではそのように扱ってきた。自分に依存する長谷井の性質を利用し、傀儡として操ってきた。それが損崎に下された命令だった。
でも、今この時に出た言葉はそうじゃない。
この気持ちだけは嘘じゃない、と損崎は確認するように胸中で呟いた。