第一章【樋野祐圓の策動】②
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井鞘達郎は怯えていた。
放課後──授業終了のベルが鳴り終わって間もない時間、と表現したいところだが、井鞘の所属する柳骸坂高校はノーチャイム制を導入しているのでベルは鳴らない。ともあれ、一日の拘束から解放された生徒達ががやがやとざわめく時間である。
なんということもない、のどかな日常のひとコマ──空は晴れ、生徒達は談笑しながらそこここを行き交う。そんな中で、校庭の一角に立つ井鞘だけはぽっかりと開いた闇の底に落ち込んでいるような孤立感を覚えていた。
眼前に立っているのは、ただの一人の少年である。細く華奢な体つきに優しげで透明感のある顔つきの、一見すると少女に間違うような少年に、井鞘は今圧倒されていた。
少年の名前は樋野祐圓──井鞘の、中学校の同級生だった。
「井鞘さぁ……どういうことだよ? 俺は別に、お前に無理な頼みごとをした覚えはないぜ──お前の柳骸坂野球部から、ウチの陽陵学園野球部に練習試合を申し込む。それだけのことがどうしてできないんだ?」
「うちの高校は生徒自治がモットー……生徒議会の決定は絶対だ。たとえ一部活動の単なる練習試合に関する事柄でも、議会が首を横に振れば実現は不可能なんだ」
「お前だって議員なんだろ? なんとかしてくれよ」
「そうは言っても、どうにも」
「ならない──なんて泣き言は聞きたくないぜ」
低い声に、弁解の言葉が止まる。
「いいか、お前んトコの制度がどうこうは知らん。そういう制度だってんなら、俺の提案を議会で通せなかったのがお前の失策だ。そこんとこは埋め合わせてもらわないとな」
顔をしかめた樋野の人相はまるで駄々をこねる子供のように見えたが、井鞘はそこから薄気味悪く凄みのある何かを感じ取っていた。
正直言って、この男とは関わりたくなかった。
中学時代──ある日、井鞘が当番で部の用具を倉庫にしまいに来た時、裏で人の声が聞こえた。
倉庫の窓を細めに開けてこっそりと様子を窺ってみると、そこには三人の不良と思しき男、そして同じクラスの樋野が立っていた。
複数の不良と体の小さな少年、そして人目につかない倉庫裏──客観的に考えるならば、これはごく典型的な「いじめ」の構図である。ただ一つテンプレートから外れているのは、立場が逆であることだった。すなわち──数人の不良を、弱々しい少年が追い詰めていたのである。
「も、もうやめてくれよぉ」
倉庫の向かい側にあるゴミ捨て場の壁際に張り付くようにして立っている不良達のうち、真ん中にいる一番体の大きな男が哀れを誘うような声を出した。頬が腫れているらしく、声はくぐもって不明瞭に聞こえる。
樋野はまったく意に介する様子もなく、目にもとまらぬ速さで男の頬を張った。大きな音はしなかったが、ぎゃっと叫んで男がくずおれる。無駄のない身のこなしといいダメージといい、訓練された者の動きとしか思えなかった。
「まだだ。まだ何か知ってるんだろ? 命乞いよりも先にそれを吐けよ」
「も、もう全部喋ったって──」
向かって左側の茶髪の男が、
「ほざくな」
樋野は茶髪の男のベルトを掴んだ。自分よりも十センチ以上身長のある男の体をいともたやすく持ち上げる。
その体勢のまま右手を放して首を掴み、気管を握り潰さんばかりに締め上げた。
茶髪の男が、踏み潰される寸前の蛙のような声を出す。
「お、おい──やめてくれ! 死んじまうぞ!」
向かって右側の坊主頭の男が慌てるが、樋野はまったくやめる素振りを見せない。
「それなら、こいつがくたばる前に知ってることを洗いざらい話すんだな。お前ら、普段から陽陵のチンピラに世話になってるって触れ回ってるらしいじゃねえか──向こうに行ったら何をするか、見返りに何がもらえるか、そんな話もしてるはずだ」
「言っただろ、もうこれ以上話すことなんて何もねえって!」
「じゃあこいつが死ぬ」
真ん中の男が堰を切ったようにわめいた。
「普段から付き合いなんてねえよ! 地元のチームの先輩が一人陽陵学園にいて、この間ちょっと顔を合わせただけだ! 挨拶しかしてねえし、詳しい話は何も聞いてねえんだって! 付き合いがあるってのは、そう言った方がハクがつくと思って──だから」
それを聞いた途端、樋野は掴んでいた手を放した。
地面に落ちた茶髪の男は背中を丸めてうずくまり、激しく咳き込んだ。そんな様子はまったく意に介さず、樋野は顔をしかめてぶつぶつと独り言ちていた。
「畜生、フカシかよ──時間の無駄だったぜ。となると、そっちの先輩とやらに話を聞かねえとな──また一から仕掛け直しかよ、金がかかるな」
茶髪の男を助け起こし、坊主頭の男と連れ立って逃げだそうとしていた大柄の男の肩をすかさず掴む。ひっ、と男が情けない悲鳴を上げた。
「おい、その陽陵にいる先輩の連絡先教えろ。あとな、財布を置いてけ。迷惑料だ」
ずっとこちらに背を向ける形で立っていた樋野が、その時初めて横を向いた。
その横顔は、教室で見る表情とはまったく異質なものだった。
そして今。
こうして目の前に現れた樋野の顔には、同じ色が浮かんでいる。
普段は巧妙に、無邪気な笑顔で塗り潰して隠している──邪悪な色が。
樋野の頼みというのは単純だった。
一か月以内に、陽陵学園に練習試合をもちかけること。
樋野の言うところでは、色々と思うところあって野球部にマネージャーとして就任したのだが、弱小部なのでどこの高校も練習試合を引き受けてくれないらしい。知りあいを頼って色々な学校に当たっているが、なかなか思わしい成果が上がらない。井鞘にも断られたら当てがなくなってしまう──のだそうだ。
無論、そんな話は信じていない。中学時代も温厚な優等生で通っていた樋野の表の顔しか見なかった人間ならばまだしも、その仮面の下の凶暴性を垣間見てしまった井鞘には信じろという方が無理な話である。
何か、企んでいる。
樋野自身がいつも無害な人間を装っているように──部活の試合という装いの下に何か別の意味を潜ませている。
もしそれがこの柳骸坂高校に危害を加える結果を招きうるものであれば、そんな企みに加担するわけにはいかない。井鞘はその責任のある立場にいるのだ。
怯えるな、と井鞘は自身を鼓舞した。
深く息をついてから、樋野に問いかける。
「お前、何か良くないことを考えてるだろ」
「何が? 俺はただ野球部のマネージャーとして、部のためを思って」
「どうかな」井鞘は遮る。「もうそのあたりから嘘臭え。俺は知ってるぞ──中学の頃、かなり乱暴な方法で陽陵を調べてたろ」
樋野は目を丸くし、それから困ったように苦笑いした。
「へえ、知ってたんだ。どこかでぬかったか──やっぱり俺は詰めが甘いね」
「偶然だけどな。たまたま現場に行きあたっちまったんだ。不良を絞め上げてまで調べた陽陵に入ったお前の次の手が、うちとの接触──警戒しないわけがねえだろ」
身構える井鞘に、まあいいや──と樋野はから笑う。
「それを知ってるのなら、かえって話も早いだろ。俺が目的を達成するためなら何だってやるってこと、その目で見たお前ならわかってるよな? 一つだけ言っとくけど、お前に迷惑をかけるつもりはない。今言った要求だけを実現してくれれば、野球部に不利益をもたらすことは絶対にないと保証する。だが、もし妨害に回るようなことがあれば──かつてのクラスメイトでも、俺は容赦しないから」
そう言い切った樋野の顔に、虚仮脅しの色はまったく見出せなかった。
引き締められ、微塵も動かない口元。
落ち着いた眉。
そしてこちらを見つめる、底冷えのするような瞑い瞳。
井鞘は樋野を構成するすべてに、あらゆる手を使ってでも試合を成立させるという凄みを見た。
「……とにかく、後で連絡する」
自分もあの不良達のようになるかもしれないという恐怖が、その言葉を井鞘の唇から溢れさせた。
最後の最後で、拒否を貫けなかった。
樋野は納得いかない様子で、忘れるなよ──と言い残して去った。
「──達郎」
井鞘は我に返った。
野球部専用グラウンド──その脇のベンチである。
「ちょっと、どうしたの? ぼーっとしちゃって」
傍らで戸惑いの声を上げたのは、柳骸坂高校野球部のマネージャーであり井鞘の彼女でもある、兵藤深雪だった。
「ああ……いや、別に大したことじゃない。最近寝不足でな」
適当な嘘でごまかす。本当は、昨日の樋野の申し入れについて考えていた。
樋野は、一体何を考えているのだろう。
どう考えてもあいつは堅気のマネージャーなんて柄じゃない。それに、いくら部のためだからってあそこまで本気になって練習試合の相手校探しをすることもないだろう。
確実に──裏がある。
そこまではわかるのだが、肝心の樋野の狙いがさっぱり分からなかった。
中学時代の樋野はなぜだか陽陵学園についての情報を集めていた。そしてその陽陵学園に進学し、一年が過ぎたこの時期に今度はこの柳骸坂に連絡を取ってくるとは、一体どういうことなのだろう。
井鞘が考えていると、深雪が肩を叩いてきた。
「ねえ、もうすぐ四時だよ。今日、約束があるとか言ってなかったっけ」
「ん、ああ。そうだな」
「野球一筋の達郎が部活を休むなんて、よっぽど重要な用事なんだね」
「いや、今日の約束も野球部がらみではあるんだけどさ──ちょっと、事務局の奴に会いに行くんだ」
生徒会事務局。
校外との公的な連絡にはすべてそこを通さなければならない決まりなのだが、井鞘は個人的に事務局の人間が好きになれなかった。
しかし、嫌だとも言っていられない。どういうわけか樋野が熱烈に望んでいる陽陵学園と柳骸坂の野球部練習試合──それを成立させるには、そこに行くしか手はないのだ。
「じゃ、そろそろ俺は行くよ。深雪、いつも通り頼むな」
そう言って、井鞘は腰を上げた。