第一章【樋野祐圓の策動】①
【第一章──樋野祐圓の策動】
[1]
樋野祐圓は人間の善意というものを信じていない。
無償の善意などあり得ないし、思いやりの心というのも単なる標語でしかないと考えている。
そもそも親切などという行為はその後に引き出される感謝の念を利用するための下準備か、あるいはただ他人への施しによる優越感によって自己満足に浸りたいがための行動に過ぎない。つまりそれは一定の目的のために本性とは異なる行動を選んでいるだけのことで、どこまでも仮初の、上辺だけのものなのだ。
人間の本性──それは言うまでもなく悪である。
悪、というのも正確な言い方ではない。それは善と対比された言い方だからである。善という観念自体が存在しないのだから、悪もまた額面通りの言葉として存在することはできない。
正しく言い換えるなら──人はどこまでも自分の幸せのみを追い求める動物だということである。そしてそれは何ら珍しいことではなく、むしろ自然界から見れば当然のことだ。
偶さか少しばかり脳が発達したからといって、人間も動物であることには変わりない。いや、むしろ発達したが故により動物的な本能が高度に大規模に展開されることになったと言ってもいい。人間がただの獣であれば大規模な戦争で広い土地が焦土と化すこともなければ、旨いものを食べようとして自然の生態系を狂わせることもないだろう。
であれば──人間の中に、動物とは違う人間特有の「善意」や「優しさ」、あるいは「道徳」や「倫理」を求めるのはいかにも馬鹿らしいことだろう。しかし人間が頻繁にそれらを引き合いに出すのは、そうすることによって自分達が高級で特別な存在であると自分自身に言い聞かせているだけなのだ。ただの欺瞞だ。
そして。
善意が上辺だけの偽物に過ぎないという事実と、多くの人間がその存在を信じたがっているという事実を合わせて考えると──どのような結論が導き出されるか。
「樋野くーん」
廊下を歩いていた樋野は、背後からの声に振り返った。
同じクラスの女子が小走りに近寄って来ていた。
「たまたま見つけたから呼び止めちゃった。あの、この間はありがとう」
この女子に対しては何をしていたか──半秒ほどで、数日前に掃除のごみの袋を運んでいるのを通りがかりに見つけ、手伝ったことを思い出した。結構重かったので何回かに分けて運ばなければならず、予想外に時間がかかったことを憶えている。
樋野は控えめに微笑んだ。
「いやいや、あんなことで良ければいつでも」
「ありがとう」女子は憧憬のまなざしで樋野を見る。「樋野君ってほんとに──優しいよね」
ひくり、と。
樋野の胸の内に小さなひきつれが起きる。
人を騙しているという僅かな後ろめたさと、人を手玉に取っているという微かな優越感。
しかし表には出さない。女子も何も知らないまま、人懐っこそうな笑顔を浮かべて話している。
「ところで話変わるんだけど、前から気になってたんだよ──樋野君ってずっと長袖だよね。体育の時もいつもジャージで、暑くないのかなって」
「ああ──うん、僕ね、肌が弱いんだ。日に焼けるとまずいから」
「そうなんだ……こんなこと訊いて気に障ったらごめんね。でも樋野君に合ってるよ、病弱な美少年って感じ」
「なにそれー」
笑ってみせると、女子も安堵したようににっこりと笑った。
そのあともう少し話してから女子と別れ、樋野はまた歩き出した。
他人を懐柔するのは実に簡単だった。
いつも考えているようにこの世には善意などない──しかし、「善い人」を装うのは非常に簡単だ。
一度か二度、意識的に親切な行いをし、そのことへの感謝に対して謙虚な姿勢で応えればよい。たったそれだけのことで、対象者は自分のことを「善い人」とカテゴライズする。
なぜなら──人は善意の存在を信じたくてたまらないのだから。
樋野はこの方法によってクラスのほとんどから「善い人」の評価を得ている。無論、意図的な働きかけの結果だ。
「こんにちは、樋野君」
階段の踊り場に、豊かな黒髪を三編みにした小柄な少女が立ち止まっていた。
「あ──どうも、副会長」
「やめてよそんな、生徒会の時間でもないんだから」
山のような資料の束を抱えたまま、生徒会副会長の植村叶は恥ずかしそうに笑った。
「部活中ですか?」
「うん。校内新聞の締め切りが近くて」
植村は、生徒会の一員として様々な事務をこなす傍ら、部活動の中で学内新聞を編集する作業にも精力的に取り組んでいるらしい。その献身的な働きぶりによって部員の信望も篤く、部長就任を期待する声も大きかったと聞く。もっとも生徒会との二足のわらじではさすがに物理的な限界があるだろうということで結局その望みは現実とはならなかったようだが、植村が部の中で要となる位置にいることは紛れもない事実だった。
「すごいですよね。生徒会の仕事も大変なのに、さらに毎日部活なんて」
樋野がそう言うと、植村ははにかんだように視線を落とし、眼鏡の位置を直した。
「うん、いや、私の場合は好きでやってるだけだからね。どっちも手を抜くわけにはいかないからちょっとつらい時もあるけど、でも──嬉しいから」
「嬉しい?」
「あの、つまり、忙しいのは嫌だけど、でもそれって私を必要としてくれてる人がいるってことじゃない?」
「──はあ」
「あ、えー、いや私何言ってんだろ。ごめん忘れて。えっと、それじゃ」
植村は顔を赤らめてばたばたと教室へ入っていく。その姿を見送って、樋野は戸の上に掲げられた真新しいプレートを見上げた。
報道部。
新聞部に、去年設立されたという情報処理部を合わせて一つの部にしたらしい。それは情報処理部の部長が突然転校してしまったために起きたごたごたを鎮めるための措置だったと説明されている──しかし、本当にその事務的な理由が全てなのだろうかと樋野は疑っている。
調べてみると、現生徒会長の島崎栄一はかつて情報処理部に籍を置いていた記録がある──そしてたった今話した副会長の植村は新聞部の部員。しかも報道部設立の際には編集責任者という位置に就任している。
この報道部設立には現生徒会の意図が何らかの形で関わっている。それが樋野の見解である。
情報収集──つまり諜報活動。
新聞発行──つまりプロパガンダ。
これらの機関を権力者が独占できるなら、その地位は一層盤石になることだろう。
権力を利用して自分達に都合のいい集団を組織する生徒会──もしもそれが真実だったとするならば、許されることではない。
それは樋野の敵と同じ──悪の存在だ。
「…………」
今まで積み上げてきた「善意」を利用する時かもしれない──そう考えながら、樋野は歯を食いしばった。