序章
【序章】
月がやけに大きくかがやいている夜だった。
その日わたしは夕食まえになってきょうしつにわすれものをしたのに気がついて、学校にもどってきた。少しこわかったけど、先のばしにするのはよくないってお父さんに言われて、しかたなく。
しょくいんしつにいた先生にかぎをかりてからきょうしつまで行ったけど、なぜだかきょうしつのかぎはかかっていなかった。
ふしぎにおもいながらきょうしつに入って、わたしはびっくりした。
きょうしつの一ばんうしろのまどぎわのせきに、男の子がすわっていた。
「やあ」
男の子は、まどからさしこむ月の光にてらされながらわたしにほほえんだ。
「あなただれ? どうしてこんなじかんに学校にいるの?」
「きみだって」
「わたしはわすれものをとりにきたの」
「じゃあ、ぼくもそれだ」
「じゃあ? なにそれ!」
男の子のへんな答えに、わたしは声を上げてわらった。
それから、わたしはその男の子とはなしこんだ。とりにきたノートを手にもったまま、むかい合っておしゃべりをした。
その男の子のことばはいつも見ているクラスの男子とまるでちがって、とてもゆたかで、そして大人みたいにおちついていた。わたしはまるで子どもの形をしたようせいか何かとしゃべっているみたいな気がして、ずっとこうしていたい気分だった。
そんな気もちもあったせいなのかもしれないけれど、あるはなしの中で、ちょっとしたながれからわたしはこう言った。
「わたしがあなたのおよめさんになってあげる」
すると。
それまでとうめいなほほえみをうかべていた男の子のかおが、ふっとしずんだ。
何かを思い出したというか、今まで気がまぎれていたのがわたしのその一言で元にもどってしまったようなかんじだった。
「むりだよ」
ひくい声で男の子は言う。私はとまどった。
「どうして?」
「ぼくは、きみの名まえもしらない」
「じゃあね、おしえてあげる。わたしは──」
「同じことなんだよ」
男の子は、きっぱりと言った。
「今ここできみがぼくに名まえをおしえてくれたら、ぼくはそれをおぼえる。でもね──これからさき、ぼくときみがかおを合わせなくなって何年もたったら、小学二年生のときにはなした女の子の名まえなんてわすれてしまう。かおも、声も、はなしたことも。だから、きいてもきかなくても、同じことなんだ」
「どうして? そんなのひどい」
「当たりまえのことなんだよ」男の子はわたしを見つめたままはなす。「きみだって、中学生になり、高校生になったら、ぼくのことなんてわすれてしまう。むかしのことをなつかしむのはたまにだけだろう? 思い出をふりかえるより、今のことの方がだいじだろう? それはひどいことなんかじゃない。もう一回くりかえすよ、それはとても当たりまえのことなんだよ」
わたしはなにもこたえられなかった。
どうしてそんなことをうたがいもなく言いきれるのか、わからなくて。
だまっていると、男の子はぽつりと言った。
「去年、うちのメリーが死んだんだ」
「メリーって?」
「おととしのクリスマスにもらった小とり。名まえ、お父さんがつけたんだ」
男の子はそれから、メリーとはじめて出会ったときにどんなにうれしかったか、それからどんなに大切にせわしてきたか、そしてメリーが死んだ日に何があったか、どんなようすで死んでいたのか、どういうてじゅんでおわかれをして死体をにわにうめたかまで、とてもくわしくかたった。
きいていたわたしがそのばめんを見たように思いうかべられるほど、くわしく。
「かなしかった。いっぱい泣いた。でもね、今はなんともないよ」
男の子はわたしから目をそらさず、まじめなかおではなしつづける。
「メリーが死んじゃったことはおぼえてる。でも、そのときのかなしさはもうない。そしてこれからさき、むかしよりもたいせつな今を見つづけているうちに──やがてメリーという名まえもわすれてしまう。小とりをかっていたことすらも、あたまの中からきえてしまうかもしれない」
わたしは、なんとなく男の子の言いたいことがわかったような気がした。
それはまさに、わたしがいつもふしぎに思っていることだったから。
見たもの。
行ったばしょ。
会った人。
はなしたこと。
そういうものは、おぼえていられる。ふりかえりつづけているかぎり、あたまのなかにとどめておける。
でも、そのときに心にうかんだ気もちはとどまらない。
古いしゃしんが色あせていくように──じかんがたてば、どこかにきえていく。
気もちをうしなった思い出は、どこかそっけなくてよそよそしいかんじがする。だから、しだいに思い出すことも少なくなって、いずれはそれごときえてなくなる。
同じだけあたらしい思い出がつぎつぎにできていくから、ふだんは何も思わないけど──わすれたくないと思ったこともいつかきえてしまうんだとしたら、それはとてもいやだった。
「ぼくのお母さん、きのう死んだんだ」
とつぜんのことばに、わたしははっとした。
そしてすぐになみだが出そうになって、あわててうつむいた。
男の子が、こんなじかんまできょうしつにのこっていたりゆうがわかった。
かえりたくなかったのだ。
いつもむかえてくれていた人が、いなくなってしまったから。
からっぽの家にのみこまれるのが、こわかったから。
こんなときにどんなことばをかければいいのかわからなくて、しばらくはだまっていた──でも、やがてわたしは自分でもどうしてかわからずに問いかけた。
「かなしい?」
男の子はこたえた。
「かなしいよ。すごくかなしい。でもね──いつか、このかなしいってきもちもわすれてしまうんだ。そして、もっともっと、気がとおくなるほどのじかんがたったら──お母さんのかおやことばも、ぼくはわすれてしまうんだ」
ことばのはじがへんなふうにゆがんだのに気づいて、わたしはかおを上げて男の子を見た。
男の子は、ぼろぼろと大つぶのなみだをこぼしていた。
しずかでおちついたはなし方をしていた男の子が自分と同じ子どもだということを、そのときはじめて思い出した。
このきずついた子を、守ってあげたいと思った。
わたしは、一歩まえに出た。
でも、この気もちも、きえてしまうのかな。
おぼえていたいな、と心の中でつぶやきながら──わたしは手をのばして、そっと男の子のほほをながれるなみだをぬぐった。
「わたしはね──あなたのこと、わすれないよ」