第二章【井鞘達郎の奔走】⑥
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「いやー、今日の臨時議会はちょっと緊張したなー……やっぱりこの内務部部室が俺には一番リラックスできるよ」
軽井沢久三は両手を天井に向けて大きく伸びをした。
「お疲れ様です」
恐縮したように眼前の男が呟いた──軽井沢と向かい合って座っている彼こそが渦中の風紀委員会を束ねる委員長、能見康隆である。いつもは堂々とした態度と強面で取っつき難い印象のある男だが、今日はどこか萎んで見えた。
「んー。能見も疲れてるんじゃない? 大変だもんな」
「他人事みたいに言わないで下さいよ」能見は弱々しく抗弁する。「全部軽井沢さんの指示じゃないですか。しかもバレないようにやれってんならともかく、わざと柳骸坂の生徒だとバレるようにやれなんて……こっちは冷や冷やしっぱなしですよ」
「うーん、ごめんなー。こんな滅茶苦茶な仕事、安心して頼めるのは一番組織がしっかりしてる風紀委員会くらいだったからさー」
「しかもこんなに噂が流れるなんて聞いてませんよ! ルールを遵守させる立場の私らが不祥事を起こしたなんてここまで知られたら、これから先の活動にも支障が出ますよ」
「いや、俺等としてもここまで広まるとは思ってなかったよ」
心底困っている、と言わんばかりに大げさに顔をしかめながら軽井沢は答える。
嘘だった。
実は、噂がより早く広く流れるよう工作を行ったのは他ならぬ事務局内務部だった──陣頭指揮をとったのは軽井沢自身である。
すべては今日の臨時議会のためだった。今まで議会を生で見た経験はなかった軽井沢だったが、今回参考人として出席してみて背筋が寒くなるような思いだった。ここまで違和感なく全てが生徒会の思い通りに行くのか、という驚きである。
噂が学校中に広まれば、速やかに臨時議会を開かなければならなくなる──最終的に、生徒会事務局が議会の承認なく動ける場合がまた一つ追加された。事務局はまた一つ権限を拡大したわけである。
何もかも計画通り。事態は損崎会長の思惑から外れることなく推移していた。
「それで……あの、ここまで話が大きくなってしまうと」
能見はもじもじとした。
おそらく能見は委員長解任を恐れているのだろう、と軽井沢は推測した。不祥事の責任を取って委員長を首にされたなんて、管理能力のなさを証明しているようなものだ。柳骸坂はその校風から、生徒による自治に関係のある事柄を人物評価において非常に重視する──能見の進退は、彼自身の内申書に大きな傷をつけることにもなりうるのだった。
「安心しなよ、俺等に任せとけば悪いようにはしないから」
「本当ですか?」
「当たり前じゃん、上の命令にちゃんと従ったお前を切るような真似はしないよ。それにそんなことをしてお前にすべてをバラされたら俺等も全員首が飛ぶ──俺達はもう運命共同体だよ」
それにこうして仲間だと強調しておけば、既に一度非道な指示を出しているお前は今後何にだって動じずに従ってくれるだろうしな、と軽井沢は胸中でこっそりと付け足す。
いつも通り緊張感のない笑顔をキープしたままの軽井沢の考えが伝わるはずもなく、能見は目に見えてほっとした様子を見せた。
「そう、ですね。じゃあこれからもよろしくお願いします。仕事があるので、私は今日はこれで」
椅子から立った能見に、軽井沢はのんびりと手を振った。
「うん、聞き取り調査とかについてはまた決まり次第改めて伝えるわー」
深く頭を下げて内務部部室を出ていく能見を見送るために戸口に近寄る。
能見がいなくなったのを見届けて部屋に戻ろうとした時──視界の端に何かがちらりと映ったような気がした。
能見が帰って行った方とは反対方向、左手の角に何かが見えたような。
気になって、見に行ってみる。角を曲がってみるが、誰もいない。すでにその先の角を曲がられたか。その先には教室が並んでいる──他の生徒に紛れられたらもう見つけることは不可能だ。
もしかすると、誰かがあそこで能見が部屋から出てくるのを窺っていたのかもしれない──いや、そういえば能見との話が終わったぐらいの時に廊下からぱたぱたと足音が聞こえたような気がする。ただの通行人だと思って気にも留めていなかったが、あれが角に隠れるために移動した音だったとすると。
「?」
誰かに──見られていた?
「うーん、ちょっと困ったな」
また新たな噂を流されてはかなわない。
気のせいだったらいいのだが、もし本当に誰かが覗いていたのなら──そいつも始末しなければならない。
ごく普通に、軽井沢はそう思った。