第二章【井鞘達郎の奔走】②
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「今日の議会もつつがなく終わったわね。お疲れ様」
労いの言葉をかける損崎巳樹に向かって、酔月は一礼した。
「お疲れ様でした」
自分の席について、損崎は肩にかかった髪を右手で払う。これは癖になっている動作の一つで、ツインテールにした栗色の髪が自慢らしく損崎は折に触れて髪をいじる。
「酔月君、今日のあれはどういうことなのかな?」
「はい──」
始まった、と酔月は心中で呟いた。
損崎は可愛らしい外見とは裏腹にかなり舌鋒は鋭い。毎回、議会終了後に生徒会役員および生徒会事務局の人間を生徒会執務室に集めて行われる、この反省会のような集まりが酔月は憂鬱だった。
「はいじゃなくてさあ、君の説明だよ。結果として何とか纏まったから良かったようなものの、あんな説明じゃ逆井部長あたりがもっとヒートアップして事務局への制裁を提言する展開もあり得たかもしれないよ?」
「しかし──井鞘部長への指示はすべて損崎会長の決められたことですが」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ。それはもちろん、独断で動けって言ったのは私だよ? でもさ、それを馬鹿正直に言っちゃうのはどうなのって話をしてるわけ。わかる?」
馬鹿の部分に力を込めて損崎が吐き捨てる。
酔月の腹の奥に暗い炎がくすぶった。
「何かこう、そうせざるを得ないシチュエーションみたいなのを盛って批判を避けていかなきゃ駄目なの。そういう所の用心深さが足りないのを私は責めてるんだよ。それくらいのこと、言わなくてもやってくれないとさあ」
理不尽な叱責に、身の内の炎が勢いを増した。
損崎が酔月の強張った表情をのぞき込み、一段と声を高くした。
「どうしたの? 迷惑を被った私に対して何か言うことがあるんじゃないかな? 私に反抗する気? 対等には思わないでよ──生徒会事務局は執行部の手足なんだから。酔月君が嫌なら辞めていいよ、今の地位と利益を失っていいならね」
損崎が腕を組んで嘯く。酔月が辞められないのを重々わかっていながらの発言だった。
酔月をはじめとした生徒会事務局上層部の人間は、執行部から不正な利益を受け取っていた。いわゆる二重帳簿である──部活扱いの事務局は実際の必要経費以上に水増しした生徒会予算を受け取り、その余剰分を着服していた。
生徒会に隷従し、その見返りに汚れた金を受け取る。その仕組みに嵌まり込んだ酔月はもはやこの組織と一蓮托生の身だった──酔月が生徒会から消える時があるとすれば、それは生徒会によって消される時なのである。
「申し訳──ありませんでした」
頭を下げる。頭上から勝ち誇った損崎の声が降り注いだ。
「ま、今回は許すけど。報酬分の働きはちゃんとしてよね」
「ねえ巳樹ちゃん、私は? 私は何か間違えなかった? ちゃんとやれてた? ねえ、大丈夫だった?」
損崎の横に立っていた生徒議会議長の長谷井が心配そうに損崎の肩に手を置いた。
「大丈夫よマリ、あなたはいつも通り完璧だったって」
「本当? 本当? 本当? ねえそれ本気で言ってくれてる?」
何度も問いかけながら損崎の肩や頭に腕を回し──文字通り長谷井は損崎に絡みついた。
長谷井は損崎に依存している。
まったく知らない人間に関しては信じられないほど冷徹な態度を取り、酔月のような顔見知りに対しても必要最小限の事務的会話しかしない。唯一心を開く相手が損崎で、彼女にだけは限りなく忠実に仕えている。非常に極端な人見知りだった。
「じゃ、私はもう帰るから。後はよろしく頼んだわよ」
長谷井に纏わりつかれたままの損崎が、戸を開けながら振り返って酔月に手を振った。
「了解しました」
頭を下げて損崎を見送る。戸が閉まると、酔月は背後に控えていた二人の部下に向き直って少し笑って見せた。
「長谷井議長、なかなか慣れないもんだな」
「慣れない、ですか」
二人の内、左側に立っている長身の男がにかっと人懐っこい笑みを浮かべて口を開いた。
「それは長谷井さんが会長以外の人に慣れないって意味ですか、それとも局長自身が長谷井さんの性格に慣れないって意味で?」
「前者だ。しかしまあ、言われてみれば後者もその通りだな」
ですよねえ、と男が受ける。その声ののんびりとした牧歌的な響きは、間延びした独特の面相も相まって田舎の農耕馬のような雰囲気を醸し出していた。
彼の名は軽井沢久三。すべての委員会を統括し校内の運営を司る、生徒会事務局「内務部」部長である。
「いや俺も内気な人ってのは何人も見てきましたけど、長谷井さんのあれレベルになると流石にちょっと問題かもしんないですよ。もう何か月も同じ生徒会メンバーとして接してるのに、未だに話しかけてくれたこともないんですもん。それどころか、こっちが声をかけようもんなら──」
軽井沢君、と右側に立っている女子の方が険を滲ませた声で割り込んだ。
「本人がいない場でそういう中傷をするというのはあまりいただけないわね」
軽井沢とは対照的に、高校生とは思えないほど背が低い。それでいて造作や表情には幼さは微塵も感じられず、ひっつめた髪と細長いフレームの眼鏡も相俟ってやり手のキャリアウーマンのような印象がある。その外見通りに、性格も鋭くキツく隙がない。能力の高さゆえに必要以上に自他に厳しくしがちなタイプ、とでも言えばいいのだろうか。
彼女は幾地梨由。校外との一切の接触を管理する、生徒会事務局「外務部」部長である。
幾地の睨むような視線にたじろいだ様子で、軽井沢が顔の前で手を振る。
「ああいやいや、別にそんなつもりじゃないんだけどさ」
「悪気がなければ何をやってもいいってものではないわ」
「そういじめないでくれよ、俺は単にちょっと世間話の種として言っただけなんだからさ。ていうか幾地さん、いつも思うけどなんでそんな余裕ないの?」
「お生憎様、私は生まれつきこうなのよ」
「性格が生まれつき備わってるってことはないでしょ。俺はさ、人格を形成するのに一番大きく影響するのは環境だと思うな──幾地さんの家庭環境の中に、何かそうなる要素があったんじゃない?」
「下世話な詮索はやめて欲しいものね。長谷井さんのことといい今のことといい、あなたにはデリカシーってものがないの?」
「無神経で無遠慮な奴みたいに言わないでくれよ、傷つくなあ。俺は誰に対しても胸襟を開く気持ちで接したいと思ってるだけだよ」
「あなたが胸襟を開くのは勝手だけれど、相手にまでそれを強要するのは驕りよ」
「そうかな? みんな俺みたいに生きればハッピーになれると思うんだけど」
「あなたって本当に自覚なく他人の神経を逆撫でする人ね」
「マジで? 幾地さん、ずっとそう思いながら俺と仕事してたの? なんかショックだなあ」
「いつだってそう言ってるじゃない。記憶力がないのもあなたの悪いところだわ」
「いや申し訳ない、気をつけるよ。じゃあ俺の言葉が人の神経を逆撫でしないようにするにはどうすればいいのか一緒に考えてくれない?」
「必要な時以外金輪際口を開かなければ済むことよ。そう、馬鹿にしてないで長谷井さんを見習わないと駄目ね」
「長谷井さんをねえ。でも俺が、長谷井さんが会長に接するみたいにガンガン構いに行ったら絶対幾地さんは怒るだろ?」
「私が言ってるのはそこじゃないわよ。そういうこと、本当は分かってて言ってるでしょ? 話を無意味に茶化そうとするのもあなたの悪いところよ」
「幾地さんと話してると、見直すべき欠点がいくつも分かって勉強になるなあ」
「他人事みたいに言わないでよ。直す気あるの?」
二人は軽妙に会話する。内容はいつも同じ──馴れ馴れしく話しかける軽井沢を幾地が拒否し、批判するという流れなのだが、会話のテンポが絶妙で、まるで一から十まで打ち合わせ済みの漫才を見ているような気分になる。
性格的に正反対の人間同士が反発し合っているように見えるのに、不思議にリズムが合っている。それは日常会話だけでなく、仕事においても二人はしっかりと息が合っていた。でなければ生徒会事務局は回らない。
これもある意味仲がいいと言うのだろうか、と思いながら酔月は手を打った。
「さあ、お喋りはそのくらいにして仕事に移ってもらおうか」
「あっ、すいませーん」
軽井沢は頭に手を当ててへらへらと笑う。幾地はなんで私が注意されなければいけないのか、と言いたそうに憮然としている。これもいつも通りだった。
生徒会事務局はこの二つの部に大別され、外務部の下には交渉窓口や校外広報係などが、内務部の下には各種委員会や総合運営係が所属する。そして各部署のトップである二人に命令を出すのが局長の酔月ということになる。しかし各種の事務活動はあくまでも生徒会長である損崎の名において執行されるし、もっと言うならばその命令の内容は議会の議決によって決定する。局長という肩書きはあっても、酔月はあくまで二人を取りまとめるだけの立場なのだ。
──今までは、そうだった。
これからは違う、と酔月は考える。
今日の議会で、事務局にも一定程度の自立的な行動が許されることとなった。
とは言え、独断で行った行為に関しては必ず次の議会で追認を得なければならない。権限があるとは言ってもあくまで限定的なもので、やりたい放題はできない。
いや。
正確に言うならば、今のところはそういう顔をしていた方が──得策なのだ。
きっと会長も同じことを考えているのだろう、と酔月は思った。