入学式へ
「ネクタイってこれでいいのかな?」
今日は入学式の朝。
坂上優陽は初めての高校生活に向かうために、慣れない制服の準備に手間取っていた。
高校生活の始まりともなれば第一印象は重要なファクターといえよう。事前に何度も練習したのだが、角度はこの位置でいいのかとか、大きさは大丈夫か、長さはどうだとか、朝から優陽の悩みの種は今日も順調に芽生えている。
何気なく時計を見る。
「おっと、もう行こう」
入学式まで一時間以上あるが、早いうちに出ることに越したことは無い。徒歩30分の距離なので、今から行けば30分前には学校にたどり着くだろう。部屋のドアノブを開け、階段を下りていく。
優陽の家は一戸建て。二階に優陽と妹である麻衣の部屋がある。トントンと階段を下りていくと、
「優陽、もう行くの?」
と母親がダイニングから出てきて聞いてきた。
「うん。落ち着かなくて」
「大丈夫? お父さんと私も一緒に後から向かうからね」
「えっと、修さんが?」
思わず聞き返す。
「そうよ。今、修さんお着替え中なの」
「そっか。仕事休めたんだね」
優陽はほんのちょっとの戸惑いを胸に感じたがそれを隠しながら、言った。
「そりゃあ、優陽の入学式だからな。なんとしても休みは取るさ」
すると、紺のスーツを着た修さんが優陽の気分をほぐす様な明るい口調で話しかけてくる。青と白のストライプのネクタイを首に巻きつけ、まだワイシャツの一番の上のボタンは外したままのラフな格好だ。
「それに、美波さんの綺麗な姿も見れてデートにもなるいい機会だからね」
「いやん、もう。修さんったら」
「はっはっはっ」
こんな新婚ほやほやの会話を優陽は少々、うんざりした目で見る。
そんな息子の視線を当然のごとく受け流し、というか気づきもせずに二人の世界に入ってしまっている。
「全く、熱々だね」
そう言って階段から降りてきたのは優陽の妹、坂上麻衣だ。
麻衣ももう学校に向かうようで、制服に着替えていた。麻衣は苦笑いしながらも二人を見てどこか嬉しそうな感じである。
修さんと優陽の母親は先月に結婚したばかりだ。優陽と麻衣の実の父親は四年前に突如、亡くなってしまっている。父親の同僚であった修さんは、よく家に来ては優陽や麻衣の事を気にかけてくれていた。それも、四年の間ずっと。その四年間もあれば優陽も麻衣も、修さんが、母親を大切に想っていることはなんとなくでも伝わってしまう。いつのまにか、二人が付き合うことになったのはごく自然なことなのだろう。
二人が、結婚することを知った時も、優陽は祝福の言葉を述べることができた。
――だから、優陽が心の底で感じている苦さを、母親も修さんも知らないだろう。
(それはきっと、二人を深く傷つけることになってしまうから)
そう、だから優陽は無理やりにでも笑顔を浮かべていた。そうして、修さんを自分の中で『父親』と呼べるようになるまで、それが無理でも、それに近い存在となるように努力しようと優陽は思う。抱えている気持ちを時間が解決してくれることを心の中で願いながら。
「じゃあ、私行くね」
そんな優陽の気まずさを救ったのは麻衣。
「僕も行くよ」
と麻衣が玄関に向かうところを追随させてもらう。
「そっか。じゃあ、優陽はまた後でな。麻衣は中学生活最後の年、悔いのないスタートを切れよ」
麻衣が靴を履き終えて振り向きざまに一撃。
「お父さん、ちょっとジジくさいよ。その台詞」
「っぐ」
と修さんが胸を抑えてうめいている横で優陽も靴を履き終える。
「じゃあ、行って来ます」
「行ってくるね」
と振り返って麻衣と優陽。
「おう、気張っていけ」
「車に気をつけるのよ」
と二人の見送りの言葉を受けながら、扉を開けた。
坂上優陽はまだ眠そうな瞼を、眼鏡をずらしてこすった。優陽の外見について触れると、やせ気味ではあるが、中肉中背であり、黒縁の眼鏡を掛けていて、顔はそれなりに整っている。だが優陽を見て第三者が抱く第一印象は『なんか眠そうな顔をしている』というものだろう。
そんな優陽の隣にはやけに機嫌がよさそうな自分の妹である麻衣が鼻歌を歌いながら歩いている。
「ねえ、麻衣。学校、こっちの方向じゃないよね」
「うん」
「いや、だったら、なんでこっちの方向に?」
優陽の通う学校と麻衣の通う中学校は全く反対方向だ。
麻衣は西の方向で、優陽がこれから向かう聖峰高校は東の方向に位置する。なだらかな平地が続く西の方角とは違い、東の方角は急な斜面が続く。その斜面をしばらく登ったところに聖峰高校はある。
「それはさ。あいつをたまには迎えに行ってやろうかなって」
「あいつって、蓮?」
「いや蓮じゃなくて、自称『ロングロングバケーション』中の方」
「ああ、正成のほうね」
「そ」
嬉しそうに麻衣はうなずいている。正成と蓮は麻衣と優陽の幼馴染で、現在特に正成と蓮と麻衣は今でもつながりは深い。
蓮はサッカー部のエースでありキャプテンで、生徒会長でもある。一応、蓮は麻衣の彼氏で、対して正成は中学二年から学校に来なくなった不登校者だ。
なのに、麻衣は何故か嬉しそうに正成の家に行こうとしている。
(……そこは深く突っ込まないほうがいいだろうな)
と胸のうちで妹に対する不安をちらつかせてしまう。
「この機会に誘わなきゃ。そうそう、チャンスないだろうし」
「そっか」
「正成、来るかな……」
「うん。わかんないけど、麻衣がそう思っていることが大事だよ」
「……お兄ちゃん」
麻衣は優陽のほうを見て、陰りをみせた表情を明るい笑顔に変えた。
「うん。そうだよね。よし、正成の馬鹿を誘ってきますか! じゃあ、お兄ちゃん」
麻衣はそういうと正成の家の方に向かう道へと駆けていく。その姿を微笑んで優陽は見送った。
麻衣と別れた後、優陽は通学路の途中にある公園に立ち寄ることにした。
高校の校舎へと続く道から遠回りであろうその公園を坂上優陽が通ったのは、初めての高校生活が始まることに対する緊張感と眠気を払おうとしたためである。とりあえず、眠気覚ましに飲み物を口にしようと、公園内にある自動販売機に向かう。すると、ボサッとした髪の見知った人物がいたので声を掛ける。
「おはよう、正成」
うん? と振り返った人物は優陽だと知ると人懐っこい笑顔を浮かべた。
「ああ、優陽! おはよう!」
と挨拶をして優陽の格好に正成は目を留めた。
「なんだよ、その格好は」
と幼馴染で一つ年下の楠木正成が怪訝そうに聞いてくる。ちなみに彼の格好は、ジャージに運動ズボンで、両手には軍手をはめていた。ゴミ袋を左手で燃えるゴミ用と燃えないゴミ用をもっており、右手にトングを持っていることからわかるように、彼は絶賛ゴミ拾い中なのである。
「なんだよ、って入学式にこれから行く途中なんだけど」
「え? 優陽ってもう高校生?」
正成は、手に持ったトングで空き缶を拾ってゴミ袋に捨てる途中の動作で一旦停止。
「……だからこの制服を着てるんだけど」
聖峰高校特有の制服なので一目でわかるはずなのだが。
「ほえー、時が過ぎるのは速いな。光陰矢が乱れ撃ちって感じだな」
「意味がわからなくなってるよ、その言葉。あと、正成も今日、登校日なんだけどね」
「……なんのことかな?」
と口笛を吹く真似をする。真似だけあって吹けてない。本当は口笛を吹ける正成だが、誤魔化すために吹こうとすると吹けないという可哀相なほど正直な性格をしていた。
「麻衣が、『正成、来るかな』って期待してたけど?」
「うっ」
正成は中学二年の頃から学校に行っていない。だから、正成のことを麻衣は心配しているのだ。というよりも、怒っている、に近いのだが。
学校に行っていないわりに引きこもっているわけでもなく、こうしてゴミ拾いをしたり、運動をしたりと元気に外に出ている正成を見ればそういう感情になってもおかしくはないだろう。
とはいえ、優陽もそんな麻衣と同様、どういう風に接したらいいのか戸惑う部分もあるのだ。しかし、触れていい部分と触れてはいけない部分が分からないため、とりあえずその事にはあまり触れないようにしている。
「それに麻衣、正成の家に誘いに行ったところなんだけど」
「そっか、仕方ないなー。俺、見てのとおり、ゴミ拾い中で」
(麻衣が来るの見抜いていたんだろうな)
優陽はなんとなく思う。
「いいけどさ。どっちにしろ、学校終わったら、正成の家に向かうかもしれないから、そのつもりでいたほうがいいよ」
「ちょっと出かけていようかな、その時間帯」
「その場合、火の粉が僕に降りかかるからやめてね」
「悪い! 優陽」
「はあ」
逃げ出す気満々の正成に優陽はため息をついた。
「どうした、眠そうだな」
「眠くないよ!」
と思わず返してしまう。正成が優陽の顔を見たら言う挨拶のようなやり取りなのだが、今は本当に眠い。仕方ないので、
「ちょっと眠いけど」
と渋々肯定した。
「お? 珍しく肯定した。なんだ、本当に眠いのか」
「昨日、ちょっと眠れなくてね」
「優陽っていつも眠そうな顔してるからわかんないよな」
「うっ」
悔しいがそのとおりなので言い返せない。結構、自分としては気にしているのだが。瞼が垂れているわけではないが、全く不思議なことになんとなく優陽は『眠そう』に見えるのである。
「新しい宇宙の本でも買ったのか?」
「違うよ」
「なら、緊張して自己紹介どうしようか悩んでて、そのうち何を考えてそういう展開になったかわからないような脳内ストーリーに夢中になっていた、とか?」
「凄いよ! なんでわかったの?」
「いや、今のは冗談なんだが……」
正成は苦笑いを浮かべている。優陽は正成と話しているうちにいつもの調子を取り戻してきた。それとともに眠気を一層感じて、あくびをする。
しばしの沈黙。
何をするでもなく、優陽はその場でボーっとしてしまう。
――すると、いつのまにか優陽は自分の世界に入ってしまっていた。
クエーサーとは1960年代に、発見された天体。それらの天体は恒星に似ていたため『恒星状電波源(quasi-stellar radio sources)』略してクエーサーと呼ばれている。
そんなクエーサーはまだまだ謎に満ちていて、そこに優陽はロマンを感じているのだ。思わずいろいろなことを思索してしまう。
だが考えてみれば、まだまだ新鮮な空気が辺りを満たし、小鳥のさえずりが心地よく耳をくすぐる、そんな穏やかで平和な時に深遠なことを考える高校生は滅多にいない事だろう。ただ、傍目からは単に眠そうであり、ボーッとしているようにしか見えないだろうが。
「ああ、これは宇宙に行ってるな」
正成はそんな優陽の状態を一目で看破していた。
そう、優陽は極度の天文オタクなのである。
仕様がないので、正成は一時停止を解除し、つまんであったゴミをゴミ袋に入れた。そして、ゴミ袋をその場に置き、ポケットに手を突っ込んで小銭を取り出す。少し離れている、自動販売機のほうに歩いていき、超濃厚キナコジュースのボタンを押す。ゴトン、と缶が落ちてきて、正成はそれを取り出す。心地よい冷たさをその手に感じながら、優陽のところへと戻る。
優陽はまだ違う世界に飛んでいるようで、正成は肩をすくめた。そして、少し大きめの声で、
「おい、優陽! 戻って来い!」
「ブラックホール……」
「その覚醒の仕方やめてくれ。一瞬どんな反応を返したらいいかわからん」
「あれ、ブラックホールは?」
いつのまにかクエーサーからブラックホールの謎に思いを馳せていたらしい。正成はそんな優陽にため息をつきつつ、
「ブラックホールは分からないが、缶ジュースはあるぜ」
正成が超濃厚キナコジュースを優陽に渡した。優陽は顔を綻ばせる。
「ありがとう。いつのまに買って来てくれたの?」
「お前が宇宙と交信してる間だよ」
「?」
「自覚ねーのな」
正成が何をいってるのかわからないと言いたげな優陽の顔。それにしても第三者がいたら気になる点として挙げられるのは優陽の手にある超濃厚キナコジュースだろう。通常のキナコジュースの十倍界王拳:当社比と表記されていた。いろいろと突っ込みたいところを我慢したとて、そもそもキナコはどうなのだろうか。イメージ的に胃がもたれるほどの甘さを思い描くだろう。だが、そんなことをお構いなしに優陽はその不穏な飲み物の蓋を開け、一気に飲み干した。
「うーん! この甘さ! 生き返る!」
「……よく飲めんな、それ」
飲み干した優陽は本当に美味しそうな顔を浮かべているが、買ってきた正成本人は心なしか距離をとって鼻をつまんでいる。
「なんで、鼻つまんでるの?」
「お前の飲んでるそのジュースな。お前が好きだから買ってやったがな、胸がむせ返るような甘ったるい匂いがするんだよ」
「それがいいんだよー」
「お前のその感覚は異常だからな」
忠告するような口調で正成は言った。
(美味しいのになあ……)
「はうああああああ!! ごほっごほっ」
不意に大きな声がして、その声の方向を向くと、一人の少女が激しくむせていた。傍らには缶が落ちていた。なんのジュースなのかは少し距離があって読み取れないが、色は優陽がもっているキナコジュースに似ているように見える。
「大丈夫かな、あの人」
「ちょっと俺、様子見て来るな」
「あ、僕も行くよ」
正成が歩き出したところを止める形で優陽が言った。
「時間は大丈夫なのか?」
「うん?」
正成に言われて、時計を確認する。入学式が始まる時間は9時である。今は9時になる5分前を時計が指している。
(うん)
「遅刻だ!!」
と優陽は叫んだ。
「もう、いかなきゃ! 正成、後は任した!」
「おう!」
と正成は返事した。
正成は慌てて走る優陽の姿を見送ったあと、先ほどむせていた少女に近づく。髪の色が黒ではなく金色なので外国人だろうか。それに、
(あの制服、優陽と同じとこのじゃねーか。こりゃあ、この子も遅刻だな)
少女の後ろ姿を見て正成はそう確認した。さらに距離を詰めて、少女に声をかける。
「大丈夫か?」
少女は少し身動ぎした。
(驚かしたか?)
と正成は心配した。
だが次の瞬間、正成は思いがけぬ衝撃を受ける。
それは文字通りの意味で、少女の頭突きを腹に喰らったのだ。全く油断していたことに加え、みぞおち気味のその頭突きにたまらず、崩れ落ちる。
「な、な、な」
「あ、あの! お願い! ちょっと、協力してほしいの!」
正成はお腹を押さえながら、少女の姿を見やる。眩しい日差しに目がくらみ、少女の姿を視認できないが、そのシルエットから長い髪であることは分かる。金髪が日差しを浴びて少女が輝いて見えるようだ。
「協力ってなにを」
まだ苦しいお腹をさすりながら、搾り出すように正成は問いかけた。
「か、彼と、――宇宙人と話す、き、きっかけを」