2.カラマレカノジョ
次の日の朝。
由羽はベッドの上で目覚め、首をかしげた。
「……あれ? わたし、いつの間に寝たんだっけ?」
そう。いつ寝たのか覚えていないのだ。というかそもそも、いつ学校から帰ったかさえ覚えていない。
昔からよくあることなのだが、本当に不思議だ。しかし昔から起こりすぎて最早それが常識になりつつある由羽は、深く考える前に着替えることにした。レイナードが迎えにくるからだ。
顔を洗い、制服に着替えて食事を摂り、鞄の中の物を確かめているとチャイムが鳴った。レイナードだ。由羽は慌てた様子で下に降り、玄関の扉を開けた。
「レイ、おはよー!」
「うん。ユウ、おはよう」
レイナードの笑顔を見ると、由羽はほっと息をついた。彼がそばにいると落ち着くのだ。
そのままの勢いでレイナードの手を握れば、互いの指を絡める形に握り直される。いわゆるところの恋人つなぎというやつだ。
それにさらに気を良くした由羽は、緩んだ笑みを浮かべる。
「えへへー」
「どうしたの、ユウ」
「んー? いやー幸せだなーって思って」
そう言うと、レイナードは笑う。気の抜けたような笑みは、彼がとてもリラックスしていることを表していた。
ふたりが通うのは、家から徒歩十分ほどのところにある高校だ。一応進学校なため勉学の面では厳しいが、それ以外は自由を売りにしている校風である。
徒歩で行けるからという単純な理由で選んだ高校だったが、なかなかに快適だった。何よりレイナードと尊がいる。由羽にとってそれは、かなり大切なことだった。
(レイと歩くこの時間、好きなんだよね)
たかが十分、されど十分。手を繋ぎながら行くこの道のりが、由羽は好きだった。ふたりとも人が多いのが苦手なゆえ少し早めに出るので、人もまばら。ゆったりするには良い時間だ。
緩く結ばれた手は大きくて、温かくて。
由羽は密かに、力を込めた。
学校に着き教室に入ると、そこにはすでに尊がいた。彼女は自らの席に座り、本を読んでいる。朝から良い光景を見た、と由羽は満面の笑みを浮かべた。
ふたりの存在に気づいた尊は、ページにしおりを挟み閉じる。そして由羽に向かってだけ、優しい笑顔を見せた。
「尊ちゃん、おはよう!」
「おはよう、由羽。……とその彼氏クン」
「失礼な言い方だね?」
「呼び方ひとつでうるさい男ね。器が小さいんじゃないかしら?」
「……いい度胸だ。やる?」
「やれるもんならやってみなさいよ」
「まぁまぁふたりとも、落ち着いて」
朝から視線だけで火花を散らすレイナードと尊に、由羽が仲裁に入る。これも、いつも通りのやりとりだ。互いに自分の意見を主張するタイプだからなのか、しょっちゅう衝突する。そのふたりの間を取り持つのが、由羽の立ち位置だ。
なんだかんだ言って由羽は、三人で過ごす時間が好きだったりする。
それにレイナードと尊はときに、すさまじい結束を見せることがあるのだ。
(もしかして、同族嫌悪ってやつかな?)
由羽はそう考えているが、口に出したら全力で拒否されそうなので、黙っていた。
三人で朝の時間を過ごしていると、やがて教室に生徒たちが入ってくる。そして始業を告げるチャイムが鳴った。
***
実を言うと、由羽に絡んでくるのは彼女自身の力を欲するものだけじゃない。というより毎度のことながら眠らされるので、本人がその事実に気づいていないだけなのだが。
そんなことはさておき。
由羽にしつこく絡んでくる彼女たちは――吸血鬼。
そう。レイナードの強さに惚れた、吸血鬼たちである。
彼女たちは必ず、レイナードが部活へ行った後に現れた。
「失礼いたしますわ」
なんだかんだ言って礼儀正しい彼女たちは、一言断りを入れてから教室に入ってくる。
その先頭にいる金髪の美女が、由羽に毎度突っかかってくる吸血鬼、アンジェリカである。彼女はレイナードの強さに心の底から心酔し、彼を慕っていた。
「あ、アンジー様だ」
「アンジー様と由羽ちゃんのやり取り、始まるのか! 楽しみ!」
そんな歓声が教室内で湧き起こる。それもそのはず。アンジェリカはひとつ上の先輩であり生徒会長で、みんなから愛されていた。吸血鬼の割に真面目で、優しいからだ。「アンジー様」というのは彼女の愛称である。
一種の名物と化している、由羽とアンジェリカの口論を見るためだけに、無駄に人が集まっていた。
「あ、こんにちは。アンジェリカ先輩」
そんな状況にもかかわらず、由羽はマイペースだ。ぺこりと頭を下げ、しっかりと目上の人として扱っている。
根が真面目なアンジェリカは、たじろいだ。
「え、ええ、こんにちは。由羽さん」
「はいー! あ、アンジェリカ先輩は見回りですか? ご苦労様です」
見回りなどではなく喧嘩を売りに来たのだが、ここまで邪気のない笑顔でそう言われると否定しづらい。
アンジェリカは頬を引きつらせた。
「え、ええ、そうでしてよ。それで由羽さん、レイナード様の件について、お話があるのですけど」
「はい、なんでしょうか?」
アンジェリカは仕切り直すために、一度深く息を吸った。
「レイナード様とお付き合いするのは、やめたほうがよろしいですわ」
そして吐き出す際の勢いで、そう言い切る。
幾度となく告げられてきたその言葉に、由羽は真面目な顔をする。
アンジェリカは矢継ぎ早に言う。
「レイナード様は吸血鬼です。そしてあなたは人間。生きる時間も、ましてや体の作りそのものが違いますわ。あなたがそばにいれば、あなたが死んだ際、レイナード様はさぞや傷つくことでしょう。それを承知の上で、あなたはお付き合いしているのかしら?」
きらりと、アンジェリカの青い瞳が鋭く光る。いつもはのらりくらりとやり過ごされてしまうため、本題に入ったのは今日が初めてだった。それだけで、彼女のポンコツっぷりがうかがえる。そこが可愛いと評判で、生徒たちから愛されているわけだ。
しかしその問いかけは、実に的を得ている。頭は良いのだ。由羽は感心した。
だからこそ由羽は、自らの本心を口にする。
「もちろんですよ」
「じゃあ、なぜ……」
「でもごめんなさい。わたし、わがままなんです」
吸血鬼は、魔族と呼ばれる種族の中でも強者であり長命だ。由羽とてそれを知っている。彼女は間違いなく、レイナードを置いて先に死ぬだろう。
でもだからと言って、この想いを諦めるのは間違っていると思うのだ。
「つまり、あなたはレイナード様が傷ついても良いと。そう言いたいのですの? それは断じて許せませんわ」
憤りをあらわにするアンジェリカに、由羽は笑いかける。そして少し違った話題を持ちかけた。
「先輩は、先に死んでしまう側の気持ちを考えたことがありますか?」
「それは……ありませんけど」
「ですよね」
そうだろうなーと由羽は肩をすくめる。長生きすることを前提に生きているのだから、そんなことを考えたこともないだろう。
由羽は両手を握り締めた。
「置いていく側だって、つらいんですよ。でも……その恐怖に怯えて彼との時間を削ってしまうほうが、もっともっと怖いんです」
そりゃあつらい。レイナードが悲しんでる姿を思い浮かべるだけで、胸が引き絞られるような心地がする。でも、先ばかり見てたって生きられないのだ。
それならばたくさんの思い出を作るために、今ともにいる道を選ぶ。それが由羽の考えだ。
「レイのこと、好きだから。大好きだから。だからせめて今だけは、幸せなところを見ていたいんです。だってそのほうが、レイにたくさんの思い出を残してあげられるじゃないですか」
だからこそ、由羽は写真が好きだった。レイナードがあまり気乗りしない中、どこへ行くにも必ず写真を撮っていた。そしてそれはアルバムにおさめてある。
そんなものを残している最大の理由は、レイナードが少しでも寂しくないように、という想いからだった。
由羽は自嘲する。
「自分勝手な願いです、先輩には、くだらないことに見えるかもしれません。ですけど、わたし、死ぬならレイのそばで死にたいので」
唖然と立ち尽くすアンジェリカに、由羽は困った顔をした。幼馴染という間柄ゆえに、昔から考えていたことだったが、驚かせてしまっただろうか。
そんな場面を静観していた尊が、ひとつため息を漏らす。
「お話がそれだけなら、わたしたちは部活に行かせていただきますね、先輩。ほら、由羽。行くわよ」
「あ、うん」
尊に腕を引かれつつ、由羽はアンジェリカのほうを振り返る。
「先輩、さようなら!」
教室で呆然としているアンジェリカと、その取り巻きたち。
取り巻きたちはアンジェリカにどんな言葉をかければ良いか分からず、おどおどしている。
そんなときだ。アンジェリカが肩をわなわなと震わせた。
「あ、アンジェリカ様っ?」
「………………な、んて……」
「…………は、はい?」
「なんて素晴らしい恋愛観なんですのーー!! でも悔しいですわーー!!!」
そんな叫び声が、学校中に響いたとか、響かなかったとか。
***
帰り途中。
レイナードはふと思い出したように、口を開いた。
「そういえばユウ。あの女に何かされなかった?」
「あの女って……もしかして、アンジェリカ先輩のこと?」
アンジェリカのことを「あの女」呼ばわりしたレイナードに、由羽が唇を尖らせ「だめだよーそんな風に言っちゃ」と言う。が、レイナードがそれを改めるつもりはなかった。
わざわざレイナードがいない時間を狙って由羽のもとへ来ているが、彼の耳に入っていないわけもなく。
むしろ学校全体の名物となってしまっているため、情報収集などしなくとも、自然と話が伝わってくる。
それゆえに今日の出来事は大方把握していたレイナードだったが、由羽の口から事実を聞くまでは安心できなかったのだ。
由羽が傷つかなかったか。泣きそうになったりしてはいないか。
そんな不安がもたげ、余計に刺々しい口調になってしまった。
しかし由羽は、あっけからんと答える。
「アンジェリカ先輩とのおしゃべり、とっても楽しかったよ!」
その顔には満面の笑みが浮かんでおり、嘘をついている風はない。由羽は思い出したように拳を握り締め、楽しそうに語り続ける。
「アンジェリカ先輩って、ほんとかっこいいんだ〜わたしが見てない部分をたくさん見てるの。だから毎回びっくりするんだ〜。でもね、そのたびに、レイへの想いを再確認するの! アンジェリカ先輩って本当にすごいねー!」
「……そう。それなら良かった」
レイナードがアンジェリカを生かしているのは、由羽が楽しそうだからだ。それ以上でもそれ以下でもない。由羽が泣くようなことがあれば、即刻首を刎ねるつもりでいる。
同族だろうがなんだろうが、邪魔ならば消すだけだ。彼が由羽以外で大切にしている者と言えば、両親くらいなものである。
まさかアンジェリカも、そんな理由で命拾いしているとは思わないだろう。
アンジェリカの存在を、即座に頭の中から消し去ったレイナードは、小鳥のように忙しなくさえずる由羽を見つめ、ひっそりと微笑む。
「ま、ユウが楽しいならなんでもいいよ」
そしてぽつりと、由羽にも聞こえないほど小さな声で、そうつぶやいた。