第7話 「ゆっくり」
「おう、起きろ、ヒョウ」
幸谷が由島藩軍務方の役人との顔合わせから帰ってくると、ヒョウは気持ち良さそうに熟睡していた。
幸谷はしばらくヒョウの寝顔を見ていたが、無性に枕を蹴飛ばしたい衝動に襲われた。そこで迷わずノータイムで蹴ってみる。
ヒョウがあまりに満ち足りた表情で熟睡していたからだろうか。
30間近の烏丸流皆伝者は実に大人げなかった。
すると、起こされたことに気付いたヒョウが、よろよろと半身を起こすが、やはり頭はまだぼんやりしているようだ。
外はもうすぐ日没である。遠くの山の端がうっすら赤く染まっていた。
「ほれ、起きろ。もうすぐ晩飯だが、その前に稽古だ、稽古」
ヒョウは弾かれたように立ち上がるが、まだ身体が完全には起きていないのか、フラフラと柱に頭をぶつけてしまった。
ヒョウはいわゆる寝ぼ助ではない。
山の中では寒かったり、暑かったり、虫が寄って来たり、腹が減って眠れなかったり、とにかく熟睡などとは程遠い生活を送っていたのだ。
それが今回、たっぷり歩いて疲れた後に、風呂に入ってサッパリとし、旨い食事で満腹して、柔らかい布団に包まれて眠るという、極楽を味わった。結果、本物の熟睡を体験したというわけだ。
全身の細胞全てが熟睡していたと言っても、決して大げさではないだろう。
完全熟睡、そこからの覚醒は、まだ子供であるヒョウには想像以上に至難であった。
そこへ幸谷による一撃が、パカンと良い音を立ててヒョウの頭に入った。
「おおお、ああ…」
ヒョウは頭を抱えて、うずくまる。
「稽古だ。ほれ、そいつを持って、付いて来い」
真面目ぶった顔で、木刀を投げ渡す幸谷の顔は、どこか楽しそうだ。
「いてて…、何も木刀で叩かなくても良いじゃないか!」
部屋で言い合っているうちに、日没を迎えたようだ。
旅籠の使用人たちが、明かりの魔道具を持って、建物のあちこちに設置していく。
大通りはまるで昼間のよう――とまでは行かないが、人の顔や足元が分かる程度には照らされていた。
通りには何軒も旅籠や食事処が軒を連ねているので、日没後であっても、大きな通りなら、手持ちの明かりなしで問題なく通行できた。
通りはまだ人の往来が多く、かき入れ時なのか、旅籠の呼び込みが旅人と思しき風体の男を捉まえては、連れ込もうとしている。
二人は一旦外へ出て、旅籠屋の裏に廻る。さすがに表通りで木刀を振るわけにもいかない。営業妨害で宿を叩き出されかねない。
各部屋の照明魔道具から洩れた明かりが、裏庭を柔らかく照らしていた。昼間とは比べるべくもないが、木刀を振る程度なら、全く問題ないだろう。
「ほれ、振ってみ」
言われて、「ふぅ…」と息を吐くと、ピタッと木刀の先が止まり、構えが決まる。そして、ここ数日で教わった型をなぞるように、ゆっくりと振る。
とにかく、出来る限りゆっくりと振る。
息を吐きながら、振る。
ひらすら、ゆっくりと型をなぞるのみ。
型はわずかに3つ。
袈裟斬り、胴払い、突き。この3つを、木刀の軌道がブレないように気をつけながら、ゆっくりと繰り返す。
しばらくすると、全身がだるくなり、汗が噴出してきた。
ヒョウとしても、初めはこの稽古の意味が分からなかった。こんなゆっくりと木刀を振って、どうして魔物が狩れるのかと。何も狩れない稽古に何の意味があるのかと。
しかし、すぐに、この稽古の意味が予想できた。これは身体作りなのだと。
山小屋で初日の稽古の後、全身の筋肉痛と気持ち悪い疲れで、身体がガタガタになったのだ。それこそ、穴を掘っただけの厠、そこで中腰になるのも辛いほどに。
つまり、技以前の段階で、この程度で疲れているようでは、話にならないのだ。遅かれ早かれ、魔物に狩られるだけなのだと理解した。
殺す為の稽古ではなく、殺す為の身体を作る為の稽古。そう表現できるかも知れない。
ヒョウは幼いながらも、剣術とは、「生き物」を殺す為の術だと、正しく理解していた。
「(ガキの身体には、少々重い木刀なんだがな……)」
ゆっくりと稽古を続けるヒョウを見ながら、幸谷はぼんやりと考えていた。
幸谷は木刀を作る時に、自分が手に持った感じで、何となく作ってしまった。木刀作りの職人でもないのだから、仕方のないところだろう。
乾燥させた堅い木で作った本格的な木刀ではなく、生木を自分なりに削っただけのものだ。素振り以外には使用しないのだから、乾燥してようが、してまいが、堅い木だろうが、軟い木であろうが、全く気にしなかった。刀身のバランスなど、どこ吹く風と言ったところである。
一応、ささくれで怪我しないようには気を使ったが、結局のところ、その程度。子供の指の長さに合わせて、握りを細くしたりといった工夫さえ施していない。
特段、器用なわけでもない。
渡した後で、ヒョウが重そうに振ってるのを見て、やっと自分の失敗に気付いたほどだ。それでも、作り直そうとしないところが、幸谷の大雑把さを如実に物語っていた。
子供の力なんて、大人の身には分からない。
昔は自分も子供だったと言っても、いちいち細かい記憶は残っていないのだ。
しかし、幸谷ははたと思い出した。「楠三さんに初めて渡された木刀も、重かった」と。そこで、幸谷の性分としては、「ま、良いか」となったわけだ。
ちなみに、楠三の名誉の為に言っておくと――というより、烏丸村では子供に稽古をつける時は、ちゃんと子供用に作った木刀を使用している。もちろん、幸谷も子供用の木刀を使っていた。単に、幸谷の主観で「重かった」と記憶しているだけである。
子供用の木刀を使うのは、稽古で怪我をするのは仕方ないとしても、身体に合わない木刀で、意味も無く怪我をした上に、稽古を休む破目にでもなれば、本末転倒だからだ。
山暮らしで多少は体力があるとはいえ、ヒョウはまだ8歳である。一方、幸谷が村に来た時は10歳。もちろん、幸谷はそんな「細かいこと」は全て忘れていた。幸谷という男は、その辺りの感覚に関して、大雑把なところがあった。
ゆっくりと木刀を振っていたヒョウの身体のバランスが、疲れからか、次第に崩れてきた。剣先は揺れ、下半身がプルプルと痙攣し始める。
ヒョウは「くそっ」と小さくつぶやく。
「ふぅ…」
ヒョウはゆっくりと息を吐き、また、ゆっくりと吸い込む。数回繰り返すと、痙攣していた下半身が安定し、剣先の揺れも止まった。
「(何か、もう拙いながらも、『強化』まで出来ちまってんだよなぁ)」
幸谷は初日に何度か自分で振ってみせ、それを真似るように言っただけである。『強化』についてはおろか、『気力』自体教えていない。
ヒョウの身体はまだ小さい。子供なのだから当たり前である。重い木刀を筋力だけで振るのは体力的に厳しいのだろう。そこで、自然と、「強化」を身に付けたといったところか。
確かに、生活に必要な火と水の仙術だけは教えたが、『強化』とはまた別である。
これは早々に、幸谷命名『烏丸ヒョウ剣神化計画』の予定を前倒しするしかないか、などと思い直していた。
ちなみに、ヒョウは小さな種火程度は熾せるようになっている。水はまだ水滴程度。水は基本的に、大便の後の尻の穴を洗う為か、書き物の際、墨を作る為に硯に落とす用である。使えると便利だ。少なくとも、幸谷はそう理解している。
ヒョウとしては、疲れたから疲れた部分を、「身体の中の何か」を使って補強するようなイメージで発動させただけである。
「気力」を使っている自覚はない。
「身体の中の何か」の存在は山小屋で生活するようになって、すぐに気が付いた。
疲れと空腹で神経が鋭敏になり、その時、「温かいもの」がヒョウの体内をふわふわと漂っていることに気が付いたのだ。
仙術でも強化でも、まず、気力の存在を認識することが第一歩だが、これが子供には難しい。何しろ生まれた時から(正確には胎児の時から)、気力が体内を巡っている状態で生活しているのだ。
血管を圧迫することなく、血液の流れを意識するのが難しいのと同様だ。もっとも、気力は意思に反応する点で、血液とは違うが。
その為、通常は意識を集中し、例えば手のひらなどに気力を「集める」イメージで訓練する。上手く集まったのを感じたら、それが気力、というわけだ。
ヒョウの場合、鋭敏になった神経が、気力を、ある種の違和感として認識する助けになったようだ。
ヒョウが、身体の弱った部分を「身体の中の何か」を使って補強できることに気が付いたのは、皮肉にも小屋での過酷な食生活で、腹を壊した時である。
内臓を強化することで、乗り切ったのだ。
『強化』とは、『部分強化』と『全身強化』の大きく二種類がある。体内の気力を、ある部位に「集める」ことが部分強化で、気力を全身に「満たす」ことが全身強化である。
例えば、重い荷物を持ち上げる為には、相応の筋力が必要であるが、筋肉量が足りなければ、荷物は上がらない。そこで、今ある筋肉を強化することで、擬似的に、筋肉を増やした時と同じ状態にする。これが『部分強化』である。骨でも内臓でも、それは変わらない。
ただ、『部分強化』は解剖学的な知識と、身体の運動生理を理解していないと、大怪我の危険もある。一部位だけを強化しても、他の部位が衝撃に耐えられない場合があるからだ。
気力が少ない者なら問題ないが、気力の多い者は、「強化しすぎる」ことがある。すると、強化された部位と強化されなかった部位との、耐久度の差により、大怪我につながるのだ。
『全身強化』は先述の『部分強化』の欠点を補う為に、「全身を強化すれば、耐久度の差は生まれない」の発想から生まれた技術だ。ただし、大量の気力を使う為、気力の少ない者には向かない。
気力を全身にまとう『闘気』は、一見『全身強化』と似ているが、似て非なる技術である。違いは内か外か。
闘気は気力、あるいは周囲の魔力を集めて放出し、それを体表面、つまり外にまとう術である。分類としては闘気は仙術の一種になる。
さすがにヒョウの我流『強化』も、全身に溜まる疲れに追いつかなくなってきたようだ。ヒョウはその場にへたり込む。
「疲れたか? 替わろう。そこで見ていろ」
上半身だけ着物をはだけさせ、腰帯にねじ込んだ幸谷がヒョウに近付く。ひと汗をかく準備は済んでいるということだろう。
顕わになった幸谷の上半身は、ヒョウが息を飲むほどに圧倒的なものであった。それは子供であろうと、一目で理解出来るほどに。
鍛え上げられた巨大な筋肉が、高圧で圧縮されたような、恐ろしく無駄の無い、均整の取れた剣士の理想がそこにあった。
ヒョウから木刀を取り上げると、今度は幸谷が同じように、ゆっくりと3つの型で木刀を振る。
ヒョウは「はぁ、はぁ」と荒い息を吐きながら、全身から噴出す汗を手拭いで拭う。その間、何とか呼吸を整えようと、苦しい部分を順番に、何かを試すように強化してゆく。
肺、心臓、腕、太もも、ふくらはぎ――。
どうやら、肺と心臓を強化することで、呼吸が楽になってきたようだ。
ヒョウはここ数日の稽古で、自分の身体の構造を、何となく理解し始めていた。
ゆっくりと木刀を振る幸谷の姿は、美しかった。
やっと呼吸が整ってきたヒョウは、その姿を見ていると、幸谷の腕と木刀が一体になっているのではないかと錯覚する。
隆起する筋肉と木刀が、まるで同一の物質で出来ているかのようであった。
ひたすら観察する。
「(やはり下半身か)」
ヒョウは幸谷の型が美しいのは、型がブレないからで、型がブレないのは、下半身が安定しているからだと考えていた。
「(動きは俺よりゆっくりなのに、端から端まで全然速さが変わらない)」
ヒョウが心の中でつぶやいた通り、幸谷の動きは3つの型の全ての瞬間において、全く速度が変わらない。これが想像以上に難しいことを、ヒョウはここ数日の稽古で身に染みていた。
確かに、ヒョウにとって幸谷手製の木刀は重い。重いから安定しない。
では軽かったら可能かと問われれば、それは不可能だ。それが分かっているから、「もっと軽い木刀にしてくれ」と言えないのだ。
この動きが出来る幸谷が渡してきた木刀なのだから、この動きが出来るようになる為には、この木刀を使うのが正しいはずだとヒョウは考えている。
単なる勘違いである。
袈裟切りの型の場合、木刀を持って、正眼に構えた状態と、振り上げた状態とでは力の入る筋肉は違う。胴払いなら、始点は腕を曲げた状態で、終点は腕が伸びた状態になる。
それらの過程では、多くの筋肉が使用されるが、その比率、割合は違ってくるだろう。
全ての過程で速度を変えずに、ギリギリまでゆっくりと連動させるには、使用される筋肉を正確に意識し、コントロールしなければならない。
子供の知識では、そのような「言葉」によって理解することは難しい。だが、年齢など関係なく、経験を重ねることで、同じ理解に到達することは可能だ。
その瞬間が「閃き」として訪れるまで、あとわずか。
ヒョウは5~6mほど先にある美しい型を、座り込んで観察していた。
もうすぐ11月である。すっかり涼しくなった風が汗ばんだ肌に心地良い。
さっきまで破裂するのではないかと思えるほど動いていた心臓と肺。今では自分が息をしていることさえ忘れるほど落ち着いている。苦しい部分を順番に強化した結果だ。
順番に――。
その瞬間は不意に訪れた。
「(肺腑や心の臓を補強した時と同じ?)」
ヒョウはついに、この稽古が『強化』の稽古だという事実に辿り着いた。
ヒョウは『強化』という言葉すら知らなかったが、それは確かに強化であった。それも一箇所だけを強化するのではなく、型の過程で使用される筋肉全てを順番に強化していく稽古。
いや、筋肉に限らないのかも知れない。いずれにしても、強化には違いなかった。
言葉が先か、経験が先か。今回は経験の方が先であった。
通常、全身のあちこちの筋肉を連動させて、一つの運動が完成する。この稽古は、そのあちこちの筋肉全てを、順番に強化していく稽古であると、ヒョウは確信する。
だから「ゆっくり」と。
速いと、どこを強化するのか分からないから。
速いと、強化が追いつかないから。
「ゆっくり」なら、強化に慣れていないヒョウでも、身体の動きを確認しながら強化できる。身体の動きに、強化が間に合うのだ。そういう稽古。
ヒョウはせっかく汗が引いていたというのに、再び全身から汗が噴出すような興奮を覚えていた。電流が脳天から足元まで突き抜けるようであった。
身体作りだとか、型が美しいとか、下半身が安定しているとか、膂力が足りないとか、木刀が重いとか、軽いとか、そういったことは全く関係がなかった。
それらは全て結果に過ぎない。
二次的なものだ。
この稽古の一次的な目的はただ一つ。
いかに身体の構造を理解し、運動に使われる部位を意識し、それを始点から終点まで順番に強化しながら、連動させていくか。
ヒョウは立ち上がると、パッと両腕を広げて、右手の指先から胸を通って、左手の指先まで順番に強化していく。
今は大まかにしか出来ない。
懸命に試みても、10cm間隔が精々だ。一回一回順番に強化していくから遅い。だから、刀を振ろうと思えば、更にゆっくりになるだろう。しかし、今はゆっくりでも良い。
いずれ――。
右の指先から左へ、左の指先から右へ、何度も繰り返す。
「ふあっ、あ、はっははあっ、はっははは」
嬉しい。
心の底から嬉しい。
ヒョウは大きな一歩を踏み出した気がしていた。何かを達成することは、これほどまでに刺激的なのかと。
右手から左手、左手から右手、何度も何度も――
間抜けな青鬼を狩った時の喜びなどとは、比べ物にならない歓喜と多幸感が、ヒョウの全身を包み込む。
ヒョウが喜びを噛み締めていると、幸谷が唐突に叫んだ。
「ヒョウ! 目を『強化』だ! いくぞッ!」
突然の声に、ヒョウは即座に反応する。
幸谷の言った『強化』が何かは知らない。初めて聞いたから。
でも今なら分かる。
「(これが『強化』っ!)」
ヒョウが「身体の中の何か」を目に集中させたのとほぼ同時。
木刀を腰溜めにした体勢から、次の瞬間、ヒョウの鼻先には切っ先がピタリと止まっていた。
木刀の切っ先、その奥には幸谷のニヤリとした笑顔があった。
言われて即座に目を強化したが、それでも木刀がどういう軌道を描いたのか全く見えなかった。5~6mはあった距離が一瞬で詰められていた。
昨日までのヒョウなら何も分からなかっただろう。
しかし、今なら分かることがある。幸谷の笑顔に気付き、ヒョウの緊張が解ける。
「『追い足』だ。こいつは村に帰ってから教えてやる」
幸谷はもう一度ニヤリと笑った。
ヒョウは幸谷の言葉に、全身が痺れた。
ヒョウが幸谷の動きで理解したのは二つ。
一つ目は、さっきの技は始点が腰溜めの体勢で、終点が鼻先で切っ先を止めた体勢だということ。
二つ目は、その過程の運動は、連続する強化で為されたもので、技の名前が『追い足』だということ。
幸谷は木刀をヒョウに手渡しつつ、庭石の一つに置いておいた手拭いを拾うと、わずかにかいた汗を拭き取る。
ヒョウは随分と嬉しそうだが、幸谷も何とも愉しい気分になっていた。気を許すと笑いがこみ上げてくるのだが、先ほど少し格好をつけたので、どういう心境なのか、笑顔は出さないように努めていた。
口元がニマニマしていると、師匠としては、何だか格好が付かないような気がしたのだ。
「(うむ、師匠というのも、なかなかに窮屈なものだな)」
などと、下らないことを考えていると、ふと、障子を開けてこちらを見ている、五十絡みの商人風の男と目が合った。
「おや、邪魔をしてしまいましたかな。すみません、実に楽しそうな子供の笑い声が聞こえて来ましたので、つい」
「いや、構わんよ。ちょうど晩飯にしようかと思っていたところさ」
腰帯にねじ込んでいた着物の袖に腕を通しながら、幸谷が応えた。
幸谷がヒョウの方を向くと、「晩飯」と聞いたヒョウが期待でソワソワしていた。幸谷はそれを見て、プフッと噴出してしまった。