第5話 「由島藩城下町」
それから7日間、ヒョウは毎日狩りに同行し、獲物の見付け方だけでなく、食べられるキノコや山菜の種類なども教わった。
また、小屋に戻ってからは、狩った獲物の捌き方、魔核の位置の確認、山菜の灰汁抜き、幸谷お手製の木刀で素振りなどをして過ごした。
夕食の後には、幸谷は火属性と水属性の仙術も教えた。ごく低レベルの技だが、使えると便利だからだ。この二つが使えると、持ち物を減らせるのだ。
幸谷はさらに、魔物の肉から魔力を抜く方法、干し肉の作り方、木の実の渋抜きなどは言うに及ばず、お金の数え方から、毛皮商や加工した山菜の卸し先、魔核買取所の利用方法まで教え込んだ。
もっとも、それら全てをヒョウが吸収したかどうかは疑問が残るところではあったが。
それまでまともな食べ物を食べていなかった為だろうか、たった数日の間に、ヒョウの血色は良くなり、身体もいく分健康になったようだった。
それも当然か。山菜や肉を、毎日毎食腹いっぱい食べることなど、今まで一度もなかったのだから。
「まぁ、お前は頭悪いから、一度に全部は覚えられんかも知れんが、何となくでも、知っておけ。きっと役に立つぞ」
幸谷の言葉にヒョウはムッとする。自分の頭が悪いとは、寸毫も思っていないだけに、ちょっと聞き捨てならない。
確かに読み書きソロバンはできない。
しかし、手習い師匠につくことなど、孤児のヒョウにとっては望むべくもないのだ。仕方がないではないか。それを「頭が悪い」と斬って捨てるのは如何なものかと。さすがに言い過ぎであろう。
ヒョウはその点を指摘する。
「いや、頭が良いやつは、ガキの分際で、こんな山の中で山猿生活なんてしないんだよ。ちゃ~んと大人に頭を下げて、村の仕事の手伝いをしたり、町に出て奉公人になったりするもんだ」
とは幸谷の弁。
少年相手に、全く言葉を選ばない。
ヒョウは「ぐむぅ…」とうなるのみ。
自分は結構強いと思っていたが、実際は弱かった。ならば、利口だと思っていても、馬鹿である可能性だって――ヒョウはそれ以上考えたくなかった。
「まぁ、一人ぼっちで途方に暮れなかった性根だけは、素直に感心するがな」
そう言って、幸谷はカラカラと笑った。すると、ヒョウも馬鹿にされて腹は立つが、何となく、愉快な気分になるのだった。
炉端でゴロリと横になった幸谷が、枝の先で火をいじる。
「明日朝早くに、俺は由島の城下町に向かう。昼過ぎには着くだろう」
「……行っちゃうの?」
ヒョウは不安そうだ。
「前に説明したと思うが、『戦』だ。いつ始まるか分からんが、契約は一ヶ月。延長になる可能性もあるし、どうだ、俺に付いて来んか? もちろん、ここで待っててくれても良いが、ただ、もうすぐ冬だしな」
「はい、師匠に付いて行きます」
畏まったヒョウの態度に、幸谷が思わず噴出す。
「ナメクジを食うのはもう嫌か?」
「塩で味付けすればイケると思う」
続けてヒョウが返すと、堰が切れたように、がははは、と幸谷が笑い出した。
「お前、意外と頭良いかもな」と言いながら、腹を抱えて笑う。釣られたヒョウも、いつ以来か分からないほど、大笑いした。
ヒョウは十分広いと思っていた山小屋が、少し狭く感じた。
翌朝、二人はまだ薄暗い時間に小屋を出立した。
ヒョウの生活道具など、ほとんど無いも同然なので、準備はすぐに整った。毛皮や魔核などは全部幸谷の袋に入っている。
幸谷にとってはゴミだが、ヒョウにとっては、1年以上、山での生活を支えてくれた道具や毛皮たちである。幸谷は苦笑しつつも、心残りがないよう、ヒョウが指定したもの全てを袋に入れた。
小屋を出る時、幸谷は改めてヒョウの格好を見て、何か思うところがあったらしい。顎に手をあて、「う~ん」と何か考えたようだが、「まぁ、良いか」と言って、すぐに山道を進んだ。
山を下りて、村を出たら、城下町までは街道を道なりに一直線。
一応、幸谷が速度を合わせているとは言え、山暮らしのお陰か、ヒョウは根を上げることもなく、6時間以上を歩き通した。
途中茶屋に1度寄ったきりである。
茶屋は朝早くだったので、残念ながら名物である饅頭はなかった。すぐに用意出来るという甘酒を、幸谷は二人分注文した。
ヒョウは出された一杯8文の甘酒を、がぶがぶと何杯も飲んだが、それにしたって、8歳の少年の体力としては驚異的と言える。
※一文銭=約20円
結局、道中ヒョウが口にしたのは、数杯の甘酒と、昨晩用意した、焼いた木の実だけである。
ヒョウはいつの間にやら、毛皮の履物も捨て、裸足であった。
さすがに幸谷が途中で何度か「足は痛くないか」と尋ねるも、ヒョウは「痛くない」と答えるのみ。
当然ながら、街道は人通りで均されているが、裸足で長距離歩くのは危険である。小石を踏めば足裏は痛いし、突き出た石でも蹴ろうものなら、爪を割る。そうなれば、まともに歩くのは無理だ。子供に限ったことではない。
だから、旅人は足周りには特に注意を払うし、足袋と草鞋は必須となる。さらに、足元が見えない夜道は絶対に歩かない。夜道を避けるのは、魔物や獣が怖いからだけではないのだ。
幸谷が観察していると、ヒョウは前ではなく、足元を見ながら歩いていた。なるほど、十分明るいし、足元を注意しながら歩くなら、細かい石はともかく、怪我をするような大きな石を蹴ったり、踏んだりすることはあるまい。
幸谷が見る限り、歩き方も工夫しているようだった。それでも、子供の足裏の皮は薄い。ゆえに、普通は無理なのだが。
一応、歩けなくなれば、背負えば良いかと幸谷は考えていた。
◇◆◆◆◇
関所で手続きを済ませ、しばらく行くと、城下町の木戸が見えてきた。木戸をくぐると、その賑やかさにヒョウはびっくりする。
幸谷が肩から提げた振り分け荷物、そこに道中合羽を結んでいるのだが、ヒョウは無意識にその合羽の先を掴んでいた。
「そんなに珍しいか?」
幸谷がニコリと笑って、ヒョウを見下ろす。
ヒョウはそれどころじゃないといった様子で、先ほどからキョロキョロと周りを見回している。幸谷には、その様子が何とも微笑ましく感じられた。
村祭りを遠くから見たことはあったが、城下町の賑やかさはその比ではなかった。
大小様々な店が軒を連ね、売り子が大きな声で呼び込みをしたり、客に店先の商品を薦めたりしている。
色鮮やかな錦絵や、籠や箒などの細工物が並ぶ店。
笛や水吹き(水鉄砲)、竹トンボなど、子供のおもちゃが所狭しと並んだ店。
また通りには天秤棒を担いで、野菜や魚を運んでいる棒手振り達が通行人を器用に避けながら行き交っている。
全てが賑やかだった。
しばらくして徐々に落ち着いてくると、ヒョウは通行人たちの自分に向ける視線に気が付いた。
原因がどうやら自分の格好にあると悟ったヒョウは、何だか急に恥ずかしい気分になってきた。
いや、街道に出て、旅人とすれ違うたびに、薄々気付いてはいたのだ。
自分の格好は明らかにおかしいと。
頭はザンバラ、顔だけでなく、全身が薄汚れている。
洗っていない髪の毛は、汗とホコリを吸って、ゴワゴワとあちこちで束になっていた。
着物は麓の村に干してあったものを盗んできたものだ。
大人用の着物を膝のあたりで切って、身体に合うよう短く詰めているが、いかにも不恰好だ。
袖は膨らんで狩りの邪魔にならないよう、短く切って、さらに細い蔓で絞っている。切り落とした着物の袖を腹巻にし、これも細い蔓で止めていた。
本人は防寒面など、いろいろと考えた上での格好なのだろうが、他人から見ると、泥と脂で変色したボロ切れを身体に巻きつけた浮浪児にしか見えない。
足元は毛皮を細い蔓で巻いて履物にしていたが、街道に出てからは、山道と違って歩きやすいので裸足である。
どう贔屓目に見ても、幸谷の言う通り、『山猿』以外に例えようがない。そのことを自覚してからは、周りの喧騒も耳に入らず、下を向いて歩くばかりだ。
幸谷は「ここで待ってろ」と、店先にヒョウを待たせて、一軒の古着屋に入っていった。
「あ…」と口にして、続く言葉が浮かばず、ヒョウは下を向く。
一人でポツンと店先で待っていると、町人たちの視線がさっきまでより、余計に痛い。すれ違う人たち全てが自分の格好を笑っているように感じる。いや、実際に笑っていた。
もし、逆の立場なら、自分もその山猿を笑うだろう。
山にいる時ならば話は別だ。
針も糸も使えない自らの技能を鑑み、子供の知恵の中で出来る限り機能性を追求した格好、と言えなくもなかった。
しかし、町ではそんな個人の事情など通用しない。
社会とはそういうものだ。
ヒョウは8歳にして、見た目は大事だという現実を思い知った。
「ぷーくすくす」
何と直接的な侮蔑か。
ヒョウの心臓がドキリとする。
明らかに自分を笑っている。笑いを押し殺す気なんてないくせに、押し殺すフリだけをしている。そんなことが許されるのか。
羞恥の極地の中で、ヒョウは「師匠…早く戻ってきて…」と祈る。
「くすくす。ちょ、あんた、何てカッコしてんの。くすくす」
どうしてお前は話しかけるのだ。
他の者たちのように、遠巻きに一つ二つ笑ったら、それで通り過ぎてくれ。 ヒョウは内心、懇願する。
下を向いたまま、ゆっくりと顔を横に向けると、ヒョウと同年代の少女がくすくすと笑っている。獣が弱った獲物を見つけた時のように。
少女はさらに畳み掛ける。
「由島の乞食の間じゃ、くすくす、そんな格好が流行りなの?」
少女は人族ではなく、毛長族の血が混じっているようだ。
毛長族は人族に比べれば少ないが、珍しい存在ではない。ヒョウも何度も見たことがあった。ヒョウが元いた村にもいた。
薄っすらと頬や手の甲に白い毛が生えており、耳の形からすると、この少女の場合、猫種であろうか。
毛長族とは、猫や熊、キツネ、狼などの四足獣の特徴を持った種族である。もちろん個人差はあるが、種族特性として、身体能力が高く、成長が早い。人族に比べ、寿命が短いのも毛長族の大きな特徴の一つだ。
反面、器用さに欠けたり、知能が低い者も多く、藩の要職に就くような者は少ないようだ。蔑視の対象になることも少なくないが、個人差が大きい種族である為、優秀なものは優秀である。
ただし、種族特性として、仙術を使える者は少ない。
ヒョウにとっては、少女の種族など問題ではなかった。
こんなことなら、腹巻だけでも城下町に入る前に捨てるべきだったと、絶賛後悔中である。
幸谷が服屋に入った以上、おそらく自分に服を買ってくれるのだろうと見当はついている。ヒョウにとっては、実にありがたい話だが、今、腹に巻いているものはどうしようもない。
「……どっか行けよ」
笑い続ける少女に、消え入りそうな声で抵抗する。
「ん? 何か言った? カッコも凄いけど、あんた、何か、物凄い臭いがするよ…」
少女がヒョウの近くで、顔をしかめながらスンスンと鼻を鳴らせている。
もうこれ以上は引けなかった。
こと、ここに至っては『戦』だ。
男一匹、人の行き交う往来でここまで言われては、これはもう、生きるか死ぬかの『戦』しかない。
右足をスッと後ろに引いて、腰の小刀に右手が動こうとした、まさにその瞬間、ヒョウの耳に天の声が響いた。
「おう、待たせたなヒョウ。どーかしたか? 行くぞ」
その場の緊張が解けた。
あとわずかに声が掛かるのが遅かったらヒョウは動いていただろう。町中で刃物を抜けば、ただじゃ済まないことくらい、ヒョウにも理解できた。
森で斑ウサギを前に、「ただスッと立っている」幸谷の姿を思い出す。どうも自分はカッとなりやすいと、荒っぽい性質を反省した。
幸谷は古着屋で主人の薦めるままに子供用の着物を2着と帯を買った。ついでに下帯と手拭いも。子供用の草鞋4足と草履1足、自分用の草鞋は、木戸の入り口で既に購入済みだ。
それらを全て確認して、腰の袋に仕舞うと、二人は湯屋へ向かった。
ヒョウが振り向くと、さっきの少女はいなくなっていた。
湯屋につくと、まず湯屋の主人がヒョウを見て、飛び上がらんばかりに驚いた。そして幸谷に何度も「湯につかる前に、ちゃんと洗ってくださいね!」と念を押してきた。
この子の責任はお前が取れ、ということだ。少し腹が立ったが、幸谷は自分の着物の臭いをかぐと、仕方ないかと諦めた。
幸谷も烏丸村を出てから20日以上湯に入っていない。
ヒョウと比べてマシなだけで、大概汚い。なるべく汚れないように気をつけてはいたが、山道を通って由島藩に入り、そこから小屋でヒョウと狩りを続ける毎日。
水で流した程度では限界があったようだ。
湯屋の主人から、大人用の石鹸袋とヌカ袋を二人分買い、湯料を支払う。
脱衣場で手早く裸になると、手拭いを肩にかけ、二人は湯殿に入った。
石鹸袋とは、中に泡の出る成分の粉が入った小袋である。
汚れ落ちが良く、香料も入っている為、湯上りがさっぱりする。
ヌカ袋は中に米ヌカが入った小袋。
石鹸袋ほど汚れ落ちは良くないが、毎日湯屋に通うような町人はこちらで十分だ。仕事帰りに湯屋に来る者を除けば、ほとんどの町人は家から持ってくる。原価がほぼタダだからだ。
値段はヌカ袋が4文。石鹸袋は16文。入浴料と石鹸袋は同じ16文だ。1回使いきりであることを考えると、石鹸袋はなかなか高価な代物と言える。
※一文銭=約20円
「しかし、石鹸袋があれほど泡立たないとはなぁ」
「山ん中じゃ、風呂なんてないんだから、仕方ないじゃないか」
ヒョウの顔が真っ赤なのは、湯船に浸かっているからだけではないだろう。
父が生きている時でさえ、湯屋に行ったことはなかったし、石鹸袋を使ったのも初めてだ。
長年溜まった垢は、石鹸袋一つじゃ足りず、もう一つ追加で買うはめになった。頭のてっぺんから足の先まで、全身を丁寧に洗ったので、さすがに綺麗になった。
幸谷は脱衣所を出ると、ヒョウの下帯と着物を自在袋から取り出し手渡す。もちろん、自分の着替えも取り出した。
ヒョウほどではなかったが、流石に自分で臭い着物は、他人には耐えられないだろうと思ったからだ。
ヒョウは「おお!」と自分の着物を広げて喜んでいたが、「ガキが色気づいてねーで、さっさとちんぽ隠して、着物を着ろ」とヒョウの頭をはたく。
着物は新しくなり、湯屋を出る時に履物も新品の草履になった。
古着とは言え、ツギの少ない洗濯済みの着物は、なるほどその辺を走り回っている町人の子以上に小奇麗だ。ザンバラ頭には無理だが、髷でも結えば、ちょっと日に焼けた程度の、普通の子供である。
ちなみに、ヒョウがそれまで身に付けていたボロ着は全て捨てた。
湯屋の裏には、風呂の湯を作る為の大きな釜戸がある。ヒョウはその下で燃えている炎にボロ着全てを投げ入れた。もちろん、着物の袖で作った腹巻も。
なぜか悔しそうな表情で投げ入れるヒョウを見て、「はて?」と幸谷は首をひねる。
湯屋の湯を温める為には、燃えるものなら何でも集めて来て燃やす必要がある。
建築廃材や、火事場の燃え残り、ゴミ捨て場のゴミなどが主な燃料だ。入浴料は安いので、燃料代をいかに抑えるかが、儲けの全てとなる。湯屋の仕事の中心は燃料集めだ。
しかし、それだけでは足りない日もある。たまになら休業すれば良いが、客の手前、頻繁に休業するわけにも行かない。
そういう時には魔道具を使う。
どんな質やサイズのクズ魔石でも、その魔道具にセットすれば、魔法陣に描かれた通りに、魔力が続く限り、一定の炎を出し続ける。
構造が単純な為、効率の良い魔道具ではあるが、クズ魔石とてタダではない。 ヒョウのボロ着も、多少は燃料の足しになったかも知れない。
改めてヒョウを見つめる幸谷。
まだ痩せているが、ふくらはぎのあたりには筋肉がついてる。
自分を刺そうと突っ込んで来た時は、拙いながらも、無意識に『気力』を使っていたのだろうと、幸谷は推測した。
『気力』と『魔力』は同じものであるが、「体内を巡る魔力」を特に『気力』と言う。精神力などとは明確に区別される。
『気力』を体外に放出して運用すれば『仙術』となり、体内で作用させれば、『強化』になる。
「そのザンバラ頭はこうして……っと。おっ、なかなか良いじゃないか」
幸谷は振り分け荷物から木綿糸を出すと、子供用の簡単な髷を結ってやった。 それを見ながら、「馬子にも衣装だなぁ」と楽しくて仕方ない様子。
言葉の意味は分からないが、馬鹿にされていることくらいは理解できるヒョウ。
「さて、飯屋でも行こうか。何か食いたいものはあるか?」
「わかんないよ。猫まんますら、父ちゃんがいなくなってからは、食ってないんだから」
なるほど、それは気づかなかったと幸谷は納得した。
猫まんまは削った鰹節を醤油とみりんで甘辛く煮たものを、白米に振りかけただけの単純な食べ物だが、確かに山猿生活では米は手に入らない。
虫やトカゲ、たまの小魚やウサギの肉だけでは、圧倒的に栄養不足だ。初めて見た時のガリガリの身体ももむべなるかな。
魔物の肉から魔力を抜く方法も知らず、保存食の作り方も知らない。たまに獲物が狩れたとしても、子供が継続的に生活することは難しいだろう。灰汁も抜いていない山菜をかじったり、干からびたカエルの死骸をしゃぶっているようでは、山猿生活も、もう、いろいろと限界だったのではないか。
幸谷は冬が来る前にヒョウに出会えて良かったと、心から思った。
「よし、じゃぁ、俺に追いて来い。たらふく食わせてやる」
さっきまで疲れていた様子だったが、飯屋に行くと言うと、途端に元気になるヒョウ。幸谷は出会ってから何度目か分からない、ほっこりとした気分になるのだった。
「いらっしゃい。旅人さん、何になさるかね。今日は、『焼き豆腐の味噌づけ定食』がおススメだよ」
「じゃぁ、そいつを2つ、どちらも飯は大盛りにしてくんな。それと…そうだな、卵焼き2つに、茄子と鴫の串焼きを5本、ん、『猪鬼』の肉もあんのか。『猪鬼のバラ塩焼き』ってのも頼む。あと、盛り蕎麦もくれ」
店内を見回すと、壁に品書きがズラリと書かれていた。幸谷はザッと見渡すと注文を決めた。残念ながらヒョウは文字が読めない。
「あいよ!」
しばらく待つと、次々に料理が運ばれてくる。それを、猛然と平らげていく二人。
ヒョウは「うめぇ、うめぇ」と繰り返すのみ。
この小さな身体のどこに入っていくのかと、飯屋の若い女が呆れている。
最後には、悔しそうに、「もう入らない……」とヒョウがつぶやいて、ごちそうさま。
食台にズラリと並んだ料理の残骸たちを、幸谷は満足そうに眺める。
仕事柄、高級料理を口にする機会も多い幸谷ではあったが、それに負けないくらい美味しく感じた。
どれも旨い飯であった。高級店はないが、料理の巧者がいるのだろう。幸谷は腹をさすりながら、ゆっくりとお茶を飲んで、余韻を楽しむ。
追加注文した分と茶代合わせて、代金420文を払って店を出た。
※一文銭=約20円
※一貨文銭=約200円(=10文)
※一分銀=約1000円(=50文)
※一貨銀=約10000円(=500文)
※一両小判=約10万円(=10貨銀)
※一貨大判=約100万円(=100貨銀)
ヒョウは満腹の腹をさすりながら、自然と頬が緩くなるのを感じていた。
幸谷は幸谷で、「うむ、気持ちの良い食べっぷりのガキに、腹いっぱい飯を食わせるのは、人生における大きな楽しみの一つかも知れんな」などと考えていた。
大通りには相変わらず人が多かったが、10月の終わりの、気持ちの良い風が吹いていた。