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 第2話 「烏丸幸谷」

 「どこの山猿か知らんが、大したもんじゃないか」


 「え?」


 手を洗い終わり、足元の角ウサギの包みを手にしようとした瞬間、声を掛けられた。


 「(どこから現れた!?)」


 少年の第一感がそれであった。


 いくら湧き水を汲んでいたとはいえ、目は開けている以上、左右の視野はかなり広い。背側は森なのだから、近づけば下草を踏む音くらいするだろう。

もちろん、7~8歳の少年がそこまで正確に状況を分析できたわけではない。しかし、少年の経験上、その男が突然現れたようにしか思えなかったのだ。

 歳を経れば、また話は変わるのだろうが、一人で森に住んでいる少年にとって、山の中で突然話しかてくる大人は、その危険性において、魔物と何ら変わらない。


 「ほう、こいつは本当に大したもんだ。これだけ捌けりゃ、十分だ。血抜きも悪くねぇし、毛皮も最低限の傷のみときた」


 「(ッッ!?)」


 最初、男との距離は4¬~5mはあった。しかし、次の瞬間、男は少年の足元にあったはずの角ウサギの包みを手にして1m以内、つまり「目の前」にいる。


 本当に瞬間であった。


 突然消えて突然現れたようにしか思えない。

 何が起きたのか。

 少年は足が震えて逃げることもできない。意味が分からない。これがどこかで聞いた『仙術(せんじゅつ)』であろうか。せっかくの獲物を奪われる。いや、獲物の問題ではないだろう。何をされるか分からない状況である。

 すなわち、生命の危機。

 少年は固まったまま、恐慌状態に陥ってた。


 「そう怯えるな。別に取って食おうってわけじゃないさ」


 男はそう言うと、ポンと少年の肩を叩き、ニコリと笑った。

 少年は気付いただろうか。

 男が、今、少年に触れた一瞬で、骨格や筋肉の付き方などを調べたことに。


 「いや、こいつは旨そうだから、食ってしまおうかな。ははは」


 少年は気付いただろうか。

 男が、軽口の合間に、少年の表情や顔色から、性格や栄養状態まで分析していたことに。

 男は「冗談だ、冗談」と笑いながら、少年の手に角ウサギの包みを持たせる。少年はまだ動けない。


 男が少年の横から割り込むように、湧き水に手をつける。両手で掬い、2、3口飲むと、次にブルブルと顔を洗う。


 「ぷあーッ。冷たくて良い気分だ」


 男は湧き水を見つけて、ついでにその場にいた少年をからかっただけなのだろうか。足元が汚れているので、山道を歩いてきたのだろう。どれほどの距離を歩いたのか。

 少年はやっと自分に手足があることを思い出したように、男から距離をとる。そして、もう一度、手足が自由に動くことを確認して、腰の小刀に手をかける。


 歳は30歳くらい、身長は175cmくらいだろうか。平均よりは高いが、取り立てて背が高いと言うほどでもない。身体は着物の上からでも鍛えているのが分かるほど逞しい。背中は広く、筋肉で盛り上がっていた。

 しかし、何より特徴的なのは大きな三度笠だ。

 本来は精悍な顔つきなのだが、笠の陰で、細かい表情までは伺えない。

 下は股引で、膝下は脚絆、その上を毛皮で覆っている。草鞋が随分と磨り減っているところを見ると、長旅の途中なのは間違いない。振り分け荷物には2足分の真新しい草鞋と、黒っぽい引き回し合羽が結ばれていた。

 引き回しは山道には必需品だ。朝露や霧雨ですら、少し歩くと全身がビショ濡れになるからだ。着物が濡れると気持ちが悪いし、太陽が昇る前に身体を濡らすと、体調を崩す原因にもなる。

 男の旅姿は、実に堂に入ったものであった。


 腰の刀が長ドスじゃないところを見ると、無宿人や渡世人の類ではなく、浪人か、傭兵稼業の侍格か。

 ただし、少年にとって、重要なのは、男が渡世人か浪人かではない。男が人を殺せる武器を腰に提げている、その事実だけである。



 ここ神和(かみわ)の国は長く戦乱の世が続いているが、漸くその着地点が見えようとしていた。いわゆる、天下統一である。


 神和の国は中央大陸から海を隔てた東に位置しており、大きな3つの島からできた列島国家である。

 とは言え、諸藩の数は大小200以上あり、中央集権的な国家体制ではない。約200の諸藩がそれぞれ独自に領地を治めているような状況だ。

 一応、古い耳長族が皇族として存在しているが、その実体は有名無実で、僻地の森の隠者集団に過ぎない。『海渡大将軍(かいとたいしょうぐん)』を任命する役を担っているだけの存在であった。


 その200諸藩を統一し、天下布武を唱えたのが、豊田藩主・豊田長柄(ながえ)。天下統一し、耳長族より『海渡大将軍』を任命されれば、晴れて名実共に天下人となるのだ。


 まだ小さな戦は断続的に続いているが、豊田家による統一間近というのが、もっぱらの評判だ。


 少年の腰にある小刀も、両軍合わせて200人以下の小さな合戦場で拾ったものだ。


 戦闘の後は、近隣の百姓や渡世人たちが、どこからともなく集まってくる。刀剣や弓、矢、甲冑など、価値のありそうなものを拾い集めるためだ。死んだ侍や半死半生の者から剥ぎ取ることもある。

 戦乱が続いてる世にあっては、武具拾いは結構な稼ぎになるのだ。


 近隣の村人にとってみれば、農作地が戦によって荒されることもあるし、家屋に火を点けられることもある。また略奪も、表向きご法度とされているが、ないわけではない。

 基本的に、いずれその土地を治めることを希望して、攻め入るわけだから、好き好んで百姓を殺してまわる藩主はいない。百姓は侍にとって大事な年貢契約の相手だし、食料や富を生産する、大事な財産なのだから。

 ただ、戦の成り行きで、被害は確かに出る。

 ゆえに、剥ぎ取りは村人たちにとって、臨時収入であると同時に、半ば暗黙の権利もであった。

 もちろん、まだ息のある侍に斬られても、自己責任ではあるが。


 少年の腰の小刀は特別に価値のあるものではないが、拵えはしっかりしていた。刃渡り約40cmは少年の身体には丁度良いサイズ。その小刀に置いた左手が僅かに震える。


 「(さっきは一瞬あいつを見失ったが、仙術か妖術なら、もう2回も使ってる。そうそう何度も使えてたまるか!)」


 『仙術』


 神和の国では、仙術とは体内を巡る『気力』を、風、火、土、水の四種に変換し、用いる術とされる。

 大昔に神和に渡って来た耳長族が魔術、あるいは魔法として伝えたものだが、長い時の間に、今では『仙術』という呼び名の方が一般的となっている。


 耳長族が中央大陸より船団を組んで『大凪原(おおなぎはら)』を渡ってきたのは、遥か三千年以上前と言われている。

 また、魔術と共に、度量衡、記号、数字、暦など、様々なものを伝えたとされ、現在も皇族として、その地位を小さいながらも維持している。


 一般に、耳長族は長命だが、血統的に純粋な耳長族は、今ではここ神和の国にはいないとされる。神和にはもともと耳長族がいなかったのだ。血統の維持が物理的に不可能な状況であったと言える。

 たまに先祖返りで、例外的に耳や寿命などに耳長族の特徴を残す者が生まれるようだが、やはり例外だ。今では人族の寿命と変わらないと言われている。


 『大凪原』とは、中央大陸と神和列島の間にある広大な『神和海(かみわかい)』、その中央を分断するように延びる無風海域のことである。


 海竜の多い海域でもあり、船足が止まると、大きな潮流もない為、即航行不能となる。食料や水が尽きて飢え死に、あるいは海竜に襲われ沈没という、とても危険な海域だ。

 自走船ならば航行は可能であるが、多くの奴隷と大量の食料を積むか、さもなくば、上級魔術師が何人も必要となる。


 しかし、果たしてそこまで金をかけて海を渡る価値があるか否か。船主や出資者によって意見が分かれる難しい問題であろう。

 現状、交易はほとんどない――というより大凪原によって、不可能だと言える。


 ちなみに、約200年に一度、一月ほどの間、海が荒れ、時計回りの『神渡(かみと)海流』が発生するというのが、漁師達の言い伝えにある。

 最初の耳長族はその『神渡海流』に乗って渡ってきたと言われているが、どうして200年に一度なのか、耳長族の血を引く者たちも知らないという。

 天下人に与えられる官名である『海渡大将軍』とは、最初に神和国に渡って来た時の、船団の長のことである。


 残念ながら、少年は四属種いずれも使えなかった。いや、食料調達に忙しく、そんな暇がなかったと言った方が正確か。誰にも指導を受けたことはなく、才能以前の問題だろう。

 だからと言って、自分が麓の村の子供たちに劣るとは、髪の毛の先ほども考えていなかった。


 実際のところ、このような小さな人族の少年が、一匹とはいえ、青鬼を倒したことがあるなど、おそらくは村の大人達は信じないだろう。また、飛び道具や仕掛け罠を使わずに、小刀一本で角ウサギを倒すことも、同じく笑い話にもならない。

 青鬼相手なら子供では膂力が足りないし、角ウサギ相手なら速度が足りないからだ。

 そもそもの話、山で自分と同じ程度の体格をした魔物を「狩ろう」と発想する子供はいない。

 だが、目の前にいる男の危険度は、魔物の比ではない。

 少年は一体、どうしようと言うのだろうか。


 少年は足元の小石を拾うと、背を向けた男の左側の壁に投げつけた。つい先ほど角ウサギを仕留めた策だ。


 岩壁に当たった小石が、壁の表面を削ってパラパラと落ちる。直後、注意が上に向いた男の背に向かって、右側から勢い良く突進。

 小柄な身体が、子供とは思えないほどの速度で男の右背後から迫る。左手を柄尻に添えて、そのまま男の右脇腹を一気に突く!


 幸い、この場には男一人しかいない。他に男の仲間がいれば話は別だが、男一人なら、殺すか、大怪我の一つも負わせれば、少年の命は安泰である。

 男が無防備な背中を晒している今は、少年にとっては、二度と訪れないチャンスかも知れなかった。

 少年の決断は速かった。

 まず、行動し、駄目だった時には後で反省すれば良いのだ。

 時は巻き戻ったりしないので、これをやったらどうなるかと躊躇するよりは、今、何をするかが一番大事なのだ。


 「危ないなあ。だが、その速度と勢いは悪くないぞ。ただ、まだ膂力不足で、一撃必殺は無理だろう。止まらずに切り抜けるべきだったな」


 「ッ!」


 どうして目の前の男が消えるのだ?

 どうして自分の前にいた男の声が、後ろから聞こえるのだ?

 一体、どんな術ならそんなことが可能なのだ?

 ただ、呆然とする少年。


 パシンと「後頭部」を叩かれた。

 少年が驚いて首だけ振り向くと男はニコリと笑って、腰あたりを軽く蹴る。

 すると、バランスを崩した少年はコロンと地面に転がった。


 少年は二度目の恐慌状態に陥っていた。叩かれた頭も、蹴られた腰も痛くはない。男は少年を傷つけるつもりはないのだろう。


 しかし、そんなことはどうでも良いことだ。何故、男の後ろから突きに行ったのに、自分の後ろに男がいるのか。

 少年にとっては、そのことの方がよほど重大事であった。


 さっきまでなら、逃げる手もあった。しかし、今は必殺の突きを外した後だ。この男は少年を許さないだろう。青鬼二匹を見過ごしたのに、どうして腰に大刀を提げた男を見過ごさなかったのか、激しい悔悟の念が、少年の頭の中を駆け巡る。


 少年は諦めたように下を向くと、両手を地面についた。

 一見土下座をしているようにも見えるが、体勢は今にも飛び掛らんばかりである。少年は下を向いたまま問う。


 「仙術か?」


 「違う。烏丸流『引き足』とい――」


 男が言い終わる前に、「ダンッ」と、少年が中腰の体勢から爆発するように飛び出す。

 方向は男の右側後方、目指すは少年が先ほどいた場所。

 太刀を抜いていない今なら、殺傷範囲の広い左側より右側の方が斬られにくいからだ。

 危機察知の本能だろうか。

 少年とは思えないほど的確に状況を分析し、危険地帯からの脱出を試みる。

 少年は低い体勢のまま、角ウサギの包みに向かって、一直線に駆ける! 包みを掴んだら、そのまま森を駆け下りる!


 ――つもりであったが。


 「(こいつ面白ぇ!)だが、遅い」


 包みは男の左手の中。右手は少年の腰に巻かれた麻縄を掴んでいた。少年の足元から、崖とまでは言わないが、わずかに斜面になっている森側にパラパラと小石が転がる。


 「お前本当に危ないな。そんな勢いで段差のある斜面に突っ込んだら怪我するぞ」


 カラカラと男は楽しそうに笑っている。


 「俺の名前は幸谷(こうや)だ。お前の寝倉に案内しろ。塩も胡椒もある。一緒にこいつを頂くとしようぜ」


 「……」


 少年の攻撃は空振りに終わり、角ウサギの肉は男の手の中。

 諦めるべきなのだろう。

 しかし、少年はどういう表情をすれば良いのかわからなかった。



 ◇◆◆◆◇



 少年が住む小屋は、周りが少し拓けたところに建っていた。

 元は木こりの作業小屋だろうか。随分と古く、あちこち朽ちている。中は四畳半ほどしかない。真ん中に石で囲まれた炉端があり、簡単な調理や、暖を取ることが可能となっていた。


 通常、山小屋での火の扱いは注意を要する。山火事になると、人の手では止められないからだ。水場がない場所では、煙草の一服も控えるのが普通とされる。しかし、この小屋の作りは、そういった点を、特に問題にした様子はないようだ。


 幸谷は肉を焼きながら、少年の生活の様子などを、素早く観察する。山の中で一人で住んでいる少年がいれば、興味を惹かれるのはごく自然なことだろう。


 「焼けたようだぞ」


 言われなくても、見れば分かる。思わず、口をついて出そうになったが、少年はぐっと抑える。

 鼻腔をくすぐる角ウサギの肉が焼ける匂いと、今まで少年が嗅いだことのない胡椒の香ばしい香り。

 先ほどから脂が炭火に落ちるたびに、少年の腹の虫がうるさいほどに大合唱している。


 「さて、こいつを渡す前に、お前さんの名前を聞こうか」


 少年は信じられないといった表情である。このご馳走を前にして、幸谷と名乗る男は一体何を考えているのか、といったところだろうか。水場で信じられない術を目の当たりにしたが、今また信じられないことを言っていると。

 名前? そんなもの、どうだって良いじゃないか。脂滴る焼きたての角ウサギの肉を前に、名前? そもそも、この肉は俺の獲物だろう。どうしてこの男が『俺の小屋』に上がりこんで、好き勝手言ってるんだ? 

 というのが、少年の正直な心の声である。


 いや、そんなことは、少年にも分かってるのだろう。全ては負けたからだ。


 『負けたら、奪われる』


 その不変の原則を、少年は森での生活を通じて理解していた。盛大に合唱中の元気な腹の虫とは裏腹に、少年は下を向く。


 ちなみに、この小屋は別に少年の小屋ではない。元は麓に住む木こりが木材伐採の時に使っていたものだ。

 一帯をあらかた伐り終え、地すべり防止の為の植樹も終わっている。木が成長する20~30年後まで場所的に便が悪くなるので、放置されていたに過ぎない。

 植樹済みと言っても、管理された里山と違って、枝打ちなどに来る者もほとんどなく、既にかなりの年数が経っているのは、小屋の様子からも明らかだ。そもそも、人が手を入れる山にしては、中途半端に高い為、とにかく運搬の便が悪い。


 周囲の植えられたと思しき木も、すっかり大きく成長してしまっている。材木としては調度良いが、それゆえ、運ぶのは大変だ。

 あと数年もすれば、また木こりが伐採に来るかも知れないが、さて、この不便な山に、再び来るか否かは微妙なところであろう。


 「ヒョウ…」


 「ヒョウか。苗字は……まぁ、良いか。両親は何してんだ? 何かこう、お前一人で住んでいるように見えるんだが…」


 少年にとっては、またまた信じられない質問であった。名前すらどうでも良いのに、両親? 俺の両親のことか?

 目の前のご馳走と一体何の関係があるのかと、男への怒りで思わず両拳に力が入る。

 焦がしてしまっては、せっかくの肉が台無しなのだ。


 「父ちゃんは2年前に『ふえき』に行って帰ってこなかった。母ちゃんは初めからいなかった」


 「賦役か。その後はどうした?」


 戦乱が続く世にあっては、年貢を納められない者は、賦役として戦に刈り出されることがあった。


 「知らない人がウチに来て、父ちゃんは死んだと聞かされた。その後、家を追い出されて、ここに来た」


 「…そりゃ、何というか、大変だったな。村の世話役かご隠居あたりが助けてくれなかったのか?」


 「……そんなやついなかった。最初は野菜とか養魚池の魚を盗んでたけど――見つかって、犬に追いかけられた。山を一つ越えて、ここに来た」


 一体いつになったら食べられるのか。コゲてしまったらどうするのか。ヒョウは気が気ではない。こうしてご馳走を前にお預けを食らっていると、空腹で気が狂いそうであった。


 「あれ? さっき、2年前って言ったか? ヒョウ、お前、ング、歳は…クチャッ、いくつだ? …モキュッ」


 不穏な咀嚼音に少年は顔を上げる。

 下を向いていたことと、男への怒りから、頭に血が昇って気付かなかったのだ。男は口の端から脂を滴らせながら、両頬を膨らませていた。


 何と、目の前の招かれざる客人は、すでに肉を食っていた。


 「ん? あぁ、すまん、すまん。ははは。ほら」


 差し出されたモモ肉を奪うように両手で掴む。熱さで、思わず放り出しそうになるが、端を掴み直し、かぶりつく。


 塩と胡椒で味付けされた角ウサギの肉は、少年が味わったことのないほど旨かった。それこそ、涙が出そうなほどに。

 噛みちぎって、モシャモシャと口内で噛み締めれば、程良い弾力の肉と、振りかけられた塩によって旨味を増した脂が渾然一体となって口いっぱいに広がる。

 ももっと味わっていたいと思うのに、つるりと喉を通って胃に落ちていく。

 ピリッと効かせた胡椒の香りが鼻から抜け、それがまた後を引く。

 やめられない、止まらない。

 凄まじい速度で手にした肉が消えていく。今まで何度か食べたことのある角ウサギだが、まるで別物だ。


 「(塩とこの黒い粒々を足すだけで、こんなに旨くなんのか…)」


 ちなみに角ウサギは魔物の一種で、体長は普通のウサギを一回り大きくした、50~60cm。

 両耳の間に2本、耳の半分程度の長さの角があり、さらにその2本の角の丁度真ん中の頭蓋内部に直径1cmほどの魔核がある。


 上位種は毛がトゲのように堅くなり、角も鹿角のように肥大し枝分かれする。

 山猫、大牙猫などが天敵で、通常は上位種であっても、人にとって脅威はない。角の直撃を食らえば大怪我は免れないが、角の大きな上位種は狙わなければ良い話だ。

 肉は魔物である以上、魔力を帯びているが、魔力抜きは不要。血抜きだけで、そのまま焼いて食べられる。


 随分とくたびれた鍋に、ご馳走の残骸を投げ入ると、カランと音がする。

 ヒョウは満足そうに手についた脂を舐めとると、汚れで柄も分からなくなっている着物の端で拭き取った。

 決して行儀の良いものではないが、少年のその姿を見て、幸谷は何ともほっこりとした気分になっていた。


 「多分、8歳」


 「多分…そりゃ凄いな。実質、6歳からこの山の中で一人で暮らしてるわけか……」


 幸谷は思わず、口の中にあった肉の塊をゴクリと飲んだ。

 正真正銘、驚いたのだ。

 6歳の少年が、果たしてこんな山奥で暮らせるものなのか。努めて表情には出さないが、信じられないといった様子。


 先の少年の動きを見れば、小型の動物なら仕留められるだろう。

 しかし、大型の魔物に遭遇すれば一巻の終わりだ。

 いや、食料は何とかなっても、冬の寒さはどうする。壁は隙間だらけだし、小屋の中を見渡しても、綿がぺしゃんこになった「かいまき」が1枚あるだけだ。

 しかし、少年の話が本当なら、少なくとも、一度は冬を越している。

 かいまきの周りに散らばっている何枚かの小さな毛皮。

 この程度の防寒対策が、いかほど役に立つのか甚だ疑問だ。風邪でもこじらせたらどうするのか。

 そもそも相手も見ずに、いきなり大人に斬りかかるというのも、少年の情緒としては荒みすぎだし、いろいろとマズい。


 「このへんはあまり熊や大牙猫が出ないんだ」


 「いや、そうかも知れんが…」


 幸谷にも、ヒョウの言わんとするところは理解できる。嘘もついていないだろう。だが――。

 

 確かに高い木が多く、比較的、実をつけるような低い木は少ない。

 高い木が多ければ下草は生えにくいし、実をつける木が少なければ、下草や実を食べる草食の動物も魔物も少ないだろう。従って、それらを狙う大型の魔物も出ないという理屈か。

 しかし、10歳にも満たない少年が山の中で一人で暮らすというのは、公平に見て、今まで運が良かっただけだろう。

 元が木こりの作業小屋ということで、多少周りが拓けていて、獣のナワバリに組み込まれていなかったという点も運が良い。


 「たまに里に下りて、野菜を盗むこともある…」


 大型の肉食獣に遭遇したら終わり。

 風邪をひいたり、怪我をしたら終わり。

 渡りの狼の群れにでも小屋を嗅ぎつけられたら終わり。

 里の村人に盗みを見られて、山狩りされたら終わり。

 その際少年の得物で抵抗でもしようものなら、村人に叩き殺されるのは間違いあるまい。


 どう考えても、いつ終わっても不思議ではない。2年未満とはいえ、生きているのが奇跡だ。確かに、ヒョウの身体能力は高いが、あくまで子供のレベルでの話だ。



 幸谷は難しい顔をしたかと思うと、今度は腕を組んで、ヒョウをジロジロと見ながら、しばらく考え込んでいた。

 やがて、何かを決めたように、あぐらをかいた両膝をポンと叩く。

 そして、高らかに宣言した。


 「決めた! お前に剣を教えてやろう」


 「いや、いらないから出てって」


 一瞬の躊躇もない、即断の拒絶であった。

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