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 第11話 「蝉」

 堀田家は父左内、その妻ゆき、雪平と弟蓮左の四人家族。現在、長屋でつましく暮らしている。

 長屋の家賃は月に800文。高いか安いかの感じ方は人それぞれだろうが、ゆきの手習いの収入が月に2500文程度であることを考えれば、定期的に傭兵稼業による収入がないと、かなり厳しいと言えるだろう。家賃は払えても、食べて行けない。

※一文銭=約20円


 雪平は家への道中、自分を待つ母親と弟に、何を買って帰ろうかと頭を悩ませていた。

 懐には、左内より預かった1両と、自分の1両、合わせて2両が入っている。

 ※一両小判=約10万円


 報酬は日毎でも、まとめて受け取ってもどちらでも良いが、借金などがある者も多く、日毎に受け取る者が多いようである。堀田家は後者か。ただし、明日をも知れぬ傭兵稼業とあっては、堀田家に限らず、日当で受け取りたいのが人情だろう。


 今日は結局、出陣の可能性はないということで、宿舎へ戻らされることになった。その際、父左内と雪平が、家で待つ家族のために、どちらか一人、帰らせてもらえないかと役人に相談したところ、日の出前に戻ることを条件に、帰ることを許されたのだ。


 普通は、夜戦の可能性もある為、契約中は帰ることは出来ないし、帰る者もいない。ただ、初日であることと、家族に蓄えがないことを説明し、家族に日当を渡したい旨を伝えたところ、二人のうち一人、雪平だけは帰っても良いことになったのだ。



 「おお、蓮左ではないか。母上まで、どうされたのです?」


 30mほど先から、弟蓮左が走ってくるのが見えた。


 「兄うえ~っ!!」


 蓮左は7歳。遊びたい盛りである。体力の続く限り遊び、体力の続く限り寝る。一人遊びは得意な方で、日がな本を読み続けていることもあるが、やはり、跳ねたり、走ったりの方が楽しい年齢である。


 「ははは。こら走るでない、危ないだろう」


 見事にこけた。


 それも顔から。


 「そら、言わんこっちゃない…」 


 蓮左は「うごぉ…」などと言いながら、すぐに立ち上がって、また走り出し、雪平の懐に「どごん!」と音がしそうな勢いで飛び込んだ。顔の一部をスリ剥いたようだ。血がにじんでいる。

 

 わが子のそんな様子を見ても、特に取り乱した様子もなく、母ゆきは後からゆっくりと歩いてきていた。

 そんな母を見て、雪平は思わず笑ってしまう。

 

 「(母上らしい…)」


 「兄うえっ! 兄うえの策が上手くはまったようですな!」


 契約期間中に宿舎を抜けたことを言っているのだ。

 別に策というほどのものではない。単に、初日からいきなり合戦はなかろうから、日当を貰ったら、自分だけは一旦帰宅する旨を伝えていただけである。

 これには母ゆきも喜んだ。

 蓮左は「さすが兄うえです」と、まるで自分のことのように喜んでいる。


 というのも、父左内の傭兵の稼ぎだけでは、なかなかまとまった蓄えも出来ず、安定しない経済状況の中、食うや食わずの長屋暮らしが続いていたのだ。日々、生活の為の日銭が出て行き、もう、手元にはほとんど金がなかった。

 手習いに来た子供らに、白湯を出すのは、何とも心苦しいものがあった。


 ゆきは午前中だけ、「手習い師匠」として、近所の子供たちに読み書き算盤を教えている。場所は、大家の敷地内にある離れを借りて。

 毎日通う子供は12~13人。人数としては平均より多いか。

 ただし、12~13人の子供が集まった程度では、食べていくことは難しい。手習いとは、読み書き算盤を教える場であるだけでなく、ある種、託児所的な側面もあるのだ。つまり、長屋の貧乏人の子相手では、大した収入は望めない。

 

 しかし、堀田家が、その少ないゆきの収入を頼りにしていることも、また事実であった。ゆきは午後からは筆耕(写本書き)の内職をしている。雪平も暇な時には手伝うことがあった。


 ゆきは、二人分の傭兵の日当でしばらくは食べていけると、ホッと胸を撫で下ろした。


 昨晩、雪平が、左内だけではなく、自身も「特別日当待遇」ということを伝えると、ゆきは大いに喜んだ。

 そして、どこからか、ゆきが若い頃に使っていた中級回復魔術の教練書を持ち出してきた。「合戦のない日などに勉強なさいませ」ということらしい。

 これには雪平も閉口した。


 実際のところ、左内もゆきも、まさか13歳のわが子が特別日当待遇とは思わなかったので、心の準備が出来ていなかったのだ。

 そもそも、傭兵として仕事をするのも、今回が二回目である。父左内は雪平の魔術を見たことがほとんどなかったし、雪平も自分で勝手に練習するタイプだった。

 それが採用試験に受かったばかりか、特別日当待遇が決まったのだから、驚きもひとしおであった。左内は、何かの間違いではないかと問い詰めて来たほどである。


 蓮左は、ただただ諸手を挙げて大喜びするばかりで、、「兄うえ、この際、エバレット二世を名乗られてはいかがか」などと言い出し、母ゆきに怒られていた。



 「こら、蓮左、男が取り乱して、突然走り出すなどみっともありませんよ!」


 怒っているのだろうが、ゆきの優しい表情では、むしろ息子を可愛がっているようにしか見えない。


 「ほら、顔を出しなさい!」


 「母うえ、向こう傷は男の勲章でござる!」


 「黙らっしゃい。たかが往来で顔をスリ剥いたくらいで、何が勲章ですか!」


 そう言って、優しく蓮左を抱き寄せると、顔の傷に右手をあてる。

 母ゆきの右手がぼうっと青白く光り、ぼんやりとした光がその手から放出される。淡い光は蓮左の鼻と額の傷を照らした。


 雪平はゆきの回復魔術が出す光が好きであった。


 やがて、スリ剥けて血の滲んだ部分が、ゆっくりと、まるで逆再生するようにふさがっていった。軽症とはいえ、まさにあっという間。一分もかかっていないのではないか。


 「さすがは母上の回復魔術といったところですね」



 『回復魔術』



 母ゆきの「治癒術」はエバレット流であり、仙術の一種である。もっとも、エバレット流は『回復魔術』と呼んでいるが。

 エバレット流回復魔術は上級、中級、初級の3階級あり、母ゆきは中級、雪平も初級の認可を受けている。

 

 基本はまず、体内の気力と、周辺の魔力を体外で練り合わせ、同期、増幅させる。魔力を高めることが目的なので、魔石や魔道具を使っても構わない。

 そして術者は怪我人――この場合は蓮左の気力と、増幅させた魔力を同調させる。

 この時、同調させる為に術者の気力が必要となるので、全く気力を放出できない者が、魔道具のみをもって回復魔術を発動することは出来ない。体外魔力のみでは同調できないからだ。

 体外魔力を操る術(すべ)があれば話は別だが、通常、体外魔力を意志のままに操り、患者に送り込むことは出来ない(とされている)。正確には、操れる術者がいない。


 そして、怪我人の患部に魔力を集め、術者――この場合はゆきが解剖学的な知識と治癒イメージによって、患部組織を急速再生させる術である。

 術者と患者、二人分の魔力を使って、「治す力」を『強化』する、といったところだろうか。


 部位欠損などは不可能であるが、上級者になると、内臓疾患や外科的手術の多くも可能となる。失った血は増えないが、患者が『強化』が得意な者であった場合、造血によって、瀕死の場合であっても、命を取り留めた例もある。


 上級と中級は明確に差があり、上級は魔法陣を『展開』させて回復させる。ここが古くからある治癒術と、エバレット流の違いである。

 ゆえに、中級のゆきも初級の雪平も、正しい意味においては、エバレット流とは言えないのだ。


 母ゆきの故郷は耳長族エバレットゆかりの地、六海(むつみ)藩|霞浜《かすみはま》村。

 ゆきは幼少時より、父の薦めに従い、エバレット流に師事した。

 風属性魔術はものにならなかったが、網元という分限者一家であった為、逆に回復魔術の習得に邁進することが出来た。本人の才能もあってか、中級回復魔術師の認可を受けている。

 雪平は母より薫陶を受け、霞浜に里帰りした際に、回復魔術師の初級認可を受けている。将来を大いに嘱望されたようだ。


 ただし、雪平が初級認可を受けたのは、雪平が8歳の時で、現在、左内とゆきこそ知らないが、既に上級手前程度の実力がある。魔法陣を使わない回復魔術なら、独学でほぼ全てを網羅していた。


 「兄うえに治してもらおうと思ったのに……」


 思わず雪平は「母上に治療してもらって嬉しかったくせに」と苦笑する。蓮左は顔が真っ赤である。


 「何を申されるか、兄うえ! 以前、わたしの折れた足を治してくれたではござらんか! 兄うえの技を、また見たかったでござる!」


 「そんな簡単に骨折は治りませぬ。それに蓮左、ちょっと言葉遣いが子供らしくないのではありませんか?」


 思わず噴出す雪平。確かに蓮左の言葉遣いは少々古臭い言い回しが多い。背伸びしているのだろうか。

 また、初級回復魔術では骨折は治らない。中級であっても、折れた骨を繋ぐのだから、それなりの時間が必要だ。子供では骨を繋ぐ前に魔力欠乏に陥りかねない。ゆきは初級の雪平が治せるわけがないと考えたのだろう。


 「ああ、そう言えば以前、お前の打ち身(・・・)を初級(・・)回復魔術(・・・・)で治したことがあったな」


 「打ち身ではござらん! 完全に折れておりました。わたしは痛みで頭がおかしくなりそうでござった」


 「よいよい。それよりも母上、帰り道、買い物をしようと、先の通りを見て回ったのですが、何を買って良いのか、皆目見当がつきません。お願いできますか?」


 そう言って、左内の分と合わせて、懐紙に包んだ2両を手渡す。ゆきは「こんな通りで大金を手渡しとは」と咎めつつも、ニコリと笑って礼をした。

 

 「では、小判のままでは買い物も出来ませぬ。まずは両替所に行きましょうか。買い物の計算は蓮左、お前に任せましたよ」


 「承知いたしました」


 蓮左が真面目ぶった顔で答えると、雪平はまた噴出した。



 ◇◆◆◆◇


 

 「兄うえ、あの虫の鳴き声、ご存知ですか?」


 買い物を終え、長屋への帰り道、突然蓮左が雪平に聞いてきた。

 言われて見れば、相当な数の虫が鳴いている。コウロギやきりぎりすの類ではない。何しろ木の上だ。

 

 その鳴き声の主は――雪平の耳には、どう聞いても蝉であった。


 「いや、知らんな。蝉のようでもあるが、もう10月の終わりにそれはなかろうし……。はて、どういうわけか、この時期にこのような虫の音は、今まで聞いたことがなかったな」


 「確かに蝉のようですね。でも、私は昔聞いたことがあるような気がします。『秋蝉(あきぜみ)』と言っていたような…」


 ゆきは知っていたようだ。

 当然のことながら、蝉は夏の虫である為、「おかしい」と雪平は考える。

 なぜなら、今は10月の終わり。それもすぐに11月になろうという時期だ。蝉なら毎年鳴いているだろう。ならば、去年だって、一昨年だって鳴いていたはずだ。しかし、雪平はこんな時期に蝉の鳴き声を聞いたことなど、一度もなかった。


 「兄うえ、蝉で間違いありません。『十三年蝉(じゅうさんねんぜみ)』という種類の蝉でござる」

 

 「ほう、詳しいな。13年とは何だ?」


 「蝉の一生でござる。13年に一度、土より出でて、数日鳴いた後、死ぬのです」


 なるほど、理屈だ。しかし、去年も一昨年も、この蝉が鳴いていた記憶が雪平にはなかった。そこはどう説明する?


 「はて、普通の蝉とどう違うのだ?」


 「普通の蝉は6~7年でござるから、倍ほども土の中にいるのでござる。しかも、普通の蝉は毎年鳴きますが、この蝉は本当に13年に一度しか土の外に出てきません」


 「何と奇妙な蝉よ。しかし、詳しいな。私はこの歳で初めてこの蝉のことを聞いたぞ。お前はどこで知った?」


 確かに奇妙な蝉と言える。

 普通の蝉は寿命が6~7年で、その一生のほとんどを幼虫として土中で暮らす。一生のうちの最後の数日、幼虫のままでは産卵できないので、土中より出て、羽化して蝉になる。

 『十三年蝉』の場合、その寿命が13年ということだろう。しかし、問題は寿命ではなく、13年に一度だけ、一斉に羽化することである。そんなことがあり得るのだろうか。普通の蝉は毎年羽化しているのだ。他の年の十三年蝉はどうしているのか。


 「父うえの蔵書でござる。父うえは『いずれ暦方になるゆえ』と言って、たまに蔵書を陰干しなどしているのでござるよ」


 確かに、左内はいつ仕官が決まっても良いようにと、時々、暦に関する、特に大事な蔵書などを丁寧に手入れしていた。黄ばんだり虫が食ったりしないように。それを蓮左が盗み読んでいるのは、雪平も知っていた。

 それら蔵書は堀田家代々の財産とも言えるが、雪平は、父が蔵書を手入れする姿があまり好きではなかった。

 小さい頃、その後姿がどこか怖かったのだ。


 「うむ、それは私も知っているが、『暦方』と十三年蝉がどう関係するのかが分からん」


 「わたしもまだ詳しく『研きゅう』したわけではありませんが、父の蔵書より、今年が十三年蝉の年であることはわかっておりました」


 「なるほど。暦は星や月齢を元に計算するものだが、決まって13年毎に鳴くのなら、蝉もまた暦に関係あると言えば関係あるか。もっとも、虫の寿命が13年というのは、些か長い気もするが」


 「『十七年蝉(じゅうしちねんぜみ)』というのもおります」


 「17年と! しかし、蝉が自分で13年や17年の期間を計算して這い出てくるとは、奇妙な蝉よ。何しろ、他の年には羽化しないのだからな」


 黙って横で聞いていたゆきが「ほんにおかしな蝉ですこと…」と呆れた声をだすと、蓮左の声が少し小さくなる。


 「いかにも。しかし、父うえの蔵書によれば、『十三年蝉』と『十七年蝉』が星の運行と関係があるらしく――」


 最初、雪平はどうして蝉と星の運行が関係あるのか、意味が分からず混乱した。しかし、蓮左が父の蔵書に記載があると言うのなら、何らかの関係があるのだろうと納得する。


 月齢は暦に大いに関係する――というより、暦そのものだから、蝉も決まった周期で鳴くのなら、確かに『蝉齢』として、暦に関係があると言える。

 蓮左はまだ子供だから、理解はしていても、他人に伝えることが上手く出来ないだけかも知れない。だからと言って、雪平は虫の一生はおろか、『暦方』にすらまるで興味がない。


 堀田家再興を願う父や母には言えないことではあるが、暦方として仕官し、それを継がなければならないとしたら、傭兵の方がまだしもマシだと考えている。


 雪平は、十三年蝉のことは、蓮左の言うことだし、何となく憶えて置こうかなと思った。この蝉自体は確かに面白い蝉だ。いつか話の種くらいにはなるだろうと。


 「どうしたのでござるか?」


 「いや、奇妙な蝉もいたものだと、ちょっと面白くてな」


 堀田家はかつて遠江藩で『暦方』の役に就いていたが、それがクビになって、祖父の代より浪人となっている。そのこと自体は残念なことだと思うし、当時の家長であった祖父には同情もしている。

 しかし、だからと言って、『暦方』と堀田家の再興は何の関係もないと思っている。『暦方』でなくとも、再興は可能だ。『暦方』に固執する意味が分からない。 

 

 そもそも、家臣にしてもらおうと考えるのが、敗北主義的で若い雪平としては、受け入れられなかった。雪平は堀田家再興については、吝かではないにしても、もっと別の方法があるのではないかと考えている。


 若い雪平には、「どうか家臣として仕えさせてください」という発想がなかった。いっそ、200以上も藩があるなら、『暦方』がある藩は10や20ではきかないだろう。順番にその藩の『暦方』を暗殺していってはどうか。さすれば、『暦方』を残したいと考える藩があれば、「お声」も掛かろうよ、などと考えたこともあった。


 ふと雪平の脳裏に、今日、練兵場で会った、烏丸幸谷の姿が浮かんだ。ただ剣の道を邁進するのみの男。彼が自分の立場だったなら、どう考えるだろうかと。


 『暦方』の役自体、祖父の代で失っている為、物心ついた時には、雪平は浪人の子であった。浪々の身こそ日常で、その中で何を為すのかが、雪平の考えるべきことであった。

 その為、『暦方』など、むしろ嫌悪さえしているくらいなのだ。頼まれてもなる気はない。


 傲岸不遜で、幼い妄想の域を出ていないが、13歳の身では仕方ないことかも知れない。ただし、若い野心が常に間違っているということはない。


 野心、それ自体には正しいも間違いもない。


 達成できなかった者にとってのみ、その野心は「結果的に」間違っていたのだ。未来は誰にも分からないのに、結果論で生きるなど、転ばぬ先に杖を出すどころか、歩くのをやめる行為だろう。


 戦国の世に一代で一国一城の主にのし上がった藩主は両手では数え切れない。その藩主たちにも、若く青い時代があったのだ。

 次に来る野心を持った若者がその場所まで行けないと、誰が断言できようか。


 「(13年も土の中で暮らして、全ての蝉が数日で死ぬ…か)」


 十三年蝉の13年という数字が、ちょうど自分の年齢と同じだった為だろうか。雪平は奇妙な感覚を覚えていた。

 十三年蝉にとって、13年の土中生活は一体どんなものだったのだろうか。野心を燃やし続けることが出来ただろうか。

 命を燃やし尽くすように鳴く十三年蝉の声を聞いていると、雪平はそんなことを考えるのだった。


 「兄うえ…?」


 蓮左の声はどこか不安そうだ。

 雪平は、この可愛い弟のことを高く買っている。


 わずか7歳で、遊びの一つという感覚で父の蔵書を読み漁っている。父や母は自分のことを天才だと思っているようだが、蓮左に比べれば、自慢にもならないと思っている。


 先ほど、回復魔術を施さなかったことを思い出す。

 確かに、蓮左が訴えた通り、以前、蓮左の骨折を回復魔術で治したことがあった。


 かつて、雪平は一人で風魔術の訓練をしていた際、足を骨折したことがあった。その時、数時間掛けて自力で治した。蓮左の骨折は自分の時よりも簡単そうだったので、出来るかなと思ってやったら、出来たのだ。恐るべき才能と言えよう。

 他人の骨折治療は折れ方にもよるし、骨を繋ぐまでの時間もあるが、中級以上、上級未満といったところだろうか。魔力同調の工程がある為、自分で自分の怪我を治すよりは難しい。


 蓮左の喜びようは相当なものであったが、それよりも雪平が驚いたのは、骨折以外の部分の擦り傷を、蓮左は自分で試して、いきなり治してしまったのだ。


 曰く、骨折の治療を見て、「真似してみた」そうだ。骨折の治療を見て、どうしていきなり擦り傷を治せるのか。いかに擦り傷が怪我としての程度が低いとは言え、雪平には今でも意味が分からない。


 魔術の教書すら読んだ事のない7歳の子が、そんなことあり得るのだろうか。雪平は何か薄ら寒いような気がして、父にも母にもこの日のことを言わなかった。

 弟の才能に対する嫉妬もいくらかあったのかも知れないが、それよりも、蓮左の天才性を今はまだ誰にも知られたくなかったのだ。

 自分だけが知っている今を、大切にしたかったから。


 これだけの天才性は、どんなに隠そうと、いずれ隠しようもなくなる。雪平はその時までは自分だけが知っていれば良いと思ったのだ。


 先月のこと、たまたま魔術の訓練の後、長屋近くの寂れた廃社で蓮左を見かけた。何をやっているのか聞くと、境内に掲げられていた古い算額の写しを取っているという。


 算額とは、算術の問題を額の表に、答えを裏に書いた額のこと。算術愛好家同士の遊びで、神社に奉納することになっているようだ。「解けるものなら、解いてみよ」という、自分以外の算術自慢に対する、一種の挑戦状なのだろう。

 写しを見せてもらったが、雪平には問題の意味すら分からなかった。


 雪平は蓮左が「兄うえ、これがとても面白いのでござるよ」と言って来たとき、引き攣った笑いで返すのが精一杯であった。


 雪平がそれ以来考えるようになったのは、蓮左のような天才が、暦の計算をして一生を終えるなど、命に対する冒涜ではないかということだ。いや、暦の仕事が好きで、それを仕事に出来るのなら、まだ理解できる。

 確かに星の運行を予測し、暦を管理するのは、高度な算術を用いる必要があるし、誰にでも出来る仕事ではないからだ。日々の生活から田畑の作付け、果ては祭事や神事に至るまで、重要な役目の一つではある。


 しかし、それは少なくとも仕官していての話だろうと。長屋住まいで、傭兵の仕事で得た金を、仕官先を探す為に使う。多くの藩を回れば、それだけ金も必要だ。金が尽きれば、また傭兵で金を稼ぐ。


 何なのだ、それは。


 暗黒ではないか。


 雪平は父の野心と妄執に気付いた時、心の臓を鷲掴みにされたような、言い知れぬ不安を覚えたのだ。父が若き日に抱いた野心は、もはや、呪いと化していることに気付いたからだ。


 自分の野心は違う。


 蓮左の野心も違うだろう。


 自分でさえ堀田家再興程度では、到底物足りぬと思ったのだから、蓮左ならどんな野心を抱くだろうか。


 「あの蝉が地に落ちて、その次の子が土の外に出るのは13年後というわけか…」


 夏の蝉よりは、遥かに強く、美しい鳴き声のように感じられた。

 澄んだ秋の空気の中、他の虫に混じって、十三年蝉の鳴き声だけ、一際大きく聞こえるからだろうか。

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