序章
主人公は気づいたら異世界に転移していた話です。主人公は男です。
陽の光が十分に入らないほど窓の少ない廊下を一直線に歩く。
「邪魔よ!」
後ろから来た何者かに押し退けられて、壁に手を突いた。
「ちょっと」
顔を上げた先には廊下を曲がっていくローブの端が見えた。
「偵察兵」
私はこぶしを握りしめた。
「あんたもあいつを待ってんのかい?」
椅子に腰かけてうつむき加減だった私に女が声をかけてきた。女はそのまま迷うことなく対面にどかりと座る。顔を上げれば、20台も後半のように見える獅子族の女。眉には一筋の傷が走り、擦れてやわらかくなったレザーアーマーを身に着けていた。私は少々のけぞってしまう。
「おや?あんた見ない顔だね。もしかして新顔か。」
景色がグルグルとまわってまともな返答ができそうにない。私はただうなずいた。
「初めての支部がこことは運がいいなあ。ここならルールを守ればまず死ぬことはないよ。」
安心していい。女は豪快に笑う。
「ありがとう。私、認識票を待ってるの。それで一体何を待っているの?」
女は手を叩いた。
「ああ、そういやそういう話だったな。ここにいる奴はみな、スカウト待ちさ。」
顔をしかめた私をみて、彼女は笑った。
「この支部には特別なスカウトがいるのさ。」
偵察兵
ギルドやクランにおいて偵察任務を遂行することを専門とする人間の事を偵察兵と呼んでいる。ギルド支部では担当領域をグリッドで分割している。ギルドの偵察兵たちはそれぞれ、グリッド内での魔物たちの動き、天候や土地のコンディションを偵察し、報告する。ギルドはもたらされた情報を従士たちに伝えて、任務に備えさせる。時々刻々と変化する領域の情報は非常に貴重であり、偵察兵たちには様々な特権が与えられている。偵察兵になるためには、一定以上の現場経験を積んだのち、ギルドの偵察兵養成校を卒業しなければならない。
一言偵察兵と聞けば、大概の従士は顔をしかめるだろう。多くの従士はギルドの訓練校を卒業して、ライセンスを受け取り、初めて現場に出ることが許される。養成学校には偵察兵を養成する部門が併設されているが、偵察兵候補生の傲慢さは目に余るものがある。それ故、訓練校を卒業した者たちは偵察兵にいいイメージを持っていない。
「ま、無理もないわ。訓練校では相当傲慢な偵察兵達にいやな目にあわされるんだろ。」
女は背もたれにだらしなくもたれ掛ると、頭の後ろで手を組んだ。
「私は、現地採用だからな。そこらへんの詳しい事情は知らないんだ。」
女の言葉に思わず目を見開いた。通常ギルドに所属し、職に就くには訓練校を卒業することが一般的であるが、現役のベテラン従士3名に認められた者は特別に支部が現地採用することがある。これらの者は武勇に優れ、各地に名を轟かせている者も少なくない。
「何、そう特別なことじゃない。従士の2割は私みたいに現地採用さ。」
女はそういうと身じろぎした。頭頂の耳がせわしなく動いている。
「ここの支部には現地採用の偵察兵がいるのさ。支部権限を使った特例らしいけど、詳しいことは知らないよ。そいつがとにかくいい情報を持ってくるのさ。」
噂をすればほら。そういって彼女は顎をしゃくった。
ホールにフードを目深にかぶったコートを着た人が踏み入れた。エミリアはどことなく異様な雰囲気を感じた。具体的に何処がとは言えない。ホールが静まり返る。皆の視線が今しがた来た人間に集中しているのがよくわかった。誰もが一挙手一投足を見守る中、その者はゆっくりと窓口まで進むと、ポケットを探り、徐に地図と紙を取り出し窓口に置いた。窓口の女性も手慣れたもので何事もなく地図を受け取ると、机の上に報酬を乗せる。
「こちらが今回の報酬になります。……明日も依頼をお願いしてもいいでしょうか。」
その者は微かに頷くと、踵を返した。ホールにいる人間全員の視線を受けながら、扉を閉めて退出していく後姿を見て、唐突に違和感の原因に思い至る。足音一つ、いや気配を感じない。まるでそこにいないかのようだ。姿をハッキリととらえているのに輪郭がぼやけ、背丈や肩幅、がはっきりと認識できない。どこか位相がずれているという感覚。扉が閉まり姿が消えるまで、皆がその背中を見続けていた。
偵察兵がホールから完全に姿を消した後、窓口は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになった。ギルドが買い取った領域情報は全て従士に無償で公開されることになっていて、皆が窓口に殺到したのだった。
「す…すごい。」
人混みのあまりの多さにしり込みする私を尻目に獅子族の女性は落ち着き払った様子で窓口を眺めた。
「なに、いつもの事さ。あんたも時機に慣れる。寧ろあそこにいる一人になっているかもね。」
そういってにやりと笑うと、居住まいを正した。
「まだ名前を言ってなかったね。ハンナ パウマン。よろしくな。」
そういって私に手を差し出した。
「こちらこそ、エミリア マーサーです。」
私達は握手を交わした。彼女の手はすこし硬い。ハンナは立ち上がり肩をほぐした。
「さっ今日の仕事にかかるかね。」
ギルドの新人担当は会話が終わるのを見計らったかのように私の名を呼んだ。
「生きていればまた会うこともあるだろうさ。頑張りな。」
ハンナは肩越しに言葉を投げかけた。




