おるね?
「君江さん、おるねー?」
朝九時。
玄関を軽く三回叩く。
「開いとるばい。」
聞き慣れた声に、幸子は「よかった」と胸の中だけでつぶやく。
「また勝手に入るばい。」
「もう毎回やけん、今さら断らんやろ。」
二人は笑う。
幸子は離婚して二十年。
子どもはいない。
若い頃は一人が気楽だと思っていた。
けれど、七十を過ぎる頃には、誰とも話さず一日が終わる日も珍しくなくなった。
君江は十年前に夫を亡くした。
東京には娘と孫がいる。
「一緒に暮らそう。」
そう言われることを、どこかで期待していた。
けれど娘は申し訳なさそうに言った。
「お母さん、ごめんね。部屋も狭いし、子どもたちも受験で……。」
責める気にはなれなかった。
娘にも生活がある。
だから福岡で一人、生きることにした。
その代わりにできたのが、幸子というご近所さんだった。
「はい。今日は切り干し大根。」
「また作りすぎたと?」
「毎回そう言いよるやん。」
「二人分作るのも、一人分作るのも変わらんけんねぇ。」
君江は冷蔵庫から小さな袋を取り出した。
「これ持って帰り。」
「なんね?」
「娘が送ってきたクッキー。」
「また送ってきてくれたと?」
「写真ば送らんと心配するけんね。」
「愛されとるたい。」
君江は少しだけ笑った。
「電話は月に一回くらいばってんね。」
幸子は何も言わなかった。
慰める言葉なんていらない。
代わりにクッキーを一枚口へ放り込む。
「うまか。」
「やろ。」
「でも私は漬物のほうが好き。」
「年寄りやけん。」
「お互いやろ。」
また笑う。
話すことなんて、毎回同じ。
今日は暑い。
野菜が高い。
スーパーで卵が安かった。
テレビで誰それが結婚した。
近所の猫がまた花壇を荒らした。
同じ話を何度しても、二人とも気にしない。
覚えていないのではない。
もう一度聞くことが嬉しい年齢になっただけだった。
「ほんなら帰るばい。」
「また明日……いや、明後日くらいに来んね。」
「生きとったらね。」
「当たり前たい。」
それが二人の挨拶だった。
「生きとったらね。」
冗談みたいに笑いながら。
でも心のどこかでは、本当にそう思っていた。
三日経った。
君江の家は静かだった。
「病院かね。」
そう思った。
四日目。
新聞が郵便受けから少しはみ出していた。
洗濯物もない。
幸子は胸の奥がざわついた。
「君江さん?」
返事がない。
もう一度。
「君江さん、おるね?」
返事はない。
玄関の戸を叩く音だけが響く。
幸子は窓から中をのぞいた。
居間の電気がついたままになっている。
嫌な汗が流れた。
「君江さん!」
近所の人を呼び、警察へ連絡した。
鍵を開けてもらうと、君江は台所で倒れていた。
脳梗塞だった。
医師は言った。
「あと少し遅ければ命は危なかったでしょう。」
幸子は椅子に座り込んだ。
足の力が抜けた。
涙が止まらなかった。
助かった。
ただ、その一言だけが頭の中を何度も巡っていた。
──────
数か月後。
君江は少しだけ左手が動かしにくくなった。
足もゆっくりになった。
それでも一人で暮らせるまでに回復した。
退院の日。
幸子は君江の歩幅に合わせて歩いた。
「遅かねぇ。」
「文句ある?」
「ある。」
「早う元気になってもらわんと、漬物もらえんやん。」
君江は吹き出した。
「それが本音ね。」
「もちろん。」
家へ戻ると、幸子は玄関先で振り返った。
「ほんなら、また明日寄るけん。」
「おう。」
「留守にしとったら怒るけんね。」
「買い物くらい行かせてよ。」
「夕方まで帰ってこんかったら、様子見に来る。」
「心配性やねぇ。」
「そうでもせんと安心できんったい。」
「ほんなら、また来るけん。」
「うん。」
君江は静かに笑った。
翌朝。
「君江さん、おるねー?」
「おるよー!」
いつもの声が返ってくる。
その声を聞くだけで、幸子は安心する。
今日も切り干し大根を半分こする。
テレビを見ながら笑う。
同じ話を何度もする。
帰るときは、
「またね。」
「またね。」
それだけ。
特別な約束はない。
劇的な出来事もない。
誰かに語るような友情でもない。
ただ、ご近所さん。
それだけの関係。
それでも今日も二人は、お互いの家の玄関を見て、「ああ、今日もおるね」と安心しながら生きていく。
「君江さん、おるねー?」
「開いとるばい。」




