表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

おるね?

掲載日:2026/07/17


「君江さん、おるねー?」


朝九時。


玄関を軽く三回叩く。


「開いとるばい。」


聞き慣れた声に、幸子は「よかった」と胸の中だけでつぶやく。


「また勝手に入るばい。」


「もう毎回やけん、今さら断らんやろ。」


二人は笑う。


幸子は離婚して二十年。


子どもはいない。


若い頃は一人が気楽だと思っていた。


けれど、七十を過ぎる頃には、誰とも話さず一日が終わる日も珍しくなくなった。


君江は十年前に夫を亡くした。


東京には娘と孫がいる。


「一緒に暮らそう。」


そう言われることを、どこかで期待していた。


けれど娘は申し訳なさそうに言った。


「お母さん、ごめんね。部屋も狭いし、子どもたちも受験で……。」


責める気にはなれなかった。


娘にも生活がある。


だから福岡で一人、生きることにした。


その代わりにできたのが、幸子というご近所さんだった。


「はい。今日は切り干し大根。」


「また作りすぎたと?」


「毎回そう言いよるやん。」


「二人分作るのも、一人分作るのも変わらんけんねぇ。」


君江は冷蔵庫から小さな袋を取り出した。


「これ持って帰り。」


「なんね?」


「娘が送ってきたクッキー。」


「また送ってきてくれたと?」


「写真ば送らんと心配するけんね。」


「愛されとるたい。」


君江は少しだけ笑った。


「電話は月に一回くらいばってんね。」


幸子は何も言わなかった。


慰める言葉なんていらない。


代わりにクッキーを一枚口へ放り込む。


「うまか。」


「やろ。」


「でも私は漬物のほうが好き。」


「年寄りやけん。」


「お互いやろ。」


また笑う。


話すことなんて、毎回同じ。


今日は暑い。


野菜が高い。


スーパーで卵が安かった。


テレビで誰それが結婚した。


近所の猫がまた花壇を荒らした。


同じ話を何度しても、二人とも気にしない。


覚えていないのではない。


もう一度聞くことが嬉しい年齢になっただけだった。


「ほんなら帰るばい。」


「また明日……いや、明後日くらいに来んね。」


「生きとったらね。」


「当たり前たい。」


それが二人の挨拶だった。


「生きとったらね。」


冗談みたいに笑いながら。


でも心のどこかでは、本当にそう思っていた。


三日経った。


君江の家は静かだった。


「病院かね。」


そう思った。


四日目。


新聞が郵便受けから少しはみ出していた。


洗濯物もない。


幸子は胸の奥がざわついた。


「君江さん?」


返事がない。


もう一度。


「君江さん、おるね?」


返事はない。


玄関の戸を叩く音だけが響く。


幸子は窓から中をのぞいた。


居間の電気がついたままになっている。


嫌な汗が流れた。


「君江さん!」


近所の人を呼び、警察へ連絡した。


鍵を開けてもらうと、君江は台所で倒れていた。


脳梗塞だった。


医師は言った。


「あと少し遅ければ命は危なかったでしょう。」


幸子は椅子に座り込んだ。


足の力が抜けた。


涙が止まらなかった。


助かった。


ただ、その一言だけが頭の中を何度も巡っていた。



──────


数か月後。


君江は少しだけ左手が動かしにくくなった。


足もゆっくりになった。


それでも一人で暮らせるまでに回復した。


退院の日。


幸子は君江の歩幅に合わせて歩いた。


「遅かねぇ。」


「文句ある?」


「ある。」


「早う元気になってもらわんと、漬物もらえんやん。」


君江は吹き出した。


「それが本音ね。」


「もちろん。」


家へ戻ると、幸子は玄関先で振り返った。


「ほんなら、また明日寄るけん。」


「おう。」


「留守にしとったら怒るけんね。」


「買い物くらい行かせてよ。」


「夕方まで帰ってこんかったら、様子見に来る。」


「心配性やねぇ。」


「そうでもせんと安心できんったい。」


「ほんなら、また来るけん。」


「うん。」


君江は静かに笑った。


翌朝。


「君江さん、おるねー?」


「おるよー!」


いつもの声が返ってくる。


その声を聞くだけで、幸子は安心する。


今日も切り干し大根を半分こする。


テレビを見ながら笑う。


同じ話を何度もする。


帰るときは、


「またね。」


「またね。」


それだけ。


特別な約束はない。


劇的な出来事もない。


誰かに語るような友情でもない。


ただ、ご近所さん。


それだけの関係。


それでも今日も二人は、お互いの家の玄関を見て、「ああ、今日もおるね」と安心しながら生きていく。


「君江さん、おるねー?」


「開いとるばい。」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ