婚約者が義妹のアリバイを証言したので、王妃様の消えた首飾りは彼の袖から探します
婚約破棄、冤罪、宝飾ミステリー、公開断罪の短編です。
主人公が泣き寝入りする話ではありません。
知識と技術で証拠を積み上げ、王妃様の前で真実を暴きます。
婚約者が義妹のアリバイを証言したので、王妃様の消えた首飾りは彼の袖から探します
王妃様の首飾りが消えた。
それも、私が鍵を首に掛けて守っていた展示箱の中から。
「どうして……」
声がかすれた。
王宮の玻璃温室には、初夏の月華祭を祝う白薔薇が咲き乱れている。その中央、銀の脚を持つ展示箱の中で、濃紺のビロードだけが虚しく光を吸っていた。
そこにあるべきものは、国宝級の首飾り《月の涙》。
青白い月晶石を二十三粒連ね、中央には雫形の大石を下げた、アデライード王妃様の婚礼宝飾である。月光を受ければ石の内側から淡い光を放つため、今夜の月華祭で披露されることになっていた。
私は王室宝飾保全官として、三か月をかけて糸の張り替えと留め金の修繕を行った。今朝、みずから箱へ収め、鍵を掛けた。それから鍵は一度も私の首から離れていない。
なのに、箱の中は空だった。
「リゼット姉様?」
甘い声が背後からした。
振り返ると、義妹フローラが桃色のドレスの裾をつまみ、婚約者のセドリック・ハーグレイヴ様に支えられて立っていた。
二人が腕を組んでいることを問いただすより先に、私は警備の近衛へ向き直った。
「扉を閉めてください。どなたも温室から出してはなりません。王妃様へ至急お知らせを」
「何を騒いでいるんだ、リゼット」
セドリック様が眉を寄せ、展示箱へ近づいた。私が止める間もなく中を見て、大きく息を呑む。
「まさか、《月の涙》がないのか」
「はい。開錠の形跡を確認しますので、どうか触れずに」
「確認? 確認するまでもないだろう」
彼の声が、白薔薇に囲まれた温室へよく通った。
月華祭の開場を待っていた貴族たちが、何事かと集まってくる。
「今朝、首飾りを箱へ入れたのは君だ。そして鍵を持っているのも君だけだ」
「王妃様の予備鍵は封印されております。それに、この箱は鍵を使えば痕が残ります。調べれば」
「鍵を使う必要もない。君は初めから、首飾りを箱に入れなかったのではないか?」
一瞬、意味がわからなかった。
「セドリック様?」
「近頃のオルブライト伯爵家は領地の鉱山が振るわないと聞く。君は宝飾を扱う立場を利用して、《月の涙》を売り払うつもりだった。空の箱に鍵を掛け、自分が被害者のように騒げば疑われないと思ったのだろう」
集まった人々の間に、ざわめきが走る。
私の実家の鉱山が細くなっているのは事実だった。だからこそ私は伯爵令嬢という肩書きだけに頼らず、宝石の保存と修繕を学び、試験を受け、王室の仕事に就いた。
それを、彼は盗みの動機として差し出したのだ。
「根拠のない侮辱です。私は一度たりとも王室宝飾を」
「根拠ならある」
セドリック様はフローラの肩を守るように抱いた。
「公開準備の間、この温室に入ったのは君とフローラだけだった。ところが首飾りが消えたと推定される正午前、フローラは私と南庭にいた。具合を悪くした彼女を私が休ませていたからだ。私が彼女のアリバイを証言する」
フローラは震える睫毛を伏せた。
「ごめんなさい、姉様。私、姉様ならきっと何か事情がおありなのだと思います。でも、私が盗んだと疑われるのは……怖くて」
「私は、あなたが盗んだなどまだ一言も言っていません」
「だって、入れたのは姉様と私だけなのでしょう?」
か弱い問いかけが、実に巧みに周囲の視線を私へ導いた。
胸の奥が冷えていく。
フローラが母親とともに我が家へ来たのは十年前だ。私は彼女に宝石図鑑を貸し、磨き布の使い方を教え、今朝も展示の薔薇を整えたいという頼みを聞き入れた。
そしてセドリック様とは、七年前に婚約した。宝飾の勉強を続けたいという私へ「結婚後も好きにすればいい」と言った人だった。
今、彼の手はフローラの背に添えられている。
あまりに自然に。私には一度も向けなかった労りを見せるように。
「セドリック様。なぜ、盗難の調査も始まらぬうちから私の犯行だと決めつけるのですか」
「君を守るために黙っているわけにはいかないからだ。王家への忠義は、私情より重い」
彼は私の正面に立つと、周囲に聞かせる声で告げた。
「リゼット・オルブライト。王妃様の宝を盗んだ疑いのある君を、侯爵家の妻に迎えることはできない。私と君との婚約は、この場で破棄させてもらう」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
私は、左手の婚約指輪を見下ろした。
彼の言葉で傷つかなかったと言えば嘘になる。けれど、涙より先に浮かんだのは、ひどく場違いな疑問だった。
なぜこの人は、まだ公開していない調査結果を知っているように喋るのだろう。
首飾りがいつ消えたかなど、まだ誰にもわからない。
私が今朝箱へ入れなかった可能性を言い出した人が、同時に「正午前に消えた」と推定してフローラのアリバイを作るのは、おかしい。
「それは、ずいぶんお急ぎの婚約破棄ですね」
低く落ち着いた男声が、群衆の後ろから響いた。
人垣が割れる。黒い礼装の胸に王妃直属監察室の銀章を付けた、アルノー・ベルティエ卿が歩み出た。
彼は王妃様の甥であると同時に、王室財産の不正を調べる監察官だ。《月の涙》の展示計画では、私とともに警備と保全の手順を組み立てた相手でもある。
「ベルティエ卿、ちょうどよかった」
セドリック様は安堵したように言った。
「保全官が国宝を持ち去ったようです。鍵も本人が」
「私はまだ、首飾りが持ち去られたと断定していません。まず現場を封鎖するよう命じられたリゼット嬢の判断は正しい」
アルノー様は近衛へ短く指示を出した。温室の扉が閉まり、招待客のざわめきが一段高くなる。
「また、婚約の事情は監察室の管轄外ですが、盗難調査の前に婚約者を有罪扱いする態度は興味深い。後ほど詳しくお話を伺いましょう、ハーグレイヴ殿」
セドリック様の頬が引きつった。
間もなく、奥の回廊から王妃様がいらした。
銀髪に月晶石の髪飾りを一つだけ挿した王妃様は、空の展示箱を見ても取り乱さなかった。けれど灰青色の瞳が、凍りついた湖のように静まった。
「リゼット。そなたが最後に《月の涙》を見たのはいつです」
「本日、朝九時です。修繕状態を最終確認したのち、展示箱の台座へ収め、施錠いたしました」
「鍵は」
「ここにございます」
首から下げた鍵を、掌に載せて示す。
「予備鍵は私の私室で封印したままです」
「ただちにご確認を。なお、展示箱は使用された鍵の歯形を内部の封蝋に記録する仕組みです。許可をいただければ、開錠履歴と残留物を調べます」
王妃様は私の目を見た。
幼いころ、宝飾師だった亡き祖母の手伝いで宮廷へ上がった私に、初めて割れた真珠の修理を任せてくださった方だ。だから信じてください、と縋ることはできなかった。信頼を求めるなら、仕事でお返しすべきだった。
「よろしい。予備鍵の確認は私の侍女長に行わせます。リゼットには、今宵月が温室の天窓に掛かるまで、再検分の機会を与えます」
「王妃様、その者自身が容疑者です!」
セドリック様が割り込む。
「だからこそ、監察官を付けます」
王妃様は冷ややかに答えた。
「リゼット。そなたが犯人なら、自ら証拠を差し出すことになるでしょう。そなたが犯人でないなら、私の首飾りを見失った責任を果たし、本当の盗人を示しなさい」
「必ず」
私は深く膝を折った。
「必ず、《月の涙》を王妃様のお手へ戻します」
◇
月が昇るまで、あと四時間。
招待客は東の舞踏広間へ移され、温室には私とアルノー様、記録官、二人の近衛だけが残った。セドリック様とフローラは別室で待機させられている。
私は白い手袋を新しいものに替え、展示箱の前に座った。
「手は震えていないのですね」
アルノー様が記録用の紙を広げながら言った。
「震えています。けれど、震えた手で石を扱わない訓練はしておりますから」
「では、心の方は?」
「それは保全官の試験科目ではありません」
思わず答えると、彼はわずかに眉を下げた。
「試験にないことを聞きました。失礼を」
「いいえ。後ほど、少しだけ落ち込む時間をいただければ充分です」
婚約者が私を信じなかったのではない。信じないふりをするため、あらかじめ言葉を準備していた。
その理解は、悲しみよりも鋭い。今はその鋭さを、証拠へ向ける。
「箱を開けます」
私の鍵を差し込み、ゆっくり回した。
錠の裏側には、小さな円盤状の蜜蝋板が組み込まれている。鍵を回すたび、歯の先端が新しい位置へ痕を刻む仕組みだ。鍵穴を壊さず複製鍵で開けた場合でも、履歴が残る。
私は円盤をピンセットで外し、拡大鏡の下へ置いた。
「三つ、あります」
朝、私が施錠した痕。先ほど私が確認のため開けた痕。
そして、その間にもう一つ。
「箱は確かに、あなた以外の鍵で開けられた」
「はい。ここをご覧ください」
私は朝の歯形と、中央の歯形を指した。
「私の鍵の第三歯には、摩耗を補うため銀を一滴盛っています。ですから痕には、先が丸い小さな盛り上がりが残ります。中央の痕は第三歯が鋭い。私の鍵から型を取って作った複製でしょう」
記録官が勢いよくペンを走らせる。
「複製鍵を作れる人物に心当たりは」
「婚約中、セドリック様は我が家の応接室に何度も出入りされました。鍵を机へ置いたことはあります。ただ、それだけでは証明になりません」
「フローラ嬢も同じ家に住んでいる」
「ええ。どちらにも機会はあります」
私は空のビロード台座を外し、裏側まで光へかざした。
鎖を置くための溝に、ごく薄い光沢が見える。水ではない。指先で触れるわけにはいかないので、細い硝子棒で少量を採り、紙片へ移す。
「甘い香りがする」
アルノー様が気づいた。
「薔薇蜜です。ですが、花を飾るための香水ではありません。宝飾展示の台座には糖分を近づけないよう、今朝も全員に申し伝えました。虫と黴の原因になりますから」
「それを聞かなかった者がいた?」
記憶を辿る。
朝の展示準備。私が首飾りを置き、施錠した後、フローラが白薔薇を追加したいと現れた。彼女の後ろにいたセドリック様は、「僕の婚約者の晴れ仕事だ」と笑い、皆へ蜂蜜菓子を差し入れた。
私は手袋を汚せないからと断った。フローラは一つ摘まみ、指を舐めて、すぐ花を直す作業に戻った。
「フローラは薔薇蜜の菓子を触った手で、展示箱の周りを飾っていました。けれど箱の内側へ蜜が入るには、開錠しなければなりません」
「複製鍵で開けた時、手に付いた蜜が台座へ移ったのか」
「それだけなら、ただ不注意で触れた可能性があります。問題は、なぜ首飾りを持ち出した痕に蜜が広がっているのかです」
ビロードを斜めにして見る。首飾りが置かれていたはずの溝は、細かな粒を含む薄い膜で覆われていた。鎖を引き上げただけなら、蜜は点々と付くはずだ。
これは、何かがそこに溶けた跡だ。
「アルノー様。温室の花へ霧吹きを行った時刻を確認してください」
「花係を呼びましょう」
ほどなくして、老庭師が帽子を両手で潰しながら連れてこられた。
「本日、展示箱近くの白薔薇へ水を吹き掛けましたか」
「はい、保全官様。開場一刻前の正午に。箱には掛けるなとのお言いつけでしたので、布で囲いをして、薔薇へだけ細かな霧を」
「その囲いを置いたのは?」
「フローラお嬢様が、御自分で手伝いたいと。ええ、熱心な方で」
セドリック様が口にした「正午前」という時刻が、頭の中で音を立ててはまった。
「首飾りは、正午に盗まれたのではありません」
私は立ち上がった。
「今朝、私が箱を離れてから開場までの間に、本物は複製品と交換されていました。その複製品は薔薇蜜で固めた砂糖硝子。正午、花の霧が囲いの内側で箱へ流れ落ち、偽物だけが溶けて消えたのです」
「箱を空にしてから鍵を掛けたのはあなただ、という告発を成立させるためか」
「はい。私が入れたのは本物です。けれど発見時に空なら、私が最初から入れなかったと言い張れる。そして偽物が溶ける時刻を知る者なら、正午にだけ都合のよいアリバイを用意できます」
アルノー様の表情が険しくなる。
「砂糖硝子を作った証拠が要る。あるいは本物の所在を」
「砂糖硝子なら、王宮厨房に材料の払い出し記録があるでしょう。月晶石を模した青い色を付けるには、菫砂糖か青矢車菊の糖液を使うはずです」
「調べさせます」
「それから、もう一つ。フローラに会わせていただけますか。彼女の手を見たいのです」
◇
フローラは西の控え室で、セドリック様とは別に待たされていた。
私たちが入ると、彼女は椅子から飛び上がった。泣いたのか、目の縁が赤い。
「姉様、私、本当に何も知りません。セドリック様が、姉様のためにも正直に話さなければと言うから」
「フローラ。今朝の薔薇飾りでは、手袋を使いましたね」
「え? ええ、花の棘がありますもの」
「見せてもらえますか」
彼女は戸惑い、両手を背後へ隠した。
「もう外してしまいましたわ。どこに置いたか」
「指でなく、袖口で充分です」
フローラの桃色の袖には、真珠の小粒がいくつも縫いつけられていた。そのレースの一部に、青い染みがある。私は近づき、鼻先を寄せずとも漂う甘い薔薇の匂いを確かめた。
「菫砂糖と薔薇蜜です。青く染めた砂糖硝子を触った時、袖で擦りましたね」
「お菓子を食べただけです! お姉様だって見ていたでしょう」
「青い菓子は配られていませんでした。白い蜂蜜菓子だけです」
フローラの顔から血の気が引いた。
アルノー様が静かに告げる。
「厨房を確認しています。砂糖加工を依頼した方の名も、じきわかるでしょう」
「私は……私は作れと言われただけで」
言いかけて、フローラは両手で口を押さえた。
胸が痛んだ。
少しでも私を陥れたくて笑っていたのなら、憎むことだけに集中できた。けれど今のフローラは、愛されたいという幼い欲のまま、戻れない場所まで歩いてしまった顔をしている。
「誰に?」
私は問いかけた。
フローラは涙を溜めた目で私を睨んだ。
「ずるいわ、姉様。いつも正しくて、伯爵家の本当の娘で、お仕事まで持っていて。セドリック様だって、本当は私を愛してくださるのに、姉様との婚約があるから隠れて会うしかなかった」
「だから私を盗人にしてよいと?」
「首飾りは後で見つかると聞いたの! 姉様は職を辞めさせられるだけ、婚約を私に譲るだけだと。牢へ入れられるなんて聞いていない!」
私が職を失うことなら許容できたのか。
昔、熱を出した彼女の枕元に宝石絵本を置いてやった記憶が、静かに遠のいていく。
「本物はどこです」
「知りません。私は、セドリック様が用意した複製鍵で箱を開けて、偽の首飾りを置いただけ。本物はあの方が御自分で受け取ったわ。売ったりしない、騒ぎが収まったら別の場所で発見させると」
「本当に、まだ売ってはいないのですね」
「午後はずっと一緒にいるはずだったのに、温室が閉鎖されて別々にされました。ですから、あの方がどこへ隠したかは」
私は朝のセドリック様を思い出す。
月華祭に出る男性は、薄手の絹の礼装をまとうのが普通だ。ところが彼は今日、肘から手首まで銀糸の刺繍をびっしり入れた、硬い正装上着を着ていた。私が褒めると、「侯爵家の威信も見せねばね」と袖を引いた。
先ほど空の箱へ身を乗り出した時も、彼は右腕だけを不自然に胸へ抱えていた。
「持っている」
「リゼット嬢?」
「セドリック様は、本物をまだ持っています。温室が封鎖されるとは予想していなかった。騒ぎの中で外へ運ぶつもりだったから、最初から御自分の衣装に隠したのです」
「身体検査を命じるには、フローラ嬢の供述を正式に取れば足りる」
アルノー様が言った。
「いいえ。彼はきっと、義妹が私を陥れるため一人でやった、首飾りを自分へ忍ばせた、と言います。フローラの証言に乗って探したのでは、二人が罪を押し付け合うだけです」
「では、どうするのです」
私は窓の外を見た。
夕焼けが薄れ、温室の硝子屋根の向こうに、白い月が昇りかけている。
「《月の涙》に、出てきてもらいます」
◇
月華祭の夜会は中止されなかった。
王妃様は、首飾りの盗難を知らされた招待客を舞踏広間へ集め、調査結果を公に示すことをお選びになった。王室の宝が失われた以上、曖昧な噂で一人の名誉だけが処刑されることを許さなかったのだ。
玻璃温室には再び灯りがともされていた。
ただし、銀脚の展示箱の左右には近衛が立ち、天窓を覆っていた日除け幕は巻き取られている。夜空には、待ちかねたような丸い月が浮かんでいた。
セドリック様は王妃様の御前へ呼ばれても、堂々としていた。右袖は相変わらず硬く、銀糸の蔓草が灯りを反している。
フローラは別の場所で供述書を書かされている。彼はまだ、それを知らない。
「リゼット・オルブライト」
王妃様の声が、静まった温室に響く。
「再検分の結果を述べなさい」
「はい。まず、《月の涙》は私が施錠した時点では展示箱にございました。その後、私の鍵から型を取った複製鍵で箱が開けられ、本物と偽物が入れ替えられました」
侍女が用意した小箱を私の前へ置く。
私は中から、昼のうちに作らせた青い石の連なりを取り出した。もちろん本物ではない。菫で青く染めた砂糖硝子を、薔薇蜜で糸へ留めた、粗い模造品だ。
「このように、遠目には青い宝石らしく見える複製を、短時間で作ることができます。これを展示箱へ置き、霧水が掛かるよう仕掛けておけば」
空の展示箱へ模造品を置く。近衛が証拠として確保した、昼と同じ霧吹きを庭師から受け取った。
細かな水を二度吹きかける。
青い石は、みるみる輪郭を失った。糸から落ち、ビロードの上で甘い青色の膜になる。招待客の間から、どよめきが上がった。
「発見者には、首飾りが最初から存在しなかったように見えます。展示箱に残っていた膜から、薔薇蜜と菫糖が検出されました。また内部の開錠記録には、私の鍵にはない鋭い第三歯の痕が残っています」
アルノー様が蜜蝋の記録板を王妃様へ捧げる。
「厨房からも証言が取れております。本日早朝、ハーグレイヴ侯爵家の使者が、青い砂糖硝子と薔薇蜜を受け取りました。用途は余興用の菓子細工と届け出ていました」
「馬鹿な」
セドリック様が笑い飛ばした。
「私の家名を使った者がいるのでしょう。第一、その話が事実でも、箱を開けたのが私だという証明にはならない。フローラか、あるいはリゼット本人が私を陥れようと」
「フローラは、複製鍵をあなたから渡されたと証言しました」
「罪を軽くするための嘘です。あの娘は、姉の婚約者に思いを寄せ、勝手に暴走したのではないか。私は気の毒な彼女を慰めていただけです」
その言葉に、私の中で何かが完全に冷めた。
彼は私だけではない。自分を愛して罪まで犯したフローラをも、一息に切り捨てた。
「さすがです、セドリック様」
私が言うと、彼は勝ち誇ったように顎を上げた。
「ようやく理解したか」
「ええ。あなたの愛情がどれほど安価か、よく理解いたしました」
温室のどこかで、押し殺した笑いが漏れた。
セドリック様が赤くなる。
「不敬な。王妃様、首飾りのありかを示せない以上、これはただの作り話です!」
「ですので、最後の確認をいたします」
私は王妃様へ一礼した。
「《月の涙》は、月晶石で作られています。月晶石は太陽や蝋燭では光りませんが、薄い布越しに月光を受けても、石の内部に青白い光を溜めます。だからこそ、王妃様は月華祭で首飾りをお披露目になさる予定でした」
アルノー様が合図すると、侍従たちが温室の灯りを一つずつ消していった。
「何をする。暗闇で逃げるつもりか」
セドリック様が一歩下がる。けれど背後には、すでに近衛がいた。
最後の燭台が消える。
硝子天井から注ぐ月光が、白薔薇と人々の輪郭を淡く浮かび上がらせた。
数秒、何も起きない。
そして、セドリック様の右袖の内側で、青白い光が灯った。
小さな星が連なるように、手首から肘へ。最後に大粒の雫が、袖口の近くでひときわ明るく輝いた。
「あ……」
彼が袖を左手で覆う。だが遅い。全員が見ていた。
「そこです」
私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「王妃様の消えた首飾りは、セドリック様の右袖からお探しください」
近衛二人が彼の腕を取った。
「放せ! これはリゼットが入れたのだ、先ほど近づいた時に」
「私は本日の開場後、あなたへ一歩も近づいておりません。午前中も、最後にあなたへ触れたのはフローラです。もし彼女が入れたと主張なさるなら、あなたが彼女と密会していたことを御自身で認めることになりますが」
「違う! 私は、私は侯爵家を守るために」
銀糸の袖が切り開かれ、内側に縫い付けた細長い袋から《月の涙》が取り出された。
月光の下で解放された首飾りは、まるで息をつくように一斉に輝く。
私は手袋を替え、近衛から受け取った首飾りを検分した。留め金には私が修繕した小さな月桂樹の刻印。石の数、傷の位置、すべて間違いない。
「《月の涙》、二十三石ならびに中央雫石、全て確認いたしました。王妃様の御品に相違ございません」
膝をつき、首飾りを捧げる。
王妃様はそれを受け取らず、私の手の上にあるまま、しばらく青白い光をご覧になった。
「そなたの仕事は、今日も私の宝を守りましたね」
そのお言葉に、初めて涙がこぼれそうになった。
「恐れ入ります。管理下の宝を危険に晒した責任は、いかなる処分も」
「責任は後で聞きます。まずは盗人の責任です」
王妃様が顔を上げる。
「セドリック・ハーグレイヴを拘束なさい。王室宝飾の窃盗、保全官への虚偽告発、証拠偽造の嫌疑で取り調べます。フローラ・オルブライトについても共犯として身柄を預かりますが、自白と証拠提出は裁定に考慮しましょう」
「王妃様! 私は次期侯爵です。あの程度の宝飾一つで、我が家を」
「あの程度?」
王妃様の声音は、怒鳴り声より恐ろしかった。
「この首飾りは、先王が国の復興を誓い、各地の職人が一粒ずつ研磨して私へ託したもの。価値も由来も理解せず、袖に詰めて女一人の人生を買えると思ったのなら、侯爵を継ぐ資格など初めからありません」
セドリック様はなおも叫んでいたが、近衛に両腕を取られ、温室の外へ引き立てられていった。
彼が私に向けた最後の言葉は、謝罪ではなかった。
「お前が素直に妻になっていれば、こんなことにはならなかった!」
七年も結ばれていた婚約の終わりが、それだった。
不思議と、泣きたくはならなかった。
失ったのは未来ではなく、未来のふりをして私の手首に結ばれていた鎖だったのだと、ようやくわかった。
◇
招待客が退出した後、私は温室の作業卓で《月の涙》を一粒ずつ拭っていた。
セドリック様が袖へ縫いつけた袋の内側には、金属糸の擦れがあった。月晶石の表面に傷が増えていないか確認しなければ、返却の任務は終わらない。
「婚約を破棄された当日に、元婚約者が傷つけた首飾りの検分ですか」
アルノー様が、温かい茶の入った杯を卓の端へ置いた。
「王室宝飾は、私の事情を待ってはくれませんので」
「あなたらしい答えですが、今夜くらいは誰かに任せても」
「だからこそ、です」
私は拡大鏡から目を離さずに言った。
「セドリック様は、私の仕事を結婚までの趣味だと思っていました。結婚後も『好きにすればよい』と。あれは許可であって、敬意ではなかったのですね。今夜、私がここで手を止めたら、あの人の見方を自分で認めるようで腹が立ちます」
一瞬の沈黙の後、アルノー様が小さく笑った。
「では、敬意をもって申し上げます。中央雫石の裏をもう一度見た方がいい。袖袋の留め針が当たった可能性があります」
私は顔を上げた。
「……気づかれましたか」
「三か月、あなたの検分に立ち会いました。少しは石の扱いも覚えます」
「では、お茶は検分が終わるまで下げてください。湿気と湯気は石にも絹糸にもよくありません」
「これは失礼。まだ素人でした」
彼は素直に杯を遠ざけた。
笑いがこみ上げる。今日初めて、無理をせずに笑えた。
「アルノー様。私を疑わなかったのですか」
「疑うのが私の職務です。だから、あなたが盗んだ可能性も手順上は検討しました」
優しい嘘を言わないところが、この人らしい。
「ただ、あなたなら《月の涙》を盗む時、石を裸で持ち運ぶような馬鹿な真似はしない。専用箱と防湿布の不足を先に気にするでしょう」
「信頼の理由が犯行の丁寧さなのは、喜んでよいのでしょうか」
「私にとっては、最高級の賛辞です」
彼は真面目に言い、続けた。
「それに、私は以前から知っていました。傷のある石を、価値が落ちたと言って捨てるのではなく、その傷が光の一部になる角度を探せる人だと」
その言葉で、記憶が蘇った。
二年前、アルノー様は亡き母君の形見だという小さな月晶石を、祖母の工房へ持ってきた。端に亀裂が入り、宝石商には研磨で小さく削り直すしかないと言われた石だった。
私は亀裂を消さず、銀の細線で支え、光が亀裂に沿って枝のように広がる胸飾りに仕立てた。
「あの胸飾りを、まだ?」
アルノー様は上着の襟を少し開き、内側に留めた青白い石を見せた。
「監察官の銀章より大事なので、表には出しません。けれど毎日持っています」
胸が、遅れて温かくなった。
恋と呼ぶには早く、慰めとして縋るには大切すぎる温度だった。
「リゼット」
王妃様が侍女長とともに戻ってこられたので、私は急いで立ち上がった。
「検分の途中で失礼いたします。《月の涙》に、新たな欠損はございません。中央石の裏に微細な金属擦れがございますが、表面の研磨を減らさず除去できます」
「そなたに任せます」
王妃様は頷き、少し柔らかな表情になった。
「そして、そなたへの疑いが公の場で向けられた以上、名誉の回復も公に行います。明朝、王家の名で調査結果を布告させましょう。望む補償はありますか。破棄された婚約についても、相応しい縁を」
「ありがたきお心遣いですが、縁談は望みません」
私は自分の左手を見た。婚約指輪は、証拠保全のため取り外し、布包みに入れてある。もう一度はめたいとは思わなかった。
「代わりに、お願いいたしたいことがございます。王室宝飾の保全を、担当者の婚家や後見人の地位に左右されない職務にしてください。私が侯爵夫人になるから信頼されるのではなく、試験と実務に合格した者が守れる仕組みを作りたいのです」
王妃様は驚かず、むしろわずかに口元を上げた。
「盗まれかけた宝の代わりに、制度を要求しますか。よろしい。監察室とともに案をまとめなさい。そなたには、新設する王室宝飾保全工房の主任候補として働いてもらいます」
「全力を尽くします」
「ベルティエ。監察側の担当はそなたがなさい」
「承知いたしました」
アルノー様が恭しく礼をした後、私へだけわかるほど小さく微笑んだ。
今夜失ったはずの道の先に、別の道がまっすぐ延びていく。
それは誰かに許されて歩く道ではなく、私が磨いた石の光で見つけた道だった。
◇
半年後、王宮北棟に王室宝飾保全工房が開設された。
窓は北向き、作業机は六台。湿度を一定に保つ魔石棚と、鍵の記録を二重に残す保管庫も設けた。保全官を目指す若い職人が身分を問わず試験を受け、三人が最初の見習いとして机に向かっている。
私は主任として、割れた真珠の充填方法を教えているところだった。
「主任、お客様です。監察室のベルティエ卿が、私用の依頼だと」
見習いの声が不自然に弾んでいる。
振り返れば、戸口にアルノー様が立っていた。彼はこの半年、制度づくりの担当として毎日のように工房へ来ていたから、今さら見習いたちが騒ぐ理由は一つしかない。
「私用、なのですか」
「はい。本日は監察記録も鍵の検査票も持っていません」
「それは珍しいこと」
「その代わり、検分をお願いしたい石があります」
アルノー様は小さな濃紺の箱を作業机へ置いた。
見習いたちが息を呑む気配がする。私は彼女たちを一瞥した。
「本日の講義は、真珠用充填剤が固まるまで自習です」
三人は元気よく返事をし、隣室へ消えた。扉が完全には閉まっていないことには、気づかないふりをする。
箱を開けると、指輪ではなく、原石に近い月晶石が一つ入っていた。
透明度は高いが、中央に一本、白い亀裂が走っている。月光の下なら、きっと小さな道のように光るだろう。
「これは?」
「母の胸飾りと同じ鉱脈から採れた石です。傷があるため、宝石商には婚約の贈り物には向かないと言われました」
アルノー様は、そこで一度息を吸った。
「ですが私は、傷を隠すより、その光り方を知っている方にお渡ししたい」
工房の空気が急に静かになる。隣室から物音一つしない。見習いたちはさぞ耳を澄ませていることだろう。
「リゼット。あの夜、あなたが婚約を失った直後だから心へ入り込めた、などと思われるのが嫌で、半年待ちました」
彼の率直さに、思わず笑みがこぼれた。
「とても監察官らしい理由ですね」
「職業病は治りません。あなたの仕事を愛しています。仕事に向かうあなたを愛しています。あなたが休む時には隣で茶を用意したい。ただし、宝石から充分離れた場所に置きます」
「学習なさったのですね」
「優秀な主任のおかげで」
彼は箱を私の方へ押した。
「この石をあなたの好きな形に仕立てていただけますか。そして、完成した時にもお気持ちが変わらなければ、私との婚約を考えてください」
私は石を手袋越しに持ち上げ、窓の光へ透かした。
白い亀裂は欠陥ではない。角度を探せば、光を二つに分け、隣り合う道にしてくれる。
半年前、私は空になった展示箱の前で、すべてを失ったように感じた。
けれど本当に消えたのは、私を価値ある道具としてしか見なかった婚約だけだった。《月の涙》も、私の仕事も、これから誰かを愛する心も、きちんとこの手に残っていた。
「一つ、条件があります」
「何でしょう」
「私が徹夜で修復をしている時、止めるだけでなく、期限の交渉も一緒にしてください。主任になっても、夢中になる癖は直りそうにありません」
アルノー様の灰色の目が、月晶石より明るく笑った。
「監察室を総動員してでも」
「それから、この石は婚約指輪にはいたしません」
彼の顔がわずかに曇る。
「お気に召しませんでしたか」
「反対です。とても好きですから、毎日使う工房長の胸飾りにします。指輪には、あなたと二人で新しい石を選びたいのです」
一拍の沈黙の後、アルノー様は深々と頭を下げた。
「それはつまり」
「はい。完成を待つまでもなく、私の答えは決まっています」
私は左手の手袋を外し、彼へ差し出した。
「私と婚約してください、アルノー様。私の仕事を許すのではなく、愛してくださるあなたと歩きたい」
彼は私の手を、壊れやすい宝石へ触れるよりも丁寧に取った。
「喜んで。一生、あなたの最も厳しい検分に耐えられる男でいると誓います」
隣室から、抑えきれなかった歓声と、何かを落とす音がした。
私は笑い、アルノー様も笑った。
作業机の上で、傷を抱いた月晶石が、北窓から差す昼の光を静かに受けている。
今夜、月が昇ったら、二人でその光り方を確かめよう。
誰かの袖に隠されることのない、私たちが自分で選んだ未来の光を。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「宝石を守る職人令嬢が、婚約者の裏切りを自分の技術で暴く話」として書きました。
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