01 プロローグ
第1章
洞窟の奥へと歩を進めるたび、まるで世界そのものが削り取られていくようだった。
音がひとつ、またひとつと遠ざかり、最後に残ったのは、自分たちの呼吸と足音だけ。
風はなく、獣の気配もない。天井の溜まった水が、忘れた頃に落ちる。
その一滴が岩肌に触れるたび、ひどく遠く、他人事の出来事のように響いた。
壁面に埋め込まれた魔晶石が、淡く脈打つように光を放つ。
生き物の鼓動にも似たその明滅は、温もりを伴わない。
その冷たい明かりは、ここが“聖域”であると同時に、“閉ざされた空間”であることを思い出させるだけだった。
砂利を踏む音がやけに大きい。乾いた摩擦音が洞内に反響し、それだけが自分たちの存在を証明しているように思える。
「――静かすぎるな。」
隊列の先頭を行くラルが低く呟いた。
短く刈り揃えた髪は、もはや白に近い。若き日に幾多の戦場を渡り、血と泥の匂いを知り尽くした男。今は、最後の務めとして騎士たちの剣術指南役を務め、若者に技と心得を叩き込む立場にある。
その手には聖別され、使い込まれた盾。その盾だけを見ても主君からの信頼が厚さが伺える。
「儀式用の洞窟だからね。大型の獣でもいたら問題だろ?」
少し後ろを歩くリオンが肩をすくめ、軽く笑う。
次期領主であり、一行の主君だ。松明の炎が揺れ、彼の横顔を照らす。
若さを残す輪郭。だが、その奥にあるのは単なる楽観ではない。自分の一言で空気が緩むことも、逆に張り詰めることも理解している者の余裕だ。
腰に下げた剣は儀式用の飾りではない。刃は研がれ、重心は実戦向きに調整された無骨な一振り。装飾よりも、実を優先する彼の性格を表すように存在感を示す。
――成人の儀。
十八の歳に、霧の聖女の加護を受ける通過儀式。
宗教都市を抱くピシア領において、当主の候補となる者は必ずこの洞を訪れた。
最奥の祭壇で祈りを捧げる。ただそれだけの儀式。
儀式での使用だけなら十数年に一度しか踏まれぬ道。その道は、妙に整いすぎていた。
踏み均された地面、崩落のない天井、乱れのない魔晶石の配置。
「先の様子を見てまいります。」
軽装の女性、イヴが小さく告げると、影のように前へ滑り出た。長い黒髪を後ろで束ね、無駄のない身のこなし。
主の安全を測るためか、それとも己の胸に芽生えた違和感を確かめるためか。
いずれにせよ、その足取りに迷いはない。
彼女は壁へ手を添え、床の傾きを確かめ、空気の流れを読む。
閉ざされた空間にあってなお、彼女の動きは澄んでいた。石と影の配置を記憶しているかのように。
「古い術式のトラップがありますね。目印を付けておきます。」
淡々とした報告。
魔力の残滓は薄く、今にも機能を失いそうな状態。だが、術式は完全な形で残っている。
(整備され直している?)
喉元まで上がった疑念を、イヴは飲み込んだ。
術式理論に通じているわけではない。理屈として掴めない違和感が、胸の奥で小さな棘となる。
「さすがだな。助かる。」
リオンの声は率直である。
主従でありながら、幼少期から共に訓練を重ねてきた信頼がそこにある。
イヴは振り返らず、片手を軽く上げる。素っ気ない素振りは、長年仕えてきた彼女なりの忠誠だった。
それを少し離れて見つめているのは、重装備の大男——ロン。
鈍く光る鎧が炎を受け、分厚い肩当てが長い影を落とす。
彼は言葉少なに周囲を測る。天井の亀裂、舞う粉塵、仲間の呼吸の間。
戦いの匂いはない。だが、それ以外の何かがある。
「リオン様。戻る際は、別の道を試すのも一案かと。」
低く、慎重な進言。
リオンが無言で続きを促すと、ロンはわずかに視線を落とした。
「構造的に、崩落の可能性がございます。安全策を取るのであれば、その方が――」
断言はしない。だが退路に不安を見ていることは明白だった。
今回の護衛の中で、もっとも武に秀でた男。
敵と対峙すればその手に握った大斧で誰よりも前に出る大男が、戦いではなく“道”を警戒している。
リオンは小さく笑う。
「帰り道の心配は、帰るときでいいさ。」
従者たちが心配性なのは、いつものことだ。
主を守ることが役目である以上、危険を過剰に見積もるのは当然だろう。
イヴもロンも、普段より警戒を口にする。
それはこの薄暗い空気が、彼らの中に焦燥を芽生えさせているからか。それとも、自分だけが何かを見落としているのか。
胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
リオンはゆっくりと後ろを振り返る。
隊列の最後尾。成人の儀に祝福を与える役割を負った神官、ルーシーの姿を探した。
白い法衣は洞窟の闇に溶け込まず、かえって浮いて見えた。
この洞窟にあって、彼女だけが地上の匂いをまとっていた。
「――リオン様。」
目が合ったのだろう、控えめな声が届く。
「どうした?」
「いえ――今回ですが、私たちの他に、芽理の宮からの調査隊も入っております。」
彼女は胸元の聖印に指を添え、わずかに眉を寄せた。
祈りを捧げるときの癖だが、今はどこか落ち着かない仕草にも見える。
――芽理の宮。
ピシア領とは異なる領に本拠を置く知の権威機関。
古代遺物や術式を研究し、時に聖女の奇跡すら理として解き明かそうとする者たち。
「儀式と同日になるのは、珍しいか?」
リオンは問う。
「はい。本来であれば、儀式や清掃が優先されます。調査が重なることは――ほとんどありません。」
声は穏やかだ。だが、その奥にわずかな緊張がある。この洞窟は聖域であり、同時に遺構でもある。
信仰と知が、同じ場所を求めるとき——そこに摩擦は生まれないのか。
洞窟の奥から、微かな風が流れた気がした。
冷たく、乾いた気配。リオンは一瞬だけ天井を見る。
——ただの偶然だ。
そう思おうとする。
成人の儀は祈るだけの儀式。危険などない。歴史がそれを証明している。
だが歴史とは、語られたものだけでできているわけではない。
語られなかった出来事が、存在しなかったとは限らない。
疑念を胸に抱えながら、一行はさらに奥へと歩を進める。
魔晶石の鼓動が、わずかに早まったように感じられたのは——誰の錯覚だったのか。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
01 ピシア領
ルテイア連合国を構成する五つの領のひとつ。五領の中でも特に宗教色が強い地域として知られている。領都は他領に劣らぬ発展を遂げているが、地方へ行くほど牧歌的な風景が広がり、小さな集落や農村が点在する穏やかな土地である。
この地で信仰されているのは、連合国全体の国教でもあるピシア教。水を崇め、水を慈しむことを教えの中心とする宗教である。島国であるルテイア連合国では、貯水技術が確立される以前、水は非常に貴重な資源であった。人々は限られた水を分け合いながら生活しており、その歴史が信仰の基盤となっている。
教義では、水の性質そのものが人生の象徴として語られる。水は高いところから低いところへと流れる。この性質は、世界の流れに身を委ねる運命のあり方を示している。同時に、人は水路を築き、水の流れを整えることができる。水を導く知恵と努力によって流れを変えられるように、人もまた自らの運命を切り開くことができる――それがピシア教の示す教えである。




