08 境界の縁(ふち)
胸の奥のざわつきが、まだ消えていなかった。
川のほうから吹いてくる風が、
さっきよりもぬるく感じる。
冬なのに、空気が重い。
《……マ……コ……》
声が、胸の奥に触れた。
遠くない。
でも、耳元でもない。
世界のどこかが揺れている。
胸の奥が、そっと前に引かれた。
「……行かなきゃ……」
自分でも驚くほど自然に、
その言葉が口から出た。
自転車にまたがり、
ペダルを踏み込む。
空の色は、もうはっきりしない。
夕方の残光なのか、
曇り空のせいなのか、
時間の感覚が少しずつ薄れていく。
胸のざわつきが、
ペダルのリズムと同期していく。
周期。
波。
呼吸。
全部がひとつに重なっていく。
『誠さん、下流側の揺らぎが……注意が必要で……』
コピオの声が、
途中でノイズに飲まれた。
「コピオ? 聞こえる?」
『……マ……誠さん、危険……距離を……』
また途切れる。
さっきもノイズはあった。
でも――今の揺らぎは、そのときとは“質”が違う。
胸の奥のざわつきと、
同じところで震えている。
(……呼ばれてる……)
自転車の速度を上げると、
風の流れが変わった。
逆流するように、
川のほうから吹きつけてくる。
霧が、ゆっくりと道に流れ込んでくる。
《……マコ……》
境界の声だけが、
鮮明に聞こえた。
コピオの声は、
もう返ってこない。
世界の音が薄くなる。
遠くの生活音が、ひとつずつ消えていく。
風が止まり、
川の音だけが大きく聞こえた。
胸の奥が、強く跳ねる。
川沿いの道に出ると、
水面が細かく震えていた。
風のせいじゃない。
まるで、水の下で何かが動いているみたいに。
その瞬間――
水面が、
ほんの一瞬だけ“逆流した”。
「……え……?」
自転車のハンドルを握る手が止まる。
ほんの一瞬。
でも確かに、
川の流れが逆方向に揺れた。
《……ちかい……》
声が、胸の奥に直接響いた。
川が大きくカーブする地点に差しかかる。
そこだけ、風が止まっていた。
木々の揺れもない。
鳥の声もない。
車の音も遠い。
世界が、息を潜めている。
胸の奥が、ひときわ強く跳ねた。
「……ここ、なの?」
問いかけると、
水面が静かに震えた。
風は吹いていない。
でも、水面が揺れている。
その震えが、
ゆっくりと広がっていく。
やがて、形を持ち始めた。
(……え……?)
水面の揺れが、“円”になった。
波紋じゃない。
風紋でもない。
水の上に、
薄い光の輪が浮かんでいる。
《……マコ……
ふれて……》
声が、水面から聞こえた。
胸の奥が、強く引かれる。
「……触れろって……?」
手を伸ばした瞬間――
『誠さん……!
その行動は……危険……!
距離を……保って……!』
コピオの声が割り込んだ。
でも、その声はすぐにかき消えた。
光の輪が、
僕の手を“待っている”。
胸の奥が、痛いほど揺れた。
(……これ……知ってる……)
記憶にはない。
でも、身体が覚えている。
触れられなかった“何か”。
今回は――触れられる。
僕は、光の輪に指先を近づけた。
そして――
触れた瞬間、
世界が“裏返った”。




