10 名前の響き
胸の奥の熱は、まだ消えていなかった。
おかげで昨日は、帰りが少し遅くなった。
玄関を開けた瞬間、母さんが振り返った。
「誠、どこ行ってたの。暗くなる前に帰ってきなさいって言ったでしょ」
「……ごめん」
言葉では謝ったけれど、
胸の奥はまだ温かくて、
叱られている感じがしなかった。
母さんはエプロンの紐を結び直しながら続けた。
「今日ね、職場の人に言われたのよ。
“また川に来てた子、息子さんじゃない?”って」
「……見られてたんだ」
「そりゃそうよ。工事の人がよく通るんだから。
誠、顔覚えられてるのよ」
母さんは少しだけ眉を寄せた。
「下流のカーブのところ、最近流れが不安定なんだって。
水位が急に変わったり、渦ができたりするらしいの」
(……揺らぎ……)
胸の奥が、
ほんの少しだけ反応した。
「誠、あんまり近づかないでね。危ないから」
「……うん」
返事はしたけれど、
胸の奥の温かさがそれをすべて包み込んでしまった。
心配されていることも、
危ないと言われたことも、
どこか遠くに感じた。
* * *
冬の朝の寒さが頬を刺すのに、
胸の中だけは、じんわりと温かい。
でも――
外の空気は、どこか落ち着かないようだ。
風の向きが急に変わったり、
雲が低く流れたり、
遠くの川の音が、いつもより重く響いていた。
昨日の“揺らぎ”が、
まだ世界のどこかに残っているみたいだった。
あの光。
あの揺らぎ。
あの声。
全部が、まだ身体のどこかに残っている。
《……マ……コ……》
突然、胸の奥が震えた。
昨日までの“遠い声”じゃない。
もっと近い。
もっとはっきりしている。
(……また……)
制服の襟を整えていた手が止まる。
部屋の空気が、少しだけ薄くなった。
外の風が、窓を揺らす。
世界が、
また“息を潜める”。
《……マ……コ……》
声が、
胸の奥に触れた。
その次の瞬間――
《……ナ……ノ……ン……》
かすれた音が、
水の底から浮かび上がるように響いた。
「……ナノン……?」
自分でも驚くほど自然に、
その言葉が口から出た。
胸の奥が、
強く跳ねた。
《……ナノン……》
声が、
嬉しそうに揺れた。
震えるように、
弾むように。
(……名前……?
いや……違う……
でも……そう聞こえた……)
意味なんて分からない。
でも、
“そう呼ぶべきだ”と身体が言っている。
胸の奥の熱が、
その名前に反応する。
「……君の名前……なの?」
《……ナノン……》
返事のように、
水の揺らぎのように、
声が重なった。
その瞬間――
胸の奥の熱が、すっと静まった。
昨日から続いていたざわつきが、
波が引くみたいに落ち着いていく。
同時に、
外の風が弱まり、
雲の流れがゆっくりになった。
窓の外の光が、
少しだけ明るくなる。
異常が、収束していく。
まるで、
“名前を呼んだことで繋がった”みたいに。
机の上に置いたコピオが、
小さく光った。
『誠さん。
通信が安定しました』
「……コピオ……?」
『湿度が通常値に戻りました。
昨日までの微妙な変動が消えています』
「……え?」
『気温も安定しています。
水位も、今朝は平常値です』
コピオはナノンの存在なんて知らない。
でも、誠の胸の奥の安定に呼応するように、
環境の数値が“正常”に戻っていることを淡々と告げてくる。
『誠さん、今朝は呼吸がとても整っています。
昨日よりも安定しています』
「……そうなんだ」
胸の奥の温かさが、
そのまま身体の中心に広がっていく。
(……ナノン……)
名前を思い浮かべるだけで、
胸の奥が静かに震えた。
《……ナノン……》
声が、
嬉しそうに返ってきた。
その響きは、
昨日の光の中よりもずっと近かった。
胸の奥の熱が、
ゆっくりと落ち着いていく。
* * *
玄関で靴を履く。
外に出ると、
冬の空気が頬を刺した。
でも胸の奥だけは、
まだ温かかった。
日常の音が戻ってくる。
風の音。
車の音。
遠くの踏切。
全部、いつも通り。
でも――
(……ナノン……)
名前を思い浮かべると、
胸の奥が、そっと震えた。
その震えは、
昨日までのざわつきとは違う。
落ち着いていて、
優しくて、
どこか安心する。
日常の中に、
ゆっくりと“揺らぎ”が溶けていく。
* * *
そんな日が――
七日ほど続いた。
胸の奥の温かさは消えず、
ナノンの声も、いつも嬉しそうで。
気候も安定していて、
風も、空気も、川の音も穏やかだった。




