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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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第9話 記憶の帰還、そして真実

目が覚めると、見慣れた天井があった。

公爵邸の、北棟にある主寝室だ。


「……っ」


私は跳ね起きた。

そうだ。

昨夜、安宿でアレクシス様が倒れて……。


「気がつかれましたか、奥様」


部屋の隅から声がした。

副官のジェローム様だ。

彼は椅子に座り、読みかけの本を閉じた。


「ジェローム様……。あの、アレクシス様は?」

「まだ眠っておられますよ。魔力欠乏と、急激な記憶の流入によるショック状態ですね。命に別状はありません」


彼はベッドの反対側を顎で示した。


広いキングサイズのベッド。

その真ん中で、アレクシス様が静かな寝息を立てていた。

顔色は昨日より良くなっているけれど、まだ深く眠っている。


「私が……連れて帰っていただいたのですか?」

「ええ。団長の魔力が暴走していましたからね。場所の特定は簡単でした」


ジェローム様は眼鏡の位置を直し、淡々と言った。


「安宿のドアを吹き飛ばした時点で、公爵家の権力を使って揉み消す必要がありましたが。……まあ、それは私の仕事です」

「すみません……」

「謝る必要はありません。おかげで団長を見つけられたのですから」


彼は立ち上がり、部屋の出口へと向かった。

手で「あとは若いお二人で」というジェスチャーをする。


「そろそろお目覚めになる頃かと。私は外で見張っていますので、ごゆっくり」


バタン、と扉が閉まる。

広い部屋に、私と眠り続ける夫だけが残された。


静寂が痛い。

私はベッドの脇に正座し、祈るような気持ちで彼の顔を見つめた。


(記憶は、戻ったのよね)


倒れる直前、彼は「思い出した」と言った。

それはつまり、私を溺愛していた甘い彼が消えて、冷静沈着な「氷の魔導師」が帰ってくることを意味している。


手紙を読んで、彼が私を愛していたことはわかった。

けれど、それは「何も言えずに遠くから見つめる愛」だ。

昨日までの、触れて、囁いて、抱きしめてくれる愛とは違う。


それに、私は彼を騙した。

記憶が戻った彼は、理性的だ。

私のついた嘘を、公爵への侮辱として厳しく断罪するかもしれない。


「……ん……」


シーツが衣擦れの音を立てた。

アレクシス様の長い睫毛が震える。


心臓が喉から飛び出しそうだ。

私は膝の上で拳を握りしめ、身を固くした。


ゆっくりと、その瞳が開かれる。


アイスブルーの瞳。

昨日までは、どこか幼く、熱っぽく私を求めていた瞳。


けれど今、そこに宿っていたのは。


「…………」


冷たく、澄み渡った、研ぎ澄まされた光だった。

氷の海のような、静謐な輝き。

私が三年間見続けてきた、あの「鉄仮面」の公爵様の目だ。


ああ、戻ってしまった。


私は絶望と、少しの安堵がないまぜになった息を吐いた。


彼はゆっくりと体を起こし、額に手を当てた。

そして、私を見た。

その視線に、昨日までの甘えなど微塵もない。


「……リリアナ」


呼ばれた名前の響きさえ、低く、落ち着いていた。


「……はい、旦那様」


私は反射的に、「アレクシス様」ではなく「旦那様」と呼んでいた。

背筋を伸ばし、頭を下げる。

これが、正しい距離だ。


「お加減は、いかがですか」

「頭が重いが、問題はない」


彼は短く答えた。

そして、長い沈黙が落ちた。


何を言われるのだろう。

怒鳴られるだろうか。

それとも、静かに「出て行け」と言われるだろうか。


私は耐えきれず、震える声で切り出した。


「申し訳、ありませんでした」


床に額を擦り付ける勢いで、私は謝罪した。


「私は……あなたを騙していました。記憶がないあなたにつけ込んで、離婚協議中だなんて嘘をついて……あなたの純粋な気持ちを利用しました」


言葉にするたび、胸が張り裂けそうだ。


「手紙を……見つけてしまったんです。あなたが私を想ってくださっていたことを知って、自分の浅ましさが許せなくなって……逃げ出しました」


言い訳はしない。

ただ事実だけを並べて、断罪を待つ。


「どんな処分も受け入れます。離縁も、慰謝料も……」


「……顔を上げろ」


静かな命令だった。

私は恐る恐る顔を上げた。


アレクシス様は、無表情で私を見下ろしていた。

その目からは、感情が読み取れない。

怒っているのか、呆れているのか。


「リリアナ」

「は、はい」

「俺は、全て思い出した」


彼は淡々と告げた。

喉が鳴る。


「演習中の事故。病院での目覚め。……そして、君がついた嘘も」


「……はい」


「その後の日々もだ。君を強引に抱き寄せたこと。同じベッドで眠ったこと。泥だらけの花束を渡したこと。……君が俺の背中を見て泣いていたことも」


彼の口から語られると、それはまるで他人の出来事のように聞こえた。

恥ずかしさで顔から火が出そうだ。

彼は、あの理性のない日々の自分を、どう思っているのだろう。

恥ずべき失態だと、消し去りたいと思っているのだろうか。


彼は一つ、大きなため息をついた。


「……全く」


冷ややかな声。

やはり、軽蔑された。

そう思って目を伏せた瞬間。


「……よくやった、俺」


「え?」


耳を疑う言葉が聞こえた。

顔を上げると、アレクシス様が口元を片手で覆い、肩を震わせていた。


「あ、あの……?」


「褒めてやりたい。記憶を失った俺を」


彼は覆った手の隙間から、私を見た。

その瞳は、少しだけ照れくさそうに揺れていた。


「過去の俺は、臆病者だった。君を前にすると言葉が出ず、嫌われるのが怖くて近づくこともできなかった。……手紙に書いた通りだ」


彼は自嘲気味に笑った。


「だが、記憶を失った俺はどうだ? 躊躇いもなく君に触れ、愛を囁き、欲しいものを手に入れるために手段を選ばなかった」


彼はベッドから降り、私の前に膝をついた。

視線の高さが同じになる。

かつてない近さで、あの整った顔が迫る。


「リリアナ。あの時の俺は、別の人間ではない」

「……え?」

「あれは、俺だ。理性の枷が外れ、世間体もプライドも恐怖も忘れた、剥き出しの俺の本能だ」


彼は私の手を取り、両手で包み込んだ。

その手は温かかった。

昨日までと同じ、熱い体温。


「君が嘘をついてくれたおかげで、俺は君に踏み込めた」

「で、でも……私は騙そうと……」

「結果的に、君は俺の望みを叶えてくれた」


彼の瞳から、冷徹な光が消え、熱っぽい色が滲み出る。


「離婚協議中だと言われなければ、俺は遠慮して手を出せなかっただろう。君が逃げようとしたから、俺はなりふり構わず追いかけることができた」


彼は私の手を引き寄せ、掌に頬を寄せた。

昨日までの甘えん坊な彼と、今の理性的な彼が、重なって見える。


「記憶が戻った今、過去の自分が情けなくて仕方がない。……あんなに簡単なことだったんだ。ただ、君の手を取って、好きだと言うだけでよかったのに」


「簡単じゃ、ありません」


私は首を横に振った。

涙が溢れてくる。


「私も……臆病でした。あなたに嫌われていると思い込んで、傷つくのが怖くて、壁を作っていました。……お互い様です」


「そうだな」


彼はふっと笑った。

それは、とても穏やかで、優しい笑顔だった。


「だが、もう終わりだ。すれ違いも、片思いも、嘘も」


彼は真剣な眼差しで、私を射抜いた。


「リリアナ。記憶を取り戻した俺として、改めて言わせてくれ」


ごくり、と唾を飲み込む。


「俺は、君を愛している。昨日までの俺が言った言葉に、一つも嘘はない。……むしろ、言葉では足りないくらいだ」

「アレクシス様……」

「離婚などさせない。逃がしもしない。これからは、俺の持つ全ての理性と、本能の両方で君を愛する」


彼は私の腰に手を回し、ぐいっと引き寄せた。

抵抗する隙もない。

唇が重なる。


昨日までの、貪るようなキスとは違う。

触れるだけの、誓約のような、優しい口づけ。


「……っ」


離れた瞬間、私は顔を真っ赤にしてうつむいた。

記憶が戻った彼に、こんなことをされるなんて。

免疫がない。

心臓が持たない。


「顔が赤いぞ」

「だ、誰のせいですか……!」

「俺のせいだな。光栄だ」


彼は楽しそうに目を細めた。

その表情を見て、私はようやく確信した。


彼の中に、昨日までの彼もちゃんと生きている。

そして、昔の不器用な彼も。

全部ひっくるめて、これが私の夫なのだ。


「……反則です」

「なんとでも言え。これまでの三年分、取り戻させてもらう」


彼は私の額にコツンと自分の額を当てた。


「まずは、あの泥だらけの花束を花瓶に生け直すところから始めようか」

「……ふふっ、そうですね」


私が笑うと、彼もつられて笑った。

その笑顔は、もう冷たい氷の仮面では隠しきれないほど、温かかった。


窓の外では、新しい朝の光が降り注いでいた。

私たちの本当の結婚生活が、今ここから始まるのだ。

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