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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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第8話 罪悪感の限界と別れの決意

安宿のベッドは、硬くて冷たかった。

湿気た藁の匂いがする。

天井のシミを数えるのも、もう飽きてしまった。


「……寒い」


私は薄い毛布を引き上げ、膝を抱えた。

公爵邸の、あのふかふかで温かいベッドが恋しいわけじゃない。

恋しいのは、その隣にあった体温だ。


屋敷を出てから数時間が経つ。

私は実家には戻らず、下町の路地裏にある安宿に部屋を取った。

ここなら、公爵家の捜索も及ばないだろう。

貴族令嬢が一人で泊まるような場所ではないけれど、背に腹は代えられない。


(今頃、彼は帰ってきただろうか)


手紙を見ただろうか。

指輪を見つけただろうか。


想像するだけで、心臓が雑巾のように絞られる。

彼は怒るだろうか。

それとも、「やはりそんな女だったか」と呆れて、冷たく記憶から消去するだろうか。


『リリアナ』


耳の奥で、甘く名を呼ぶ声が再生される。

記憶を失った彼が向けてくれた、真っ直ぐな愛情。

そして、記憶を失う前の彼が、手紙に綴っていた切実な想い。


どちらの彼も、私を愛してくれていた。

それなのに私は、どちらの彼も裏切った。


「……ううっ」


涙が止まらない。

泣く資格なんてないのに。

自分で選んで、自分で逃げ出したのに。


枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。

独りぼっちの部屋に、自分の嗚咽だけが響くのが惨めだった。


その時だった。


ガチャン。


ドアノブが回る音がした。

心臓が跳ね上がる。

鍵はかけたはずだ。

しかも、二重にロックをして、椅子まで立てかけてある。


「……誰?」


泥棒だろうか。

それとも、酔っ払いだろうか。

私は飛び起きて、ベッドの隅へと後ずさった。


ガガガッ。

扉が荒々しく揺すられる。

椅子の足が床を擦る嫌な音が響く。


「開かない……くそっ」


聞き覚えのある声。

低くて、焦燥に満ちた、愛しい声。


「……アレクシス様?」


嘘でしょう?

どうしてここがわかったの?


次の瞬間。

バヂヂッ! という破裂音と共に、ドアの鍵穴周辺が青白く発光した。

魔法だ。

物理的な障害を無視して、魔力で強制的に解錠しようとしている。


ドォン!


扉が弾け飛ぶように開いた。

立てかけていた椅子が吹き飛び、壁に激突して砕ける。

砂埃が舞う中、長身の影がゆらりと現れた。


「ひっ……」


私は恐怖で息を呑んだ。

逆光で表情は見えない。

けれど、その体から放たれる魔力の圧が、尋常ではなかった。

ビリビリと肌が粟立つ。

怒っている。

絶対に、怒っている。


「……見つけた」


影が一歩、部屋に入ってきた。

床板が軋む。


「リリアナ」


私の名前を呼ぶ声が震えていた。


月明かりが、彼の姿を照らし出す。

私は息を忘れた。


彼は、ボロボロだった。

いつも完璧に整えられている銀髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。

上着のボタンは掛け違えられ、泥跳ねのような汚れさえついていた。

そして何より、その瞳。

充血し、血走ったアイスブルーの瞳が、狂気じみた光を宿して私を射抜いていた。


「あ、アレクシス様……どうして……」

「探した。……探したぞ」


彼は虚ろな目で呟きながら、ふらふらと近づいてくる。

まるで亡霊のようだ。


「来ないで!」


私は叫んだ。


「来ないでください! 私は……私はあなたを騙していたんです!」


彼の足が止まる。

私は震える唇で、言葉を吐き出し続けた。

断罪される前に、自分から言ってしまいたかった。


「手紙を読みましたか? あの通りです! 私は嘘つきです! あなたの記憶喪失につけ込んで、離婚しようとしました。あなたの気持ちを知りながら、それを利用したんです!」


最低だ。

自分で言っていて、吐き気がする。


「だから……もう関わらないでください。軽蔑してください。捨ててください!」


そこまで言えば、彼も目が覚めるはずだ。

こんな女、愛する価値もないと。


アレクシスは、ゆっくりと顔を上げた。

その表情を見て、私は言葉を失った。


彼は、泣きそうな顔をしていた。

怒りも、軽蔑もなかった。

ただひたすらに、迷子のような、絶望に染まった顔。


「……嫌だ」


彼はポツリと言った。


「え?」

「君を捨てるなんて、嫌だ」


彼はよろめきながら距離を詰めた。

私が逃げる間もなく、その腕が伸びてくる。

強い力で引き寄せられ、私は彼の胸の中に閉じ込められた。


「あ、アレクシス様!?」

「嘘でもいい」


彼は私の髪に顔を埋め、子供のようにしがみついてきた。


「騙されていてもいい。利用されていても構わない。……君がいなくなるよりは、ずっといい」

「な……何を言っているんですか」

「俺には君しかいないんだ。記憶があろうがなかろうが、俺の世界には君が必要なんだ!」


彼の叫びが、狭い部屋に響いた。

体温が高い。

心臓の音が、私の体に伝わるほど激しく打っている。


「手紙などどうでもいい。離婚などさせない。……俺のそばにいてくれ、リリアナ。頼むから」


肩口が濡れていくのを感じた。

彼が泣いている。

あの「氷の魔導師」が、人目もはばからず、私なんかのために涙を流している。


「どうして……」


私の目からも、涙が溢れた。


「どうしてそこまで……私は、ひどい女なのに」

「愛しているからだ」


彼は顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめた。

そこには一点の曇りもない、真実の光があった。


「俺は不器用で、言葉足らずで、君を不安にさせてばかりだ。過去の俺も、今の俺も、君を傷つけてばかりいる。……それでも、君を愛していることだけは、真実なんだ」


彼の指が、私の涙を拭う。

その手は泥で汚れ、小さな傷がたくさんついていた。

私を探すために、なりふり構わず走り回った証拠だ。


(ああ、駄目だ)


私の心の防壁が、音を立てて崩れ去っていく。


嘘つきな私。

不器用な彼。

すれ違ってばかりの私たちだけれど。

この温もりだけは、嘘じゃない。


「……アレクシス様」


私は彼の背中に腕を回した。

泥だらけのコートを、強く握りしめる。


「ごめんなさい……私も、あなたが好きです。離れたくない」


本音だった。

飾りでも、嘘つきでもいい。

この人の隣にいたい。


「リリアナ……」


彼は安堵したように息を吐き、さらに強く私を抱きしめようとした。

その時だった。


ドクン。


彼の体が、大きく跳ねた。


「……っ、ぐあ……!」


「アレクシス様?」


彼の腕から力が抜ける。

その重みが、ずしりと私にのしかかってきた。


「頭が……割れそうだ……」


彼は呻き声を上げ、膝から崩れ落ちた。

私を巻き込んで、床に倒れ込む。


「アレクシス様! しっかりしてください!」


私は慌てて彼の上半身を抱え起こした。

彼の顔色は土気色で、脂汗がびっしりと浮かんでいる。

呼吸が荒い。

そして、その瞳が焦点定まらずに彷徨っていた。


「思い出……した……」


彼は苦しげに喘ぎながら、私の頬に手を伸ばした。


「全部……思い出した……」

「えっ……」


記憶が、戻った?

なら、今の彼はどっちなの?

甘い彼? それとも、手紙を書いた彼?


「リリアナ……すまなかっ……た……」


その言葉を最後に、彼の手が力なく床に落ちた。

瞳が閉じられる。


「アレクシス様! アレクシス様!」


揺すっても、呼んでも、反応がない。

ただ、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

気絶しているようだ。


「どうしよう……」


私は途方に暮れた。

狭い安宿の一室。

壊れたドア。

そして、意識を失った国一番の魔導師。


最悪の状況だ。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

彼の重みが、私の腕の中にある。

それだけで、心はどこか落ち着いていた。


私は彼のおでこにある汗を拭い、そっとキスを落とした。


「……待っています」


記憶が戻ったあなたが、どんな顔で目覚めるとしても。

今度はもう、逃げない。

ちゃんと向き合って、私の口から「愛しています」と伝えるまで。


外からは、夜明けを告げる鐘の音が遠く聞こえていた。

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