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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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第7話 過去からの手紙

「では、行ってくる。……なるべく早く戻る」


アレクシスは名残惜しそうに私の手を握りしめてから、ようやく馬車へと乗り込んだ。

王宮からの緊急招集だ。

魔導師団長として、どうしても外せない会議らしい。


「いってらっしゃいませ」


馬車が見えなくなるまで見送り、私は大きな息を吐いた。


ふう、と肩の力が抜ける。

彼がいない時間は久しぶりだ。

ここ数日、ずっと彼にくっついていたせいで感覚が麻痺していたけれど、ようやく「個」に戻れた気がする。


「さて……」


私は執務室へ向かった。

彼がいない間に、溜まっている書類の整理と掃除をしておこうと思ったのだ。

今の私は「公爵夫人の仕事」よりも、彼の秘書のような役割の方が板についてしまっている。


執務室は、相変わらず少し雑然としていた。

彼が魔力を暴走させるたびに紙が舞ったり、本が落ちたりするからだ。


私は慣れた手つきで散らばったペンを拾い、書類を分類していく。

窓を開けて空気を入れ替える。

冷たい風が頬を撫でて、少しだけ頭が冷えた。


(いつまで、こうしていられるだろう)


ふと、そんな不安がよぎる。

彼の記憶は戻りかけている。

その時が来れば、この甘くて、どこか危うい生活は終わる。

私は嘘つきの汚名を着て、この屋敷を去ることになるだろう。


「……考えないようにしよう」


首を振って雑念を払い、机の引き出しを拭こうとした時だった。


ガタッ。


布が引っかかり、一番下の引き出しが少し開いた。


「あれ?」


ここは、いつも鍵がかかっている場所だ。

アレクシスが「重要機密が入っているから触るな」と言っていた引き出し。


けれど、鍵穴を見ると金具が歪んでいた。

先日の魔力暴走の際、机ごとガタガタと揺れた衝撃で壊れてしまったのかもしれない。

あるいは、無意識の魔力が鍵を破壊したのか。


(閉めなきゃ)


そう思ったけれど、指先が止まった。

隙間から、白い紙の束が見えてしまったからだ。


機密書類だろうか。

それとも、何か見てはいけないものだろうか。


魔が差した。

ほんの少しの好奇心。

そして、彼を知りたいという欲求。


私は息を潜め、ゆっくりと引き出しを引き出した。


中に入っていたのは、書類ではなかった。

手紙だ。

封もされていない、書きかけや書き損じのような紙の山。


一番上の一枚を手に取る。

見覚えのある、几帳面で硬い筆跡。

記憶を失う前の、アレクシスの字だ。


『リリアナへ』


心臓が跳ねた。

私宛て?


震える手で、その文面を目で追う。


『今日も君に声をかけられなかった。朝、食堂で「おはよう」と言われた時、君のドレスが新しいものだと気づいた。淡い青色がよく似合っていた。美しいと言いたかったのに、俺の口から出たのは「茶がぬるい」という文句だけだった。死にたい』


「……え?」


私は目を疑った。

日付は、一年前のものだ。

確かにあの頃、私は勇気を出して新しいドレスを着たけれど、彼に冷たくあしらわれて落ち込んだ記憶がある。


(茶がぬるいなんて、そんな理由で……?)


私は次の紙を手に取った。


『結婚記念日だ。花を買った。だが、執務室に置いたまま帰れない。これを渡して、もし君に「今さら何ですか」という顔をされたらと思うと、足がすくむ。俺は国一番の魔導師だが、君の前ではただの臆病者だ。結局、今日も帰れなかった。俺は最低だ』


『リリアナが庭で転んだと聞いた。すぐに飛んで行きたかったが、ジェロームに止められた。「今行っても、奥様は団長の顔を見たら緊張して余計に具合が悪くなりますよ」と。その通りだ。俺は君を威圧することしかできない。心配しているのに、どうして怒ったような顔になってしまうんだろう』


『愛している。愛している、リリアナ。手紙なら書けるのに、目の前に立つと喉が張り付いて声が出ない。いつか君に、この気持ちを伝えられる日が来るのだろうか』


次から次へと。

溢れ出してくるのは、不器用すぎる愛の独白だった。


紙の束は何十枚、何百枚とあった。

その全てが、私への想いと、それを伝えられない自分への呪詛で埋め尽くされている。


「うそ……」


涙が、ぽとりと紙の上に落ちた。

文字が滲む。


私は知らなかった。

彼が冷たい鉄仮面の下で、こんなにも葛藤していたなんて。

私を無視していたのではなく、緊張して固まっていただけだなんて。


(私、愛されていたんだ……)


ずっと。

最初から。


「飾り」なんかじゃなかった。

彼は私を見ていた。

誰よりも真剣に、必死に。


喜びよりも先に、巨大な絶望が押し寄せてきた。


私はなんてことをしてしまったのだろう。


彼は私を愛してくれていたのに。

私は勝手に「嫌われている」と決めつけ、心を閉ざした。

そしてあろうことか、記憶を失った彼に「不仲だった」「離婚協議中だ」なんて嘘をついた。


今の彼が私に向けてくれる情熱は、記憶喪失のせいじゃない。

リミッターが外れて、彼がずっと隠していた本音が溢れ出しているだけなのだ。


それなのに、私は。

彼を騙して、離婚の口実にしようとした。

彼の純粋な愛を利用して、自分の保身を図った。


「……っ、うう……」


嗚咽が漏れた。

手紙を持つ手が震えて止まらない。


自分が浅ましくて、汚くて、許せなかった。


もし、彼の記憶が戻ったら?

彼は思い出すだろう。

自分がどれほど私を愛していたかを。

そして、私がその愛を踏みにじり、嘘をついて彼を操ろうとしたことを。


『俺が記憶を失っていようがいまいが、俺が選んだ妻はリリアナだ』


先日の、彼の言葉が蘇る。

あの言葉は真実だった。

でも、私はその真実を受け取る資格がない。


(いられない)


これ以上、彼のそばにはいられない。

顔を見ることさえできない。


私は手紙を元の場所に戻し、震える手で引き出しを閉めた。

壊れた鍵は、もう二度と元には戻らない。

私と彼の関係のように。


私は執務室を飛び出し、自分の部屋へと走った。

クローゼットからカバンを取り出し、最低限の着替えと小銭だけを詰め込む。

公爵家から与えられた宝石も、ドレスも、何もいらない。

持って行く資格なんてない。


机の上に、ペンと紙を用意した。

震える手で、最後の手紙を書く。

彼が何百枚も書いて、結局渡せなかった手紙の代わりに。

私は、たった一枚の残酷な別れの手紙を残す。


『アレクシス様へ

 ごめんなさい。

 私は嘘をついていました。

 私たちは離婚協議中ではありませんでした。

 あなたが私を愛してくれていなかったのではなく、私があなたを信じていなかっただけです。

 あなたを騙した罪は、消えません。

 記憶が戻ったあなたに軽蔑されるのが怖くて、逃げます。

 どうか、探さないでください。

 さようなら』


インクが乾くのを待たずに、私は紙を置いた。

結婚指輪を外し、その上に乗せる。


さようなら、アレクシス。

不器用で、愛すべき私の旦那様。

短い間だったけれど、あなたの妻でいられた夢のような日々を、私は一生忘れない。


私はフードを目深に被り、裏口から屋敷を抜け出した。

冷たい風が、涙で濡れた頬を容赦なく叩いた。



夕刻。

アレクシスは予定よりもずっと早く屋敷に戻ってきた。

会議中もリリアナのことが気になりすぎて、魔力で威圧して強引に話をまとめ上げたのだ。


「リリアナ! 戻ったぞ!」


彼は玄関に入るなり、愛する妻の名を呼んだ。

いつもなら、彼女が控えめに、しかし嬉しそうに出迎えてくれるはずだ。


けれど、返事がない。

屋敷の中が、しんと静まり返っている。


「……リリアナ?」


嫌な予感がした。

心臓が早鐘を打つ。


「奥様はお部屋におられるはずですが……」


執事も怪訝な顔をしている。


アレクシスは階段を駆け上がり、南棟の彼女の部屋へ向かった。

ドアを開ける。

そこには、誰もいなかった。

綺麗に整えられたベッドと、主のいない冷たい空間だけが広がっていた。


「どこだ。どこに行った」


彼は焦燥感に駆られ、執務室、図書室、庭園と探し回った。

どこにもいない。

彼女の気配が、屋敷の中から消えている。


「まさか……」


最後に、自分の部屋へ戻ったとき。

机の上に置かれた、一枚の紙と指輪を見つけた。


アレクシスは息を止め、その紙を手に取った。

読み進めるにつれて、彼の手から血の気が引いていく。


「……嘘だ」


紙が、握りしめられてクシャリと音を立てた。


「嘘をついていただと? ……そんなこと、最初からわかっていた」


彼は呻くように言った。

記憶がなくとも、彼女の態度や周囲の反応を見れば、二人の仲が良くなかったことくらい察しがついていた。

それでも、彼女が嘘をついてまで自分との関係を変えようとしてくれたことが、嬉しかったのだ。

嘘でもいいから、そばにいて欲しかった。


「探さないでくれ、だと……?」


ふざけるな。

誰がその願いを聞き入れるものか。


ドクン。

激しい痛みがこめかみを貫いた。


視界が明滅する。

頭の中に、濁流のように映像が流れ込んでくる。

彼女の泣き顔。

遠くから見つめるだけの自分。

書き溜めた手紙。

伝えられなかった言葉たち。


「……ぐ、あああああ……っ!」


アレクシスはその場に膝をつき、頭を抱えた。

記憶の扉が、完全に砕け散った。

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