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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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第6話 漏れ出る本音と魔力の影響

屋敷の中が寒い。

季節は春だというのに、公爵邸の廊下には白い息が漂っていた。


「……寒いです、アレクシス様」

「すまない。どうも制御が効かん」


食堂のテーブル。

私の隣に座る夫、アレクシスが眉間に皺を寄せてコーヒーを飲んでいる。

彼がカップを置くと、ソーサーがカチンと凍りついた。


ここ数日、ずっとこんな調子だ。

先日のデートの帰り、彼が頭痛を訴えて以来、屋敷内では怪奇現象が頻発している。


彼がイライラすれば室温が下がり、驚けば静電気が走り、落ち込めば湿度が上がる。

国最強の魔導師が情緒不安定になると、天候すら左右してしまうらしい。

はた迷惑な話だ。


「旦那様、本日のスケジュールですが……」


執事が恐る恐る近づいてきた。

その瞬間、アレクシスの周囲の空気がピリリと張り詰める。


パキパキパキ……。


テーブルの上に置かれた花瓶の水が、音を立てて凍り始めた。


「ひっ!」


執事が悲鳴を上げて後ずさる。


「……寄るな。気が散る」


アレクシスが低く唸った。

その瞳は剣呑に細められ、威嚇する獣のようだ。


私はため息をつき、彼の手の上に自分の手を重ねた。


「アレクシス様。執事は仕事の話をしているだけですよ」


私の手が触れた瞬間。

ふわり、と室温が戻った。

凍りかけていた花瓶の水も、瞬時に溶けていく。


「……ああ。リリアナの手だ」


彼は私の手を両手で包み込み、頬ずりをした。

さっきまでの殺気立った空気はどこへやら、とろんとした甘い表情になる。


「温かいな。君が触れると、頭の中のノイズが消える」

「それは良かったですけれど……これでは執事も仕事になりません」

「なら、君が俺の口になってくれ。俺は君以外と話したくない」


彼は子供のように駄々をこねる。

記憶を失ってからの彼は甘えん坊だったけれど、ここ数日はそれが「依存」の域に達していた。


「失礼します」


タイミングよく、副官のジェローム様が入ってきた。

彼は厚手のコートを着込み、マフラーまで巻いている。完全防備だ。


「団長。魔力漏出の数値が異常です。このままでは屋敷が氷漬けになりますよ」

「うるさい。リリアナがいれば収まる」

「その奥様を、あなたが四六時中拘束しているせいで、奥様の業務が滞っているのですが」


ジェローム様は呆れたように眼鏡の位置を直した。


「ですが、背に腹は代えられませんね。……奥様」

「はい」

「団長の精神安定剤になってください。それが、屋敷の平和を守る唯一の手段です」


ジェローム様は真顔でとんでもないことを言った。


「つまり、ずっとくっついていろと?」

「ええ。トイレと入浴以外は常に」

「そんな無茶な!」


私が抗議しようと離れかけた瞬間、バチッ! と青白い火花が飛んだ。

壁の燭台が衝撃で揺れる。


「……行くな」


アレクシスが私の腕を掴んだ。

その力は痛いほど強く、目は必死だった。


「離れないでくれ、リリアナ。君が離れると……俺の中の何かが壊れそうになる」


その悲痛な声に、私は抵抗する力を失った。

これは単なる我儘じゃない。

彼は何かに怯えている。


「……わかりました。今日だけですよ」


私が諦めて座り直すと、彼は安堵のため息をつき、私の肩に頭を預けてきた。



その日から、奇妙な二人三脚生活が始まった。


アレクシスが執務室で書類仕事をする間、私は彼の膝の上に座らされた。

隣の椅子ではない。膝の上だ。


「重くありませんか?」

「軽い。もっと食べて太れ」

「仕事の邪魔でしょう?」

「逆だ。君を抱いていると集中できる」


実際、彼のペンが進む速度は恐ろしく速かった。

左手で私の腰を抱き、右手で高速署名をしていく。

私は身動きが取れず、暇つぶしに読んでいた本をめくることくらいしかできない。


時折、彼が私の首筋に鼻を押し付け、深呼吸をする。

くすぐったいし、恥ずかしい。

でも、それを拒否すると部屋の気温が氷点下になるので、我慢するしかない。


午後になり、私は気分転換に庭へ出たいと申し出た。

アレクシスも「俺も行く」とついてきた。


庭では、若い庭師がバラの手入れをしていた。

先日の「花束事件」で荒らされた花壇を修復してくれているのだ。


「奥様! お加減はいかがですか?」


庭師の青年が、人懐っこい笑顔で帽子を取った。


「ええ、おかげさまで。その節はごめんなさいね、夫が迷惑をかけて」

「いえいえ! 旦那様があんなに情熱的な方だとは知りませんでしたから、俺たちも驚きつつ応援してるんですよ」


彼は朗らかに笑った。

私もつられて微笑む。

使用人とこうして気さくに話せるようになったのも、最近のことだ。

以前は「冷遇されている奥様」として腫れ物扱いだったから。


「この新しい苗、珍しい品種なんです。奥様の瞳のような色で……」


庭師が説明しようと一歩近づいてきた、その時だった。


ジャリッ。


不吉な音がした。

見ると、庭師の足元の土が白く凍りついていた。

それだけではない。

手入れしたばかりの赤いバラが、カチコチに凍結してガラス細工のようになっている。


「ひっ!?」


庭師が飛び退いた。


「……馴れ馴れしい」


背後から、地を這うような低い声がした。

振り返ると、アレクシスが般若のような形相で立っていた。

その周囲には、吹雪のような魔力の渦が巻いている。


「あ、アレクシス様!?」

「なぜ男と笑い合っている? 俺の隣で」

「庭師のロベルトですよ! 仕事の話をしていただけです!」

「距離が近い。あと三歩下がらせろ。……いや、視界に入れるな」


アレクシスが指を弾くと、突風が巻き起こり、庭師を花壇の外へと吹き飛ばした。


「うわあああっ!」

「ロベルト!」


私は慌てて駆け寄ろうとしたが、アレクシスに抱き留められた。


「行くな」

「何をす……っ!」


彼の腕の中で、私は息を呑んだ。

彼は怒っているのではない。

震えているのだ。


小刻みに震える体が、私を万力のように締め上げている。


「俺を見ろ、リリアナ。他の男を見るな」

「……痛いです、アレクシス様」

「怖いんだ」


彼は私の肩に顔を埋め、掠れた声で呟いた。


「君が他の誰かに笑いかけるだけで、心臓が抉られるようだ。……俺じゃない誰かのところへ行ってしまうんじゃないかと、気が狂いそうになる」


「そんなこと……」

「あるだろう! 俺は君に酷いことをしてきた!」


彼は叫んだ。

その声には、深い絶望が滲んでいた。


「断片的に……思い出し始めているんだ」


私は硬直した。

やはり、記憶が戻りつつある。


「冷たい声で君を突き放す俺。君の誕生日を無視して仕事に向かう俺。……そんな映像が、頭の中に浮かんで消えない」


彼はさらに強く私を抱きしめた。


「あれが『本当の俺』なのか? だとしたら、今の俺はなんだ? 偽物か?」

「アレクシス様……」

「記憶が完全に戻ったら、俺はまた君を傷つけるのか? ……君を愛しているこの気持ちさえ、消えてしまうのか?」


彼の恐怖が、痛いほど伝わってきた。

彼は記憶を失ったことで生まれた「新しい自分」が、かつての冷徹な自分に上書きされることを恐れているのだ。

そして何より、私への愛を失うことを。


「だから……離さないでくれ。俺を一人にしないでくれ」


最強の魔導師が、迷子のような声で縋っている。


私はゆっくりと手を回し、彼の背中を撫でた。

冷え切った彼の体を、少しでも温めるように。


「……大丈夫です」


私は嘘をついた。

大丈夫なはずがない。

記憶が戻れば、彼はきっと「不仲だった事実」も思い出す。

私がついた「離婚協議中」という嘘もバレる。

そして、この甘い生活は終わるだろう。


それでも、今は。


「私はここにいます。どこにも行きません」


そう言ってあげることしか、私にはできなかった。


彼の魔力が、ゆっくりと凪いでいく。

凍りついたバラは元には戻らないけれど、少なくとも吹雪は止んだ。


静寂の中、私たちは庭の真ん中で立ち尽くしていた。

まるで、嵐が来る前の最後の静けさを惜しむように。


彼の震えが止まるまで、私はその銀色の髪を何度も何度も撫で続けた。

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