第5話 初めてのデートとライバルの乱入
「……アレクシス様。一つ言ってもよろしいですか」
「なんだ?」
「目立ちすぎです」
週末の城下町。
私たちは変装をして、お忍びデートに来ていた。
私は地味な色合いのワンピースに、深々とフードを被っている。これならどこにでもいる町娘に見えるはずだ。
問題は、隣を歩く男だ。
襟のついたシャツに、飾り気のないズボン。
平民が着るような既製品の服なのに、彼が身につけると特注のオートクチュールに見えるのはなぜだろう。
185センチを超える長身に、鍛え上げられた体躯。
そしてフードの隙間から覗く、銀色の髪と整いすぎた顔立ち。
道行く人々が、すれ違いざまに二度見しては、頬を染めたり溜息をついたりしている。
「そうか? ジェロームに見繕わせた一番安そうな服なのだが」
「素材の問題ではありません。中身の問題です」
「ふむ。では、こうすればいいか」
彼は私の肩を抱き寄せ、顔を近づけてきた。
二人の距離がゼロになる。
「これなら、ただのバカップルに見えるだろう」
「っ……余計に目立ちます!」
抗議しても、彼は楽しそうに笑うだけだ。
その笑顔がまた、破壊的な威力を持っているから始末に負えない。
「見ろ、リリアナ。あそこで何か焼いているぞ」
「串焼きですね。スパイスのいい香りがします」
「食べてみよう」
彼は屋台へ向かい、慣れない手つきで銅貨を支払った。
渡された熱々の串焼きを、フーフーと冷ます。
「はい、あーん」
「えっ、ここでですか?」
「両手が塞がっているだろう? ほら」
人目がある路上で「あーん」なんて。
貴族としてあるまじき行為だ。
お母様が見たら卒倒するに違いない。
けれど、彼の期待に満ちたキラキラした目を見ていると、断るのが罪悪に思えてくる。
私は観念して、串焼きにかぶりついた。
「……ん、美味しい」
「そうか! よかった」
彼は残りを自分で頬張り、「うまいな!」と無邪気に喜んでいる。
口の端にタレがついているのを、私がハンカチで拭ってあげると、彼は嬉しそうに目を細めた。
(楽しい……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
三年間、私は屋敷に籠もるか、社交界で愛想笑いをするだけの生活だった。
こんな風に、誰かと街を歩いて、美味しいものを食べて、笑い合うなんて。
しかも、その相手が夫だなんて。
「次はあっちだ。雑貨屋がある」
「待ってください、歩くのが速いです」
「おっと、すまない」
彼は私の歩幅に合わせて速度を緩め、しっかりと手を繋ぎ直してくれた。
その大きな手の温もりに、私は不覚にも「幸せだ」と感じてしまっていた。
これが全部、嘘から始まった関係だとしても。
今この瞬間だけは、本物の夫婦みたいだ。
そう思っていた矢先だった。
「あら? もしかして、ヴァレンシュタイン公爵様ではありませんこと?」
鈴を転がすような、けれどどこか棘のある声が降ってきた。
ビクリとして振り返ると、華やかなドレスを身に纏った女性が立っていた。
取り巻きの令嬢たちを引き連れている。
鮮やかな金髪に、勝ち気な瞳。
セリーヌ・バークレー公爵令嬢だ。
「……げ」
思わず声が出そうになった。
彼女は以前からアレクシス様を狙っていて、妻である私を目の敵にしている人物だ。
なんでこんな庶民的なエリアにいるの?
「やはりそうですわ! まあ、こんなむさ苦しい場所で、平民のような格好をされて……」
セリーヌ様は扇子で口元を隠しながら、品定めするようにアレクシス様を見た。
そして、隣にいる私に気づくと、露骨に蔑むような目を向けた。
「隣にいらっしゃるのは、奥様のリリアナ様ですわよね? 地味な格好がよくお似合いで、風景に溶け込んでいらしたから気づきませんでしたわ」
強烈な嫌味だ。
私は愛想笑いを浮かべて、一歩下がろうとした。
「ごきげんよう、セリーヌ様。本日は夫婦で買い物に来ておりまして」
「夫婦、ねぇ」
彼女は意地悪く口角を上げた。
「噂を聞きましたわよ。団長様が記憶喪失になられたとか。それも、奥様のこともお忘れになったそうで」
「……」
「おかわいそうに。ただでさえ冷え切った関係でしたのに、記憶まで失われてしまっては、もう他人同然ですわね」
彼女は一歩踏み出し、私とアレクシス様の間に割り込もうとした。
「ねえ、アレクシス様。記憶がないのでしたら、今のうちに新しいパートナーをお選びになった方がよろしくなくて? 私なら、あなたの隣に立っても恥ずかしくない華やかさを提供できますわよ」
彼女はアレクシス様の腕に手を伸ばした。
私は唇を噛んだ。
言い返せない。
彼女の言う通りだ。
私は地味で、平凡で、彼に釣り合わない。
記憶がない彼を騙して、今の地位にしがみついているだけの卑怯な女だ。
その時だった。
「……触るな」
空気が、凍りついた。
アレクシス様の声だ。
さっきまで私に向けていた甘い声ではない。
絶対零度の、背筋が凍るような低い声。
セリーヌ様の手が空中で止まる。
「気安く俺の名を呼ぶな。それと、俺の妻との間に割り込むな」
アレクシス様は私を背に隠すようにして、セリーヌ様を見下ろした。
その瞳は、記憶を失う前の「氷の魔導師」そのものだった。
冷たく、鋭く、敵を排除しようとする捕食者の目。
「なっ……わ、私はあなたのためを思って!」
「俺のため? 妻を侮辱することがか?」
彼は冷笑した。
「俺が記憶を失っていようがいまいが、関係ない。俺が選んだ妻はリリアナだ。彼女以外の女など、石ころと同じだ」
「い、石ころ……!?」
セリーヌ様が顔を真っ赤にして絶句する。
「それに、俺たちの関係が冷え切っているだと? どこを見て言っている」
彼は私の腰をぐいっと引き寄せ、見せつけるように抱きしめた。
「俺たちは愛し合っている。邪魔をするなら、公爵家への敵対行為とみなすが?」
強烈な殺気。
周囲の通行人たちさえも、異変を感じて足を止めるほどの威圧感だ。
セリーヌ様は「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、後ずさった。
「お、覚えてらっしゃい! こんな……こんな屈辱、初めてですわ!」
捨て台詞を残し、彼女は取り巻きと共に逃げるように去っていった。
嵐が去った後のような静寂。
私は呆然と、彼を見上げていた。
「……アレクシス様」
「大丈夫か、リリアナ。嫌なことを言わせてすまなかった」
私に向けられた顔は、いつもの甘い表情に戻っていた。
さっきの冷徹さが嘘のようだ。
「あの……石ころだなんて、言い過ぎでは」
「事実だ。君以外に価値などない」
彼は私の頬に手を添え、愛しげに親指で撫でた。
「誰がなんと言おうと、君は俺の妻だ。俺が守る」
その言葉は嬉しかった。
嬉しいけれど、同時に胸がひどく痛んだ。
彼は知らないのだ。
セリーヌ様の言った「冷え切った関係」が真実であり、今の「愛し合っている」状態が私の嘘の上に成り立っていることを。
彼が守ろうとしているのは、虚構の愛だ。
「……帰りましょうか」
私は掠れた声で言った。
これ以上、彼の優しさに触れていると、自分が許せなくなりそうだった。
帰りの馬車の中。
行きとは打って変わって、会話は少なかった。
私は窓の外を流れる景色を眺めながら、罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
アレクシス様は、私の手を握ったまま、目を閉じて休んでいる。
突然、彼の手が強く私の手を握りしめた。
「……っ」
小さな呻き声。
見ると、彼が苦しげに眉を寄せ、もう片方の手でこめかみを押さえていた。
「アレクシス様? どうされました?」
「……いや、少し頭が痛む」
「頭痛ですか? すぐに薬を……」
「大丈夫だ。ただ……」
彼は目を開けた。
その瞳が、揺れていた。
「変な映像が……浮かんだんだ」
「映像?」
「君が……泣いている。俺の背中を見て、泣いている君の姿が……」
心臓が止まるかと思った。
それは、おそらく過去の記憶だ。
私が何度も経験した、彼の背中を見送るだけの寂しい日々の記憶。
「これは、なんだ? 俺は君を泣かせていたのか?」
彼は不安げに私を見た。
その問いに、私は答えられなかった。
「……お疲れなのですよ。屋敷に戻ったら、すぐに休みましょう」
震える声でそう言って、私は彼を抱きしめることしかできなかった。
彼の顔を胸に押し付け、私の表情を見られないようにして。
記憶が、戻りかけている。
この幸せな夢が終わる時が、近づいている。
馬車の車輪が回る音が、まるでカウントダウンのように響いていた。




