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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 思い出せない記念日

屋敷の中が、朝から落ち着かない。

メイドたちがどこか浮き足立っているし、廊下にはいつもより豪華な生花が飾られている。


今日は、四回目の結婚記念日だ。


私にとっては「憂鬱な日」以外の何物でもない。

けれど、今の夫にとっては一大イベントらしい。


「リリアナ、これを見てくれ」


朝食のテーブルに着くなり、アレクシスが分厚い冊子を広げた。

王都でも有名な宝飾店のカタログだ。


「昨夜、商人に持ってこさせた。この首飾りはどうだ? 君の瞳の色に合う」

「……結構です」

「では、このブレスレットは? 魔除けの石も入っているそうだ」

「いりません」


私はトーストにバターを塗りながら、素っ気なく答えた。


アレクシスはめげない。

カタログをめくり、次々と高価な品を提案してくる。


「ドレスも新調しよう。流行のスタイルを……」

「アレクシス様」


私はナイフとフォークを置いて、彼を真っ直ぐに見つめた。


「もうやめてください。何もいりません」


食堂の空気が冷える。

控えていた執事が、気まずそうに視線を逸らすのが見えた。


アレクシスは眉を寄せ、傷ついたような顔をした。


「……なぜだ? 俺はただ、君を喜ばせたいだけなのに」

「それが迷惑なのです」


冷たい言葉だとわかっている。

でも、止まらない。

胸の奥に澱んでいた黒い感情が、彼の無邪気な熱意に刺激されて溢れ出してくる。


「あなたは記憶がないから、知らないだけです」


私はナプキンで口元を拭い、淡々と告げた。


「過去三回の結婚記念日、あなたがどこにいたかをご存知ですか?」


アレクシスは口を閉ざし、首を横に振った。


「魔導師団の執務室か、討伐の遠征先です。あなたは一度も、この日に家にいたことはありません」


一度目は、初々しい気持ちで料理を用意して待っていた。

深夜になり、執事が「旦那様は急な任務でお戻りになりません」と告げに来たときの虚しさ。


二度目は、期待せずに待っていたけれど、やはり帰ってこなかった。

翌朝、顔を合わせても「おはよう」の一言だけで、記念日の話題すら出なかった。


三度目は、もう日付すら意識しないようにした。


「贈り物どころか、『おめでとう』の一言もありませんでした。私にとって結婚記念日とは、夫が私に関心がないことを再確認するだけの日付です」


テーブルの下で、ドレスの裾をぎゅっと握りしめる。


「今さら祝われても、惨めになるだけです。……お願いですから、放っておいてください」


言い切って、私は席を立った。

アレクシスは何も言わなかった。

ただ、呆然と私を見上げていた。


その表情があまりに無防備で、子供のように痛々しくて。

私はそれ以上彼を見ることができず、逃げるように食堂を出た。



部屋に戻った私は、窓辺の長椅子に座り込んでいた。

刺繍をする気にもなれない。


(言いすぎたかもしれない)


自己嫌悪が押し寄せる。

彼は記憶を失っているのだ。

過去の彼とは違う。

今の彼は、本気で私を祝おうとしてくれていたのに。


でも、怖かった。

もし今日、甘い言葉や贈り物を受け取って、嬉しくなってしまったら。

そして明日、彼の記憶が戻って、また冷たい「氷の魔導師」に戻ってしまったら。

その落差に、私は耐えられるだろうか。


期待して裏切られるより、最初から期待しない方がずっと楽だ。

そうやって三年間、自分の心を守ってきたのだから。


「奥様」


控えめなノックの後、アニーが入ってきた。


「あの……お昼ご飯はどうされますか? 旦那様は、執務室に籠もられたまま出てこられませんが」

「……私はいりません。食欲がないの」

「そうですか……」


アニーは心配そうに私を見て、それから言いづらそうに口を開いた。


「あの、旦那様ですが……奥様が出ていかれた後、ずっと考え込んでおられました」

「……そう」

「『俺が君を悲しませたのか』って、独り言を仰っていて……すごく、落ち込んでいるご様子で」


胸がちくりと痛む。

悪いことをしたという自覚はある。

でも、今さら謝って、笑顔でプレゼントを受け取るなんて芸当はできない。


結局、その日はお互いに顔を合わせることなく終わった。

夜、彼が寝室(私の部屋)に戻ってくる気配があったけれど、私は寝たふりをして背中を向けた。

彼は何も言わず、ただ静かにベッドに入り、いつもより遠慮がちに、私の背中にそっと手を添えるだけだった。


その温もりが、ひどく切なかった。



翌朝。

私は鳥のさえずりではなく、悲鳴で目を覚ました。


「ひいいっ! だ、旦那様!? 何をされているのですかーっ!」


庭師の叫び声だ。

窓の外から聞こえてくる。


隣を見ると、ベッドは空だった。

アレクシスがいない。


嫌な予感がして、私はガウンを羽織り、バルコニーへと飛び出した。


「……え?」


眼下の庭園を見て、私は絶句した。


手入れの行き届いたバラ園の真ん中に、アレクシスがいた。

公爵が着るような上質なシャツは泥だらけ。

腕まくりをして、土に膝をついている。

その周りには、無惨にも折られたり、根っこから引き抜かれたりした花たちが散乱していた。


「あ、アレクシス様!?」


私が声を上げると、彼が顔を上げた。

頬に泥がついている。

銀髪には葉っぱが絡まっている。


「リリアナ!」


彼は私を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。

そして、両手いっぱいに抱えたものを掲げた。


それは、花束だった。

いや、「束」というにはあまりに無骨で、雑多な植物の集合体だった。

赤やピンクのバラ、季節外れの百合、それに何故か雑草のような野花まで混ざっている。


「おはよう! 待っていてくれ、今行く!」


彼は風魔法でも使ったのか、ふわりと浮き上がり、二階のバルコニーへと飛び乗ってきた。


「きゃっ!」


着地の風圧でガウンが煽られる。

目の前に、泥だらけの夫が立った。

土と草の匂いがむせ返るほど香る。


「……何をしているんですか、朝から」

「宝石はいらないと言っただろう」


彼は息を弾ませながら言った。


「ドレスも、貴金属も、君は欲しがらない。金で買えるようなものでは、君の心は埋められないとわかった」


彼は抱えていた花束を、ぐいっと私に突き出した。


「だから、これをやる」


根っこがついたままの花もある。

棘の処理もしていないから、彼の手は傷だらけだ。

どう見ても、庭師が整えた美しいブーケではない。

素人が力任せに集めた、泥臭い塊だ。


「昨夜、考えたんだ。君がよく、この窓から庭を眺めていたのを思い出した」


彼の言葉に、私は息を呑んだ。

見ていたの?

私が一人で部屋に籠もり、庭の花だけを友人のように眺めていた時間を。


「君は花が好きだろう? だから、一番綺麗に咲いているやつを全部持ってきた」

「全部って……庭師が泣いていましたよ」

「あとでボーナスをやるから問題ない」


彼は真剣な顔で言った。


「過去の俺が何もしなかったのなら、今の俺が全部やる。君が『いらない』と言っても、俺があげたいんだ」


彼は一歩近づき、私の手に無理やり花束を押し付けた。

ずしりと重い。

土が私の手にも付く。

高級なシルクのガウンが汚れてしまう。


それなのに。


「……馬鹿な人」


涙が滲んで、視界が歪んだ。


「こんな泥だらけになって……公爵様がすることじゃありません」

「夫がすることだ」


彼は汚れた手で、私の頬に触れようとして、慌てて引っ込めた。

自分の手が汚いことに気づいたらしい。


「すまない。服を汚したな」

「……いいえ」


私は首を横に振った。

胸がいっぱいだった。

高価な宝石よりも、完璧なエスコートよりも。

この泥だらけの花束が、今までで一番、私の心に響いてしまった。


「ありがとう……ございます」


小さな声で礼を言うと、彼は安堵したようにへにゃりと笑った。


「よかった。やっと笑った」


彼はポケットから、くしゃくしゃになった紙切れを取り出した。


「それで、だ。詫びといってはなんだが」

「まだ何かあるんですか?」

「週末、街へ出かけないか? デートというやつをしたい」


その紙切れは、劇場か何かのチケット……ではなく、街の観光マップの切れ端だった。


「君と歩きたい。二人で。……駄目か?」


上目遣いに見つめられて、断れるわけがなかった。

この泥だらけの夫を、どうしようもなく愛しいと思ってしまったのだから。


「……泥を落としてからなら、考えてあげます」


私が少し意地悪く言うと、彼は「直ちに風呂に入ってくる!」と叫び、また風魔法で庭へと飛び降りていった。


「あ、こら! 玄関から行ってください!」


遠ざかる背中を見送りながら、私は腕の中の花束に顔を埋めた。

土の匂いに混じって、バラの甘い香りがした。


期待したくない。

けれど、今日だけは。

この不器用な愛を、信じてみてもいいのかもしれない。


私は花についた朝露が、自分の涙と混ざるのを感じていた。

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