第3話 副官は知っている
朝の衝撃的な「ベッド事件」から数時間後。
屋敷の中は、奇妙な静けさに包まれていた。
使用人たちは私とすれ違うたびに、さっと視線を逸らす。
けれど、その背中からは「まあ、あんなに熱烈だなんて」「やはり噂は当てにならないわね」といったヒソヒソ声が聞こえてくるようだ。
いたたまれない。
穴があったら入りたいし、なんならそのまま冬眠したい。
けれど、現実は待ってくれない。
公爵邸には、今日も今日とて仕事が舞い込んでくるのだ。
「失礼します、団長。……おや?」
執務室の扉を開けたのは、副官のジェローム様だった。
銀縁の眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の男性だ。
抱えている書類の山を見て、私は救世主が現れたと思った。
彼なら、この暴走機関車と化した夫を止めてくれるかもしれない。
「ジェローム様! お待ちしていました」
私が駆け寄ると、彼はきょとんとして私を見た。
それから、部屋の奥にある執務机へと視線を移す。
そこには、ふんぞり返って不機嫌オーラを撒き散らしているアレクシスがいた。
「……奥様がいらっしゃるのは珍しいですね。団長は執務中、誰も入れない主義のはずですが」
「それが、その……」
私は言葉に詰まった。
なんて言えばいい?
『私がいないと寂しくて死にそうだと旦那様が仰るので、監視されています』なんて、口が裂けても言えない。
「リリアナ」
アレクシスが低い声で呼んだ。
「その男とあまり近づくな。男の匂いが移る」
「ジェローム様はあなたの部下ですよ!? それに、匂いなんて移りません!」
「俺以外の男と親しげに話すのが気に入らん」
彼はペンを放り出し、子供のように唇を尖らせた。
これが国最強の魔導師だなんて、誰が信じるだろうか。
ジェローム様は、すっと目を細めた。
眼鏡の奥で、何かが計算されたような光が走る。
「……なるほど。記憶喪失の影響で『本能』のリミッターが外れているというのは、本当のようですね」
彼は冷静に分析し、書類の束を机に置いた。
「団長。至急の決裁書類です。記憶がなくとも判断は可能かと」
「ああ、わかっている」
アレクシスが書類に目を通し始めた隙を見て、私はジェローム様を部屋の隅へ引っ張っていった。
「ジェローム様、少しよろしいですか」
「はい、何でしょう?」
「あの……実は、お願いがありまして」
私は声を潜め、周囲を警戒しながら囁いた。
「旦那様の記憶喪失を利用して……その、円満に離婚しようと考えているんです」
ジェローム様の眉がピクリと動いた。
「離婚、ですか?」
「はい。ご存知の通り、私たちは冷え切った仮面夫婦でしたから。これを機に、お互い自由になった方がいいと思いまして」
「ほう……」
「ですから、ジェローム様からも『以前のお二人は不仲でしたよ』と、口添えしていただけないでしょうか。今の旦那様は、どうも私が嘘をついていると思い込んでいるようで」
私の懇願に対し、ジェローム様は顎に手を当てて考え込んだ。
そして、ふっと口元を緩める。
「奥様。それは少々、難しい相談ですね」
「えっ? なぜですか?」
「私の目には、団長はずっと昔から、あなたのことを目で追っていたように見えましたが」
心臓がとくん、と跳ねた。
「……まさか。睨んでいただけでしょう? 私が地味で、公爵夫人の器じゃないから」
「睨む? はは、そう見えましたか」
ジェローム様は可笑しそうに肩を震わせた。
「不器用な男の視線というのは、得てして誤解されるものですよ。……まあ、今の団長を見ていれば、答えは明らかだと思いますが」
彼はちらりとアレクシスの方を見た。
アレクシスは書類に向かいながらも、貧乏ゆすりをしている。
私たちが内緒話をしているのが気に入らないらしい。
「リリアナ! まだ終わらないのか!」
「ひっ、はい! 今戻ります!」
ジェローム様は「健闘を祈りますよ」と楽しげに言い残し、さっさと退室してしまった。
味方になってくれると思ったのに。
完全に面白がられている。
◇
「こっちへ来い」
ジェローム様が出ていくなり、アレクシスが手招きした。
「座りなさい」
「は、はい」
私が対面の椅子に座ろうとすると、彼は不満げに眉を寄せた。
「そこじゃない」
「え?」
「ここだ」
彼がポンポンと叩いたのは、自分の膝の上だった。
「…………お断りします」
「なぜだ。昨日は座っただろう」
「あれは不可抗力です! 仕事中でしょう? 真面目にやってください!」
私が叱ると、彼はしゅんとして肩を落とした。
捨てられた大型犬のような目で見つめてくる。
「君が遠いと、魔力の制御が乱れるんだ。……頭も痛む」
「う……」
「頭痛」という単語を出されると弱い。
私の嘘のせいで彼が無理をして、本当に後遺症が悪化したらどうしようという罪悪感があるからだ。
「……膝の上は駄目です。その代わり、隣に椅子を持ってきます。それならいいでしょう?」
「……手は繋ぐぞ」
「利き手が塞がったら仕事になりません!」
「じゃあ、足だけくっつけておく」
妥協案として、私の椅子を彼の椅子の真横に配置し、お互いの太ももが触れ合う距離で座ることになった。
これでも十分に近いし、恥ずかしい。
アレクシスは不満そうにしつつも、ペンを走らせ始めた。
さすがは仕事人間。
一度集中すると、その処理速度は凄まじい。
ただ、問題があった。
「……汚い」
私は思わず呟いていた。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、その書類の山です。未決裁のものと、保管するものと、至急のものがごちゃ混ぜになっています」
彼の机の上は、カオスだった。
記憶喪失の混乱で、さらに拍車がかかっているようだ。
これでは効率が悪いし、重要な案件を見落とす危険もある。
「……気になるのか?」
「気になります。私、実家では領地の帳簿整理を手伝っていましたから。こういう乱雑な状態を見ると、むずむずして……」
ええい、ままよ。
私は立ち上がると、書類の山に手を伸ばした。
「少し触りますよ。整理させてください」
「ああ、好きにしろ」
彼は私の行動を止めなかった。
むしろ、私がそばで動いているのが嬉しいのか、機嫌良さそうに眺めている。
私は手早く書類を分類し始めた。
「これは王宮への報告書、日付順に並べ替えます。こっちは魔導具の資材発注書ですね。予算ごとに分けます。……あ、この申請書、期限が明日までですよ!」
「なに? ……本当だ。危ないところだった」
「こっちの決裁箱は空にしておきました。署名が必要なのはこの青いファイルです」
無心で手を動かすこと三十分。
机の上は見違えるように整頓された。
「ふう……」
額の汗を拭って顔を上げると、アレクシスがポカンとした顔で私を見ていた。
その手には、羽ペンが握られたままだ。
「……すごいな」
彼がしみじみと呟いた。
「え?」
「ジェロームでも、ここまで早く整理はできん。君は魔法を使ったのか?」
「まさか。ただの事務作業です。……公爵夫人の仕事ではありませんけれど」
私は少し自嘲気味に言った。
貴族の奥様といえば、お茶会や刺繍が仕事だ。
こんな事務屋のような真似、品がないと思われるかもしれない。
けれど、アレクシスは立ち上がり、私の手を取った。
「素晴らしい才能だ、リリアナ」
その瞳は、キラキラと輝いていた。
「君のおかげで、頭の中まで整理された気分だ。……今まで、俺一人で無駄な苦労をしていた気がする」
「そ、そうですか?」
「ああ。君は俺に必要な人だ。改めてそう思った」
彼は私の指先に、恭しくキスを落とした。
手の甲ではなく、指先。
インクで少し汚れてしまった私の指に。
「っ……!」
顔が熱くなる。
褒められた。
三年間、誰にも評価されず、「飾り」として扱われてきた私が。
ただの書類整理で、こんなに真っ直ぐな称賛を受けるなんて。
「……お役に立てたなら、何よりです」
「役立つどころの話ではない。ずっと俺の秘書官になってほしいくらいだ」
「それはお断りします」
即答すると、彼は残念そうに笑った。
「そうか。だが、褒美はさせてくれ。何か欲しいものはあるか?」
「褒美だなんて、そんな……」
断ろうとして、ふと気づく。
これは距離を置くチャンスかもしれない。
「では、少し一人になる時間をください。南棟に戻って休みたいのです」
「それは却下だ」
「なっ! 聞いてくださると言ったじゃないですか!」
「物がいい。ドレスか? 宝石か?」
彼は全く聞く耳を持たない。
なんてワンマンな男なのだろう。
「いりません! 私はもう十分なものを持っていますし、あなたから贈り物をもらう理由もありません!」
つい、強い口調になってしまった。
不仲な夫婦設定を守るためでもあるし、これ以上絆されたくないという防衛本能でもある。
アレクシスは少し傷ついたような顔をした。
けれど、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。
「そういえば……結婚記念日はいつだ?」
唐突な質問に、私は目を丸くした。
「は?」
「俺たちは三年間、夫婦だったのだろう。なら、記念日があるはずだ。いつだ?」
「……来週ですけれど」
もうすぐだ。
毎年、一人で虚しく過ごしていたあの日。
今年もそうなるはずだった。
「来週か。ちょうどいい」
アレクシスはニヤリと笑った。
「盛大に祝おう。これまでの分もまとめてな」
「えっ、いりません! しなくていいです!」
「俺がしたいんだ。君に贈り物をさせてくれ。……リリアナ、君が喜ぶ顔が見たい」
彼は私の頬に手を添え、親指で優しく撫でた。
「君がこれまで寂しい思いをしていたのなら、俺がそれを塗り替える。……嫌か?」
そんな風に、縋るような目で見つめられて。
「嫌です」と言えるほど、私は強くなかった。
「……お手柔らかに、お願いします」
そう答えるのが精一杯だった。
彼の体温が、指先から頬へ、そして心へと侵食してくる。
副官のジェローム様は知っていると言った。
彼が昔から私を見ていたと。
もし、それが本当なら。
私の三年間は、一体なんだったのだろう。
机の上に整然と並んだ書類を見つめながら、私は答えの出ない問いを飲み込んだ。




