第2話 やり直しの攻防戦
退院の馬車が、砂利を踏む音を立てて停止した。
窓の外には、見慣れた公爵邸の威容が広がっている。
「到着いたしました、旦那様」
御者の声で、ようやく私は解放された。
といっても、肩に回されていた腕が離れただけだ。
「……降りますよ、アレクシス様」
「ああ」
アレクシスは先に馬車を降りると、当然のように私に手を差し伸べた。
エスコート。
当たり前のマナーだけれど、彼にされた記憶は結婚式のときくらいしかない。
私は躊躇いつつ、その大きな手に自分の手を重ねた。
ぎゅっ、と強く握り返される。
痛くはないけれど、逃がさないという意志を感じる強さだ。
玄関ホールに入ると、執事やメイドたちが整列して出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様。ご無事で何よりです」
執事長が深々と頭を下げる。
他の使用人たちも一斉に礼をするが、その視線はどこか落ち着かない。
ちらちらと、私とアレクシスが繋いでいる手を見ているのがわかる。
無理もない。
「氷の魔導師」と呼ばれ、妻にも無関心だった主人が、退院早々こうしてベタベタと触れているのだから。
きっと「頭を打っておかしくなった」と思われているに違いない。
……まあ、事実なのだけれど。
私は居心地の悪さに耐えながら、努めて冷静な「公爵夫人」の顔を作った。
「執事長。旦那様はまだ本調子ではありません。すぐに北の棟へ案内して、休んでいただきなさい」
この屋敷は広い。
北棟が主人の居住区、南棟が私の居住区と決められている。
三年間、私たちは食事のとき以外、顔を合わせることもない生活を送ってきた。
「かしこまりました。さあ、旦那様。こちらへ」
執事長が北棟への通路を示した。
これでいい。
物理的な距離ができれば、彼も冷静になるはずだ。
そして一人になったときに、「なんであんな地味な女に求婚などしたんだ?」と正気に戻るに違いない。
そう期待して、私は彼の手を離そうとした。
けれど。
「必要ない」
アレクシスの一言が、その場の空気を凍らせた。
「は……?」
執事長がポカンと口を開ける。
アレクシスは私の手をさらに強く引き寄せ、腰に腕を回した。
「俺は北棟には戻らん」
「えっ? あの、ではどちらへ……」
「妻の部屋だ」
しん、とホールが静まり返った。
私が一番驚いた。
「な、何を仰っているのですか!?」
思わず裏返った声が出た。
「私の部屋は南棟ですよ? あなたの執務室からも遠いですし、何より狭いです!」
「構わん。夫婦が一緒に過ごして何が悪い」
彼は涼しい顔で言い放つと、近くにいたメイド——私の専属侍女である若いアニーに視線を向けた。
「おい、そこの」
「は、はいっ!」
「俺の荷物を、今すぐリリアナの部屋へ運べ。着替えも、洗面道具も、全てだ」
「す、全て、ですか?」
「枕も忘れるなよ」
アニーが助けを求めるように私を見た。
私も助けを求めたい。
でも、この屋敷における彼の命令は絶対だ。
「アレクシス様、お願いです。冗談はやめてください」
私は小声で、けれど必死に訴えた。
「私たちは離婚協議中だと言ったでしょう? 別居は当然のことです」
「だからこそだ」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「離婚を回避するために、俺は君を口説き落とす必要がある。離れて暮らしてどうやって愛を伝えるんだ?」
「っ……!」
耳にかかる吐息が熱い。
この人、記憶を失ってから距離感がおかしいだけでなく、羞恥心までどこかに置いてきたらしい。
「行くぞ、リリアナ。案内してくれ」
「あ、歩けますから! 引っ張らないでください!」
抵抗も虚しく、私は彼に抱き寄せられたまま、南棟への廊下を歩く羽目になった。
背後に残された使用人たちの、悲鳴のようなざわめきを聞きながら。
◇
私の部屋に、異物が鎮座している。
レースのあしらわれた天蓋付きベッド。
刺繍枠が置かれた小さなテーブル。
お気に入りの本が並ぶ棚。
そんな私だけの聖域に、身長185センチを超す大男がいるだけで、部屋が半分くらいに狭まった気がする。
アレクシスは上着を脱ぎ、シャツ一枚のラフな姿で、私の長椅子に座っていた。
くつろいでいる。
完全に、自分の縄張りだという顔で。
「……落ち着きません」
私は部屋の隅に立ったまま抗議した。
「どうして、そう堂々としているんですか」
「妻の部屋だからな。いい匂いがする」
彼は鼻をひくつかせ、長椅子のクッションを抱えた。
それは私がいつも刺繍をするときに背中に当てているものだ。
「返してください!」
「嫌だ。君の残り香がする」
「変態ですか!?」
叫んでから、ハッとして口を押さえる。
公爵様に向かってなんてことを。
でも、今の彼はどう見ても変態だ。
あの冷徹で高貴な魔導師団長はどこへ行ったの?
「変態でも構わん。リリアナ、こっちへ来い」
彼は手招きをした。
「座らないのか? 疲れただろう」
「……結構です。私はアニーにお茶を淹れさせてきます」
逃げようとした私の手首を、魔法のような速さで彼の手が捕らえた。
いいえ、魔法じゃない。
彼は純粋に身体能力も高いのだ。
「きゃっ!」
引く力に逆らえず、私は彼の膝の上に崩れ落ちた。
固い太もも。
逞しい胸板。
背中に回される腕。
完全に、捕獲された。
「放して……っ、重いです!」
「君が軽すぎるんだ。ちゃんと食べているのか?」
彼は私の腰のあたりを確かめるように撫でた。
ぞわり、と背筋が震える。
セクハラだ。
訴えたら勝てるだろうか。いや、相手は国家権力そのものだ。
「食べてます! ……それより、本当にここで寝起きするつもりなんですか?」
「ああ」
「ベッドは一つしかありませんよ」
「夫婦なら一つで十分だろう」
彼は事もなげに言う。
「でも、私たちは……」
「指一本触れない」
アレクシスは私の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「君が嫌がることはしない。約束する」
「……」
その瞳は、真剣だった。
嘘をついているようには見えない。
記憶を失う前の彼も、約束だけは絶対に破らない人だった。
一度交わした契約や期限は、何があっても守る。
そういう律儀さは変わっていないのかもしれない。
「……本当に、何もしませんか?」
「ああ。ただ、そばにいて、君を感じていたいだけだ」
「意味がわかりません」
「俺もわからん」
彼はふっと笑った。
それは、私が初めて見る、少年のような無邪気な笑顔だった。
「ただ、君が視界にいないと不安でたまらなくなる。心臓が冷えるような感覚だ。……これは、記憶喪失の副作用かもしれないな」
そんな弱気なことを言われては、無下に追い出すこともできない。
私はため息をつき、抵抗の力を抜いた。
「……わかりました。今夜だけです」
「感謝する」
彼は嬉しそうに私の肩に頬を擦り付けた。
銀髪が首筋をくすぐって、変な声が出そうになるのを必死で堪えた。
◇
夜が来た。
最悪の夜だ。
入浴を済ませ、ネグリジェに着替えた私は、ベッドの端に座って途方に暮れていた。
反対側の端には、アレクシスがいる。
彼も入浴を済ませ、薄いナイトシャツ姿だ。
濡れた髪をかき上げる仕草が、悔しいほど絵になる。
無駄に色気があるのが腹立たしい。
「……寝ましょうか」
「はい」
私は恐る恐る布団に入り、できるだけ彼から距離を取って背中を向けた。
ベッドの端ギリギリだ。
あと数センチで落ちる。
「おやすみなさい」
「リリアナ」
「な、なんですか」
「遠い」
背後で衣擦れの音がしたかと思うと、温かい塊が背中に押し付けられた。
そして、太い腕が私のお腹に回される。
「ひっ!?」
「じっとしてろ。落ちるぞ」
「ち、近すぎます! 指一本触れないって……!」
「性的な意味ではな。これは抱き枕だ」
「私は枕じゃありません!」
「温かいな……」
彼は私の抗議を聞き流し、首筋に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
「いい匂いだ……ポプリか? それとも君自身の……」
「嗅がないでください!」
「落ち着くんだ……」
彼の声が、次第に微睡みを帯びていく。
本当に、ただ安心しているようだった。
心臓の音がうるさい。
自分の心臓なのか、背中に密着している彼の心臓なのかわからないけれど、とにかくうるさい。
背中に感じる彼の体温は、暖炉のように熱い。
固い胸板の感触。
回された腕の重み。
規則正しい寝息。
三年間、一度も知ることのなかった「夫」の感触だ。
(どうして……)
どうして、記憶をなくしてからなの?
もっと早く、あなたがこんな風に甘えてくれていたら。
私が歩み寄ったときに、拒絶せずに受け入れてくれていたら。
そうしたら、私は嘘なんてつかずに済んだのに。
「……ん……リリアナ……」
耳元で、甘い寝言が聞こえた。
「……すきだ……」
その言葉は、私の胸の奥深くに突き刺さった。
ずるい。
本当にずるい人だ。
記憶がないからって、言っていいことと悪いことがある。
私は涙が滲みそうになるのをこらえ、唇を噛み締めた。
この温もりに絆されてはいけない。
これは偽物だ。
彼は私を見ているようで、見ていない。
ただの一時的なエラーだ。
明日になれば、また冷たい鉄仮面に戻っているかもしれない。
そうしたら、この温もりも消えてしまう。
期待してはいけない。
期待したら、また傷つくだけだ。
私は身を固くしたまま、長く眠れない夜を過ごすことになった。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目を覚ました私は、自分が置かれている状況を理解して悲鳴を上げそうになった。
目の前に、アレクシスの顔があった。
至近距離だ。
まつ毛の一本一本まで数えられそうなくらい近い。
どうやら寝ている間に寝返りを打ち、彼の方を向いてしまったらしい。
彼はまだ夢の中だ。
私の腰をしっかりと抱き寄せ、私の額に自分の顎を乗せるようにして眠っている。
完全に、ホールドされている。
抜け出せない。
少しでも動けば、彼を起こしてしまう。
どうしようかとパニックになっていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼いたします、奥様。朝のお支度に参りました」
アニーの声だ。
そのあとに、聞き慣れた厳格な声が続く。
「失礼するわよ」
メイド頭のマーサだ。
彼女は古参のメイドで、規律にうるさく、私のことを「公爵家に相応しくない田舎娘」と見下している節がある。
一番、見られてはいけない相手だ。
「あっ、待って……!」
静止する間もなく、ガチャリとドアが開いた。
「おはようござ……っ!?」
アニーが息を呑む音が聞こえた。
続いて、マーサが盆を取り落としそうになる気配。
彼女たちの視線の先には。
朝の光の中、乱れたベッドで、夫の腕の中にすっぽりと収まり、頬を赤らめている私の姿。
そして、物音に目を覚ましたアレクシスが、不機嫌そうに低く唸りながら、私をさらに強く抱きしめた。
「……うるさいぞ。リリアナが起きてしまうだろう」
とどめの一撃だった。
アニーは顔を覆い、マーサは石像のように固まっている。
終わった。
私の「不仲で離婚協議中」という設定が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




