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記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


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10/10

最終話 二度目のプロポーズ

公爵邸の朝は、騒がしくなった。


「リリアナ、おはよう」

「おはようございます、アレクシス様」


食堂に入ると、新聞を読んでいた夫が顔を上げ、当たり前のように私の頬にキスをする。

使用人たちが「あらあら」「まあまあ」と生温かい視線を交わすのも、もう慣れてしまった。


「今日のネクタイは、君が選んでくれないか」

「はい。昨日は青でしたから、今日はボルドーになさいませんか?」

「君が良いと言うなら、何色でも構わない」


彼は満足げに目を細め、私の腰に手を回す。

記憶を取り戻したアレクシス様は、以前の「鉄仮面」のような威圧感と、記憶喪失中の「甘えん坊」な性質が見事に融合していた。

つまり、威厳たっぷりに甘えてくるのだ。

一番始末が悪い。


「……旦那様。そろそろ離れていただかないと、出勤時間に遅れますよ」


副官のジェローム様が、呆れた声で割って入った。


「ジェロームか。……邪魔だ」

「邪魔と言われましても、会議は待ってくれません。さあ、行きますよ」


アレクシス様は不満げに私を一撫でしてから、ようやく立ち上がった。


「行ってくる。……夕方には戻るから、空けておいてくれ」

「はい。いってらっしゃいませ」


彼の背中を見送る。

以前なら、振り返りもせずに去っていった背中。

今は、廊下の曲がり角で一度立ち止まり、こちらを見て小さく手を振ってくれる。

それだけで、胸が温かくなる。


「……平和ですね、ジェローム様」

「ええ。屋敷の室温も安定していて何よりです」


ジェローム様は眼鏡を直しつつ、苦笑した。


「そういえば、耳に入っていますか? セリーヌ・バークレー嬢の話」

「セリーヌ様? いいえ」


あのデートの日以来、彼女の姿は見かけていない。


「遠方の伯爵家に嫁ぐことが決まったそうです。随分と急な話ですが……まあ、団長に喧嘩を売った代償としては軽い方でしょう」

「……そうですか」


アレクシス様が何か裏で手を回したのか、それとも彼女自身の自業自得なのか。

詳しくは聞かないことにした。

私にとって、もう彼女は脅威ではないからだ。


「では、私も参ります。……今夜は、期待していてください」

「え?」

「おっと、これ以上は団長に殺されますので」


ジェローム様は意味深にウインクをして、主人の後を追っていった。



夕刻。

アレクシス様は宣言通り、定時に帰宅した。


「着替えてくれ。出かけるぞ」

「どちらへ?」

「行けばわかる」


彼は少し強引に私をエスコートし、馬車に乗せた。

向かった先は、貴族街の高級レストラン……ではなく、城下町の広場だった。


「ここは……」


記憶喪失中にデートをした場所だ。

あの時は変装をしてお忍びだったけれど、今日は堂々と公爵家の紋章入り馬車で乗り付けている。


「降りよう」


彼の手を取り、地面に降り立つ。

夕暮れ時の広場は、オレンジ色の光に包まれて幻想的だった。

ガス灯に魔力の火が灯り始めている。


「……懐かしいな」

「まだ数週間前のことですよ」

「俺にとっては、一生分くらいの濃密な時間だった」


彼は私の手を握り締め、ゆっくりと歩き出した。

人々の視線が集まる。

そりゃあそうだ。

美貌の公爵様と、その妻が手をつないで歩いているのだから。

でも、彼はもう気にした様子もない。

セリーヌ様に絡まれたあの場所で、彼は立ち止まった。


「リリアナ」

「はい」


彼は私に向き直った。

その表情は、いつになく真剣で、そして少しだけ強張っていた。


「俺たちの結婚は、契約だった」

「……はい」

「家同士の利害が一致し、俺には妻という飾りが、君には公爵夫人という地位が必要だった。……そうだな?」


淡々とした事実に、胸が少し痛む。

始まりはそうだった。

冷たくて、味気ない契約書だけの関係。


「だが、今の俺は違う」


彼は私の手を取り、その場に片膝をついた。


「えっ、アレクシス様!?」


周囲からどよめきが起こる。

公爵様が、公衆の面前で跪くなんて。


「俺は、俺の意志で、君を妻にしたい」


彼は懐から、小さな箱を取り出した。

パカッ、と開かれる。

中には、見たこともないほど澄んだ、水色の魔石の指輪が収まっていた。


「俺の記憶が戻っても、君への想いは変わらない。むしろ、過去の俺が伝えられなかった分まで、深く君を愛している」


彼は私を見上げた。

アイスブルーの瞳が、夕陽を受けて揺れている。

そこには、私の姿だけが映っていた。


「リリアナ。……嘘の離婚協議は、もう終わりだ」

「……っ」

「俺と、本当の夫婦になってくれないか。契約ではなく、愛の誓いとして」


涙が溢れた。

視界が滲んで、彼の顔がよく見えない。


ずっと、欲しかった言葉。

私が「嘘」をついてまで、求めてしまったもの。

それが今、真実の言葉として目の前にある。


「……はい」


私は震える声で答えた。


「私でよければ……いえ、私がいいんです。あなたの隣は、私じゃなきゃ嫌です」

「ああ、勿論だ」


彼は安堵したように微笑み、私の左手に指輪を滑らせた。

サイズはぴったりだった。

いつの間に測ったのだろう。


指輪が嵌った手を見て、彼は満足そうに頷き、そして立ち上がった。


「愛している、リリアナ」


彼は私の腰を引き寄せ、人目もはばからず唇を重ねた。

周囲から拍手と口笛が聞こえる。

恥ずかしいけれど、今はそれすらも心地よかった。


「私も……愛しています、アレクシス様」


唇が離れた瞬間、私は精一杯の言葉を伝えた。

彼は嬉しそうに目を細め、私を強く抱きしめ返した。


空には一番星が輝き始めていた。

私たちの新しい物語が、ここからまた始まるのだ。



——それから、数年後。


「パパ! たかいたかーい!」

「よし、捕まっていろ」


公爵邸の庭園に、楽しげな声が響く。

銀髪の小さな男の子が、父親の腕の中で高く持ち上げられてキャッキャと笑っていた。


「あなた、あまり乱暴にしないでくださいね。レオンが怖がります」

「大丈夫だ。俺の息子だぞ、これくらいで泣くものか」


アレクシス様は息子を下ろすと、私の隣に座った。

その顔立ちは相変わらず美しいままだが、目尻には少しだけ柔らかな皺が増えている。


「……今日もいい天気ですね」

「ああ。君が笑っているからな」


彼は自然な動作で私の肩を抱き、頬にキスをした。

結婚して数年経つというのに、この人の溺愛ぶりは衰えるどころか加速している。


「パパとママ、またいちゃいちゃしてるー」


レオンが呆れたように言った。

誰に似たのか、ませた口調だ。きっとジェローム様のせいだろう。


「レオン、こっちへおいで」

「なあに?」


アレクシス様は息子を膝に乗せ、私と三人で寄り添った。


「パパはな、ママのことが世界で一番好きなんだ」

「しってるー。まいにちいってるもん」

「そうだ。だからレオン、お前は二番目だ」

「えー! ぼく、一番がいい!」


息子が頬を膨らませるのを見て、私たちは顔を見合わせて笑った。


庭には、あの時のように色とりどりの花が咲き乱れている。

泥だらけの花束から始まった、不器用な愛。

それは今、しっかりと根を張り、枯れることのない幸せの花を咲かせていた。


私は夫の肩に頭を預け、空を見上げた。

嘘から始まった恋が、こんなにも愛しい真実になるなんて。


「……幸せです、あなた」

「俺もだ、リリアナ」


繋いだ手から伝わる温もりは、これからもずっと変わらない。

そう確信できる穏やかな午後だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
リリアナさん、幸せになれて良かったね。でも公爵はヘタレの屑です。公爵がしっかりしてたら、はじめの不幸はなかったのに。
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