最終話 二度目のプロポーズ
公爵邸の朝は、騒がしくなった。
「リリアナ、おはよう」
「おはようございます、アレクシス様」
食堂に入ると、新聞を読んでいた夫が顔を上げ、当たり前のように私の頬にキスをする。
使用人たちが「あらあら」「まあまあ」と生温かい視線を交わすのも、もう慣れてしまった。
「今日のネクタイは、君が選んでくれないか」
「はい。昨日は青でしたから、今日はボルドーになさいませんか?」
「君が良いと言うなら、何色でも構わない」
彼は満足げに目を細め、私の腰に手を回す。
記憶を取り戻したアレクシス様は、以前の「鉄仮面」のような威圧感と、記憶喪失中の「甘えん坊」な性質が見事に融合していた。
つまり、威厳たっぷりに甘えてくるのだ。
一番始末が悪い。
「……旦那様。そろそろ離れていただかないと、出勤時間に遅れますよ」
副官のジェローム様が、呆れた声で割って入った。
「ジェロームか。……邪魔だ」
「邪魔と言われましても、会議は待ってくれません。さあ、行きますよ」
アレクシス様は不満げに私を一撫でしてから、ようやく立ち上がった。
「行ってくる。……夕方には戻るから、空けておいてくれ」
「はい。いってらっしゃいませ」
彼の背中を見送る。
以前なら、振り返りもせずに去っていった背中。
今は、廊下の曲がり角で一度立ち止まり、こちらを見て小さく手を振ってくれる。
それだけで、胸が温かくなる。
「……平和ですね、ジェローム様」
「ええ。屋敷の室温も安定していて何よりです」
ジェローム様は眼鏡を直しつつ、苦笑した。
「そういえば、耳に入っていますか? セリーヌ・バークレー嬢の話」
「セリーヌ様? いいえ」
あのデートの日以来、彼女の姿は見かけていない。
「遠方の伯爵家に嫁ぐことが決まったそうです。随分と急な話ですが……まあ、団長に喧嘩を売った代償としては軽い方でしょう」
「……そうですか」
アレクシス様が何か裏で手を回したのか、それとも彼女自身の自業自得なのか。
詳しくは聞かないことにした。
私にとって、もう彼女は脅威ではないからだ。
「では、私も参ります。……今夜は、期待していてください」
「え?」
「おっと、これ以上は団長に殺されますので」
ジェローム様は意味深にウインクをして、主人の後を追っていった。
◇
夕刻。
アレクシス様は宣言通り、定時に帰宅した。
「着替えてくれ。出かけるぞ」
「どちらへ?」
「行けばわかる」
彼は少し強引に私をエスコートし、馬車に乗せた。
向かった先は、貴族街の高級レストラン……ではなく、城下町の広場だった。
「ここは……」
記憶喪失中にデートをした場所だ。
あの時は変装をしてお忍びだったけれど、今日は堂々と公爵家の紋章入り馬車で乗り付けている。
「降りよう」
彼の手を取り、地面に降り立つ。
夕暮れ時の広場は、オレンジ色の光に包まれて幻想的だった。
ガス灯に魔力の火が灯り始めている。
「……懐かしいな」
「まだ数週間前のことですよ」
「俺にとっては、一生分くらいの濃密な時間だった」
彼は私の手を握り締め、ゆっくりと歩き出した。
人々の視線が集まる。
そりゃあそうだ。
美貌の公爵様と、その妻が手をつないで歩いているのだから。
でも、彼はもう気にした様子もない。
セリーヌ様に絡まれたあの場所で、彼は立ち止まった。
「リリアナ」
「はい」
彼は私に向き直った。
その表情は、いつになく真剣で、そして少しだけ強張っていた。
「俺たちの結婚は、契約だった」
「……はい」
「家同士の利害が一致し、俺には妻という飾りが、君には公爵夫人という地位が必要だった。……そうだな?」
淡々とした事実に、胸が少し痛む。
始まりはそうだった。
冷たくて、味気ない契約書だけの関係。
「だが、今の俺は違う」
彼は私の手を取り、その場に片膝をついた。
「えっ、アレクシス様!?」
周囲からどよめきが起こる。
公爵様が、公衆の面前で跪くなんて。
「俺は、俺の意志で、君を妻にしたい」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。
パカッ、と開かれる。
中には、見たこともないほど澄んだ、水色の魔石の指輪が収まっていた。
「俺の記憶が戻っても、君への想いは変わらない。むしろ、過去の俺が伝えられなかった分まで、深く君を愛している」
彼は私を見上げた。
アイスブルーの瞳が、夕陽を受けて揺れている。
そこには、私の姿だけが映っていた。
「リリアナ。……嘘の離婚協議は、もう終わりだ」
「……っ」
「俺と、本当の夫婦になってくれないか。契約ではなく、愛の誓いとして」
涙が溢れた。
視界が滲んで、彼の顔がよく見えない。
ずっと、欲しかった言葉。
私が「嘘」をついてまで、求めてしまったもの。
それが今、真実の言葉として目の前にある。
「……はい」
私は震える声で答えた。
「私でよければ……いえ、私がいいんです。あなたの隣は、私じゃなきゃ嫌です」
「ああ、勿論だ」
彼は安堵したように微笑み、私の左手に指輪を滑らせた。
サイズはぴったりだった。
いつの間に測ったのだろう。
指輪が嵌った手を見て、彼は満足そうに頷き、そして立ち上がった。
「愛している、リリアナ」
彼は私の腰を引き寄せ、人目もはばからず唇を重ねた。
周囲から拍手と口笛が聞こえる。
恥ずかしいけれど、今はそれすらも心地よかった。
「私も……愛しています、アレクシス様」
唇が離れた瞬間、私は精一杯の言葉を伝えた。
彼は嬉しそうに目を細め、私を強く抱きしめ返した。
空には一番星が輝き始めていた。
私たちの新しい物語が、ここからまた始まるのだ。
◇
——それから、数年後。
「パパ! たかいたかーい!」
「よし、捕まっていろ」
公爵邸の庭園に、楽しげな声が響く。
銀髪の小さな男の子が、父親の腕の中で高く持ち上げられてキャッキャと笑っていた。
「あなた、あまり乱暴にしないでくださいね。レオンが怖がります」
「大丈夫だ。俺の息子だぞ、これくらいで泣くものか」
アレクシス様は息子を下ろすと、私の隣に座った。
その顔立ちは相変わらず美しいままだが、目尻には少しだけ柔らかな皺が増えている。
「……今日もいい天気ですね」
「ああ。君が笑っているからな」
彼は自然な動作で私の肩を抱き、頬にキスをした。
結婚して数年経つというのに、この人の溺愛ぶりは衰えるどころか加速している。
「パパとママ、またいちゃいちゃしてるー」
レオンが呆れたように言った。
誰に似たのか、ませた口調だ。きっとジェローム様のせいだろう。
「レオン、こっちへおいで」
「なあに?」
アレクシス様は息子を膝に乗せ、私と三人で寄り添った。
「パパはな、ママのことが世界で一番好きなんだ」
「しってるー。まいにちいってるもん」
「そうだ。だからレオン、お前は二番目だ」
「えー! ぼく、一番がいい!」
息子が頬を膨らませるのを見て、私たちは顔を見合わせて笑った。
庭には、あの時のように色とりどりの花が咲き乱れている。
泥だらけの花束から始まった、不器用な愛。
それは今、しっかりと根を張り、枯れることのない幸せの花を咲かせていた。
私は夫の肩に頭を預け、空を見上げた。
嘘から始まった恋が、こんなにも愛しい真実になるなんて。
「……幸せです、あなた」
「俺もだ、リリアナ」
繋いだ手から伝わる温もりは、これからもずっと変わらない。
そう確信できる穏やかな午後だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




