表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶喪失の夫に「離婚協議中」と嘘をついた結果  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 嘘つき妻と、リセットされた夫

王都中央病院の廊下は、消毒薬と微かな魔力ポーションの匂いが混じり合っていた。


コツ、コツ、とヒールの音が響く。

私は努めて冷静に、けれど急いでいるように見える足取りを意識して歩いた。


すれ違う看護師たちが、私を見てひそひそと囁き合う。


「あれが公爵夫人?」

「旦那様が運ばれたっていうのに、随分と落ち着いていらっしゃるわね」


ええ、聞こえています。

でも、取り乱す演技なんて私にはできそうにない。


私の夫、アレクシス・ヴァレンシュタイン公爵。

この国の筆頭魔導師団長であり、「氷の魔導師」とあだ名される男。


彼が演習中の事故で頭を打ち、意識不明になったと連絡を受けたのは一時間前のことだ。

その報せを聞いたとき、私の心に浮かんだのは「心配」よりも先に、「ああ、やはり」という冷めた納得だった。


彼は仕事の虫だ。

家庭のことなど顧みず、常に魔獣討伐やら魔法研究やらに没頭していた。

いつかこうなることは、予想できていた。


「奥様、こちらです」


病室の前で待っていたのは、夫の副官であるジェローム様だった。

眼鏡の奥の瞳が、私をじっと観察するように見つめている。


「団長の意識は戻りました。ただ……」

「ただ?」

「少々、混乱されているようでして」


ジェローム様は言い淀むと、意味深に扉を開けた。


「ご自身でお確かめください」


私は小さく息を吸い込み、病室へと足を踏み入れた。


白いベッドの上。

包帯を頭に巻いた男が、窓の外をぼんやりと眺めていた。

銀色の髪が、午後の陽射しを浴びてキラキラと輝いている。


その横顔は、彫刻のように整っている。

悔しいけれど、いつ見ても見惚れてしまうほど美しい造形だ。

中身が鉄の塊でさえなければ、どれほど良かっただろう。


「……あなた」


私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

その瞳の色は、澄んだアイスブルー。

いつもなら、私を射抜くように冷たく、厳しく細められているはずの目。


けれど今は、どこか幼い子供のように無防備に開かれていた。


「……君は?」


彼の唇から紡がれた言葉に、私は瞬きをした。


「リリアナです。あなたの妻ですが」

「妻……?」


彼は眉を寄せ、自身の掌を見つめ、また私を見た。

視線が私の顔から首筋、ドレスのラインへと彷徨う。


医師が進み出て、私に耳打ちをした。


「奥様。実は、外傷による一時的な記憶障害が見られます。ご自身の名前や魔法の使い方は覚えておられるようですが、ここ数年の出来事が抜け落ちているようで」

「数年……つまり、私との結婚生活も?」

「ええ。おそらくは」


医師は気の毒そうに眉を下げた。


「徐々に回復するとは思いますが、無理に思い出させようとしてはいけません。精神的な負担は、魔力暴走の引き金になりますから」


そう言って、医師とジェローム様は「二人で少しお話しください」と部屋を出て行った。


パタン、と扉が閉まる。

重苦しい沈黙が落ちた。


私はベッドの脇にある椅子には座らず、少し離れた場所に立ったまま彼を見下ろした。


アレクシスは、まじまじと私を見つめている。

その視線に、いつものような威圧感はない。

むしろ、珍しい動物でも見るような、純粋な好奇心を感じる。


(記憶がない……)


その事実を反芻するうち、私の胸の奥で、どす黒くて甘美な感情が鎌首をもたげた。


これは、チャンスなのではないか?


三年間。

政略結婚で嫁いでから今日まで、私は「公爵家の飾り」だった。

彼は私に指一本触れず、会話といえば業務連絡のみ。

記念日も誕生日も無視され、使用人たちからも「愛されていない奥様」と陰口を叩かれる日々。


何度も離婚を考えた。

でも、真面目な父や母に心配をかけたくなくて。

「公爵家に嫁いだのだから」という責任感だけで、耐えてきた。


けれど、彼が私のことを忘れているのなら。

私たちの関係が「白紙」に戻っているのなら。


(終わらせられる)


この地獄のような冷え切った生活を、私の言葉一つで終わらせることができる。


心臓が早鐘を打つ。

喉が渇く。

悪いことだとわかっている。

弱っている病人につけ込むなんて、卑怯だ。


でも、このまま彼の記憶が戻るのを待って、またあの「空気のような扱い」に戻るなんて、もう耐えられない。


私は拳を握りしめ、唇を震わせながら口を開いた。


「……アレクシス様」

「ああ」

「あなたは、私のことを覚えていないのですね」

「すまない。君のような美しい女性を忘れるなんて、信じられないが」


さらりと、彼は言った。

美しい?

そんなお世辞、三年間で一度も聞いたことがない。

記憶を失うと、人はこうも変わるものなのか。


動揺を押し殺し、私は勝負に出た。


「無理もありません。私たちは……その、あまり良い夫婦関係ではありませんでしたから」


彼はわずかに目を見開いた。


「そうなのか?」

「はい。政略結婚でしたし、性格も合いませんでした。あなたは仕事がお忙しく、家にはほとんど帰られませんでしたし……」


そこまでは事実だ。

嘘ではない。

ここからが、私の人生を賭けた大嘘だ。


私は視線を伏せ、悲しげな演技をした。


「実は、事故に遭われる前から、私たちは離婚の話し合いをしていたんです」


言った。

言ってしまった。


部屋の空気が凍りついたように感じる。

私の心臓の音だけが、耳障りに響く。


彼は黙っている。

怒るだろうか。

それとも、「そうか、なら話は早い」と納得するだろうか。

後者であってほしい。

記憶がないなら、面倒な妻などさっさと手放したいはずだ。


「……離婚」


彼が低く呟いた。

その声のトーンに、私はびくりと肩を震わせた。

やはり、嘘は見抜かれたのか。

それとも、不快にさせたか。


恐る恐る顔を上げると、彼はベッドの上で身を起こそうとしていた。


「危ないです! 安静にしていないと……」


私が駆け寄ろうとした瞬間。

ぐい、と腕を引かれた。


「え?」


世界が反転する。

気づけば、私はベッドの縁に引き寄せられ、彼に至近距離で見つめられていた。


彼の大きな手が、私の手首をしっかりと掴んでいる。

熱い。

火傷しそうなほど、体温が高い。


「あ、あの、アレクシス様?」

「嘘だ」


彼は短く言った。

心臓が止まるかと思った。


「う、嘘ではありません! 私たちは本当に……」

「俺が、離婚に同意していた? あり得ない」


彼の瞳が、至近距離で私を捕らえて離さない。

そこにあるのは、かつての氷のような冷たさではない。

もっと熱くて、重くて、必死な光だ。


「なぜ、そう言い切れるのですか。記憶がないのに」

「記憶などなくてもわかる」


彼は私の手首から手を滑らせ、指を絡めてきた。

恋人同士がするような、親密な指の絡め方。

三年間、一度もされたことのない接触に、全身が粟立つ。


「俺は、君に一目惚れしている」


「…………は?」


私は間の抜けた声を漏らした。

今、この人は何を言った?


「一目惚れだ。間違いなく」

「な、何を根拠に……」

「根拠? 今、君を見た瞬間の俺の反応だ」


彼は真顔で、とんでもないことを言い出した。


「目が覚めて、君が入ってきたとき、心臓が跳ねた。なんて好みの女性なんだと思った。触れたいと思ったし、閉じ込めたいと思った」


彼は私の手を引き寄せ、その甲に唇を押し当てた。

ちゅ、と音を立てて口づけを落とす。


「ひっ……!」


悲鳴を上げて手を引っ込めようとしたが、彼の力は岩のように強固で、微動だにしない。


「そんな俺が、君を手放す話し合いをしていた? ……過去の俺は気が狂っていたのか? いや、たとえ狂っていたとしても、本能がそれを許すはずがない」


彼はアイスブルーの瞳をすがめて、唸るように言った。


「離婚などしない。絶対にだ」


計算外だった。

完全に、想定外だ。


記憶を失った彼は、理性的で冷徹な公爵様ではなく、欲望に忠実な野獣になってしまっていたのだ。


「で、でも! あなたは私のことを『飾り』だと……」

「誰が言った? 過去の俺か? なら、そいつを今すぐ殴りに行きたい気分だ」


彼は本気で悔しそうに顔を歪めた。


「信じてくれ、リリアナ。今の俺にとって、君は飾りじゃない。……俺の全てだ」


その言葉の響きは、あまりにも甘くて、重かった。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


こんな言葉、ずっと待っていた気がする。

でも、違う。

これは「私のアレクシス様」の言葉じゃない。

記憶を失った、別人のような彼の、一時的な迷言だ。


「……混乱されているだけです。少し頭を冷やしてください」


私はなんとか手を振りほどき、逃げるようにベッドから離れた。

頬が熱い。

嘘をついた罪悪感と、不意打ちの求愛による動揺で、頭がぐちゃぐちゃだ。


「医師を呼んできます。……失礼します!」


私は背を向け、早足で病室を出た。

背中に、熱っぽい視線が突き刺さるのを感じながら。



数日後。

アレクシスの退院が決まった。


医師からは「自宅療養で様子を見ましょう」と言われたらしい。

私は内心、ほっとしていた。

屋敷に戻れば、部屋は別々だ。

広い公爵邸なら、顔を合わせずに生活することも可能だろう。

そうやって時間を稼ぎつつ、また離婚の機会を窺えばいい。


病院の玄関前には、公爵家の馬車が待機していた。

御者が扉を開けてくれる。


「では、私は別の馬車で……」

「なぜだ?」


背後から声がして、振り返る間もなく腰を抱かれた。


「きゃっ!?」


アレクシスだ。

私服に着替えた彼は、包帯こそ痛々しいものの、その美貌と威圧感は健在だった。

いや、以前よりも距離感がバグっている分、威圧感の種類が違う。


「ふ、不仲なので別々に馬車に乗るほうが良いのではありませんか?」

「不仲?夫婦なら、一緒が自然だろう」

「不仲解消の努力をする、と言ったはずだが」


彼は問答無用で私を抱き上げると、そのまま馬車の中へと押し入った。


「ちょ、降ろして……!」

「発車しろ」


彼が短く命じると、御者は「はっ」と返事をして鞭を振るった。

馬車が動き出す。


狭い密室。

隣には、大きな体の男。

彼は当然のように私の肩を抱き寄せ、隙間なく密着してきた。

太ももが触れ合っている。

彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。


「近い……近いです、アレクシス様」

「リリアナ」

「はい?」

「名前で呼んでくれ。敬語もいらない」

「そんな、急に言われても……」

「俺は呼ぶぞ。リリアナ、リリアナ」


彼は楽しそうに私の名前を繰り返し、私の髪を一房すくい取って指で弄び始めた。


「いい名前だ。口にするだけで甘い味がする」


私は顔を真っ赤にして、窓の外へ視線を逃がした。


どうしよう。

私、とんでもない怪物を起こしてしまったのかもしれない。


嘘から始まった離婚計画。

けれど、この「リセットされた夫」は、私が想像していたよりもずっと厄介で、そして……どうしようもなく魅力的だった。


揺れる馬車の中で、私は強く握られた手を、どうしても振りほどくことができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ