第1話 嘘つき妻と、リセットされた夫
王都中央病院の廊下は、消毒薬と微かな魔力ポーションの匂いが混じり合っていた。
コツ、コツ、とヒールの音が響く。
私は努めて冷静に、けれど急いでいるように見える足取りを意識して歩いた。
すれ違う看護師たちが、私を見てひそひそと囁き合う。
「あれが公爵夫人?」
「旦那様が運ばれたっていうのに、随分と落ち着いていらっしゃるわね」
ええ、聞こえています。
でも、取り乱す演技なんて私にはできそうにない。
私の夫、アレクシス・ヴァレンシュタイン公爵。
この国の筆頭魔導師団長であり、「氷の魔導師」とあだ名される男。
彼が演習中の事故で頭を打ち、意識不明になったと連絡を受けたのは一時間前のことだ。
その報せを聞いたとき、私の心に浮かんだのは「心配」よりも先に、「ああ、やはり」という冷めた納得だった。
彼は仕事の虫だ。
家庭のことなど顧みず、常に魔獣討伐やら魔法研究やらに没頭していた。
いつかこうなることは、予想できていた。
「奥様、こちらです」
病室の前で待っていたのは、夫の副官であるジェローム様だった。
眼鏡の奥の瞳が、私をじっと観察するように見つめている。
「団長の意識は戻りました。ただ……」
「ただ?」
「少々、混乱されているようでして」
ジェローム様は言い淀むと、意味深に扉を開けた。
「ご自身でお確かめください」
私は小さく息を吸い込み、病室へと足を踏み入れた。
白いベッドの上。
包帯を頭に巻いた男が、窓の外をぼんやりと眺めていた。
銀色の髪が、午後の陽射しを浴びてキラキラと輝いている。
その横顔は、彫刻のように整っている。
悔しいけれど、いつ見ても見惚れてしまうほど美しい造形だ。
中身が鉄の塊でさえなければ、どれほど良かっただろう。
「……あなた」
私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
その瞳の色は、澄んだアイスブルー。
いつもなら、私を射抜くように冷たく、厳しく細められているはずの目。
けれど今は、どこか幼い子供のように無防備に開かれていた。
「……君は?」
彼の唇から紡がれた言葉に、私は瞬きをした。
「リリアナです。あなたの妻ですが」
「妻……?」
彼は眉を寄せ、自身の掌を見つめ、また私を見た。
視線が私の顔から首筋、ドレスのラインへと彷徨う。
医師が進み出て、私に耳打ちをした。
「奥様。実は、外傷による一時的な記憶障害が見られます。ご自身の名前や魔法の使い方は覚えておられるようですが、ここ数年の出来事が抜け落ちているようで」
「数年……つまり、私との結婚生活も?」
「ええ。おそらくは」
医師は気の毒そうに眉を下げた。
「徐々に回復するとは思いますが、無理に思い出させようとしてはいけません。精神的な負担は、魔力暴走の引き金になりますから」
そう言って、医師とジェローム様は「二人で少しお話しください」と部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
重苦しい沈黙が落ちた。
私はベッドの脇にある椅子には座らず、少し離れた場所に立ったまま彼を見下ろした。
アレクシスは、まじまじと私を見つめている。
その視線に、いつものような威圧感はない。
むしろ、珍しい動物でも見るような、純粋な好奇心を感じる。
(記憶がない……)
その事実を反芻するうち、私の胸の奥で、どす黒くて甘美な感情が鎌首をもたげた。
これは、チャンスなのではないか?
三年間。
政略結婚で嫁いでから今日まで、私は「公爵家の飾り」だった。
彼は私に指一本触れず、会話といえば業務連絡のみ。
記念日も誕生日も無視され、使用人たちからも「愛されていない奥様」と陰口を叩かれる日々。
何度も離婚を考えた。
でも、真面目な父や母に心配をかけたくなくて。
「公爵家に嫁いだのだから」という責任感だけで、耐えてきた。
けれど、彼が私のことを忘れているのなら。
私たちの関係が「白紙」に戻っているのなら。
(終わらせられる)
この地獄のような冷え切った生活を、私の言葉一つで終わらせることができる。
心臓が早鐘を打つ。
喉が渇く。
悪いことだとわかっている。
弱っている病人につけ込むなんて、卑怯だ。
でも、このまま彼の記憶が戻るのを待って、またあの「空気のような扱い」に戻るなんて、もう耐えられない。
私は拳を握りしめ、唇を震わせながら口を開いた。
「……アレクシス様」
「ああ」
「あなたは、私のことを覚えていないのですね」
「すまない。君のような美しい女性を忘れるなんて、信じられないが」
さらりと、彼は言った。
美しい?
そんなお世辞、三年間で一度も聞いたことがない。
記憶を失うと、人はこうも変わるものなのか。
動揺を押し殺し、私は勝負に出た。
「無理もありません。私たちは……その、あまり良い夫婦関係ではありませんでしたから」
彼はわずかに目を見開いた。
「そうなのか?」
「はい。政略結婚でしたし、性格も合いませんでした。あなたは仕事がお忙しく、家にはほとんど帰られませんでしたし……」
そこまでは事実だ。
嘘ではない。
ここからが、私の人生を賭けた大嘘だ。
私は視線を伏せ、悲しげな演技をした。
「実は、事故に遭われる前から、私たちは離婚の話し合いをしていたんです」
言った。
言ってしまった。
部屋の空気が凍りついたように感じる。
私の心臓の音だけが、耳障りに響く。
彼は黙っている。
怒るだろうか。
それとも、「そうか、なら話は早い」と納得するだろうか。
後者であってほしい。
記憶がないなら、面倒な妻などさっさと手放したいはずだ。
「……離婚」
彼が低く呟いた。
その声のトーンに、私はびくりと肩を震わせた。
やはり、嘘は見抜かれたのか。
それとも、不快にさせたか。
恐る恐る顔を上げると、彼はベッドの上で身を起こそうとしていた。
「危ないです! 安静にしていないと……」
私が駆け寄ろうとした瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
「え?」
世界が反転する。
気づけば、私はベッドの縁に引き寄せられ、彼に至近距離で見つめられていた。
彼の大きな手が、私の手首をしっかりと掴んでいる。
熱い。
火傷しそうなほど、体温が高い。
「あ、あの、アレクシス様?」
「嘘だ」
彼は短く言った。
心臓が止まるかと思った。
「う、嘘ではありません! 私たちは本当に……」
「俺が、離婚に同意していた? あり得ない」
彼の瞳が、至近距離で私を捕らえて離さない。
そこにあるのは、かつての氷のような冷たさではない。
もっと熱くて、重くて、必死な光だ。
「なぜ、そう言い切れるのですか。記憶がないのに」
「記憶などなくてもわかる」
彼は私の手首から手を滑らせ、指を絡めてきた。
恋人同士がするような、親密な指の絡め方。
三年間、一度もされたことのない接触に、全身が粟立つ。
「俺は、君に一目惚れしている」
「…………は?」
私は間の抜けた声を漏らした。
今、この人は何を言った?
「一目惚れだ。間違いなく」
「な、何を根拠に……」
「根拠? 今、君を見た瞬間の俺の反応だ」
彼は真顔で、とんでもないことを言い出した。
「目が覚めて、君が入ってきたとき、心臓が跳ねた。なんて好みの女性なんだと思った。触れたいと思ったし、閉じ込めたいと思った」
彼は私の手を引き寄せ、その甲に唇を押し当てた。
ちゅ、と音を立てて口づけを落とす。
「ひっ……!」
悲鳴を上げて手を引っ込めようとしたが、彼の力は岩のように強固で、微動だにしない。
「そんな俺が、君を手放す話し合いをしていた? ……過去の俺は気が狂っていたのか? いや、たとえ狂っていたとしても、本能がそれを許すはずがない」
彼はアイスブルーの瞳をすがめて、唸るように言った。
「離婚などしない。絶対にだ」
計算外だった。
完全に、想定外だ。
記憶を失った彼は、理性的で冷徹な公爵様ではなく、欲望に忠実な野獣になってしまっていたのだ。
「で、でも! あなたは私のことを『飾り』だと……」
「誰が言った? 過去の俺か? なら、そいつを今すぐ殴りに行きたい気分だ」
彼は本気で悔しそうに顔を歪めた。
「信じてくれ、リリアナ。今の俺にとって、君は飾りじゃない。……俺の全てだ」
その言葉の響きは、あまりにも甘くて、重かった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
こんな言葉、ずっと待っていた気がする。
でも、違う。
これは「私のアレクシス様」の言葉じゃない。
記憶を失った、別人のような彼の、一時的な迷言だ。
「……混乱されているだけです。少し頭を冷やしてください」
私はなんとか手を振りほどき、逃げるようにベッドから離れた。
頬が熱い。
嘘をついた罪悪感と、不意打ちの求愛による動揺で、頭がぐちゃぐちゃだ。
「医師を呼んできます。……失礼します!」
私は背を向け、早足で病室を出た。
背中に、熱っぽい視線が突き刺さるのを感じながら。
◇
数日後。
アレクシスの退院が決まった。
医師からは「自宅療養で様子を見ましょう」と言われたらしい。
私は内心、ほっとしていた。
屋敷に戻れば、部屋は別々だ。
広い公爵邸なら、顔を合わせずに生活することも可能だろう。
そうやって時間を稼ぎつつ、また離婚の機会を窺えばいい。
病院の玄関前には、公爵家の馬車が待機していた。
御者が扉を開けてくれる。
「では、私は別の馬車で……」
「なぜだ?」
背後から声がして、振り返る間もなく腰を抱かれた。
「きゃっ!?」
アレクシスだ。
私服に着替えた彼は、包帯こそ痛々しいものの、その美貌と威圧感は健在だった。
いや、以前よりも距離感がバグっている分、威圧感の種類が違う。
「ふ、不仲なので別々に馬車に乗るほうが良いのではありませんか?」
「不仲?夫婦なら、一緒が自然だろう」
「不仲解消の努力をする、と言ったはずだが」
彼は問答無用で私を抱き上げると、そのまま馬車の中へと押し入った。
「ちょ、降ろして……!」
「発車しろ」
彼が短く命じると、御者は「はっ」と返事をして鞭を振るった。
馬車が動き出す。
狭い密室。
隣には、大きな体の男。
彼は当然のように私の肩を抱き寄せ、隙間なく密着してきた。
太ももが触れ合っている。
彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
「近い……近いです、アレクシス様」
「リリアナ」
「はい?」
「名前で呼んでくれ。敬語もいらない」
「そんな、急に言われても……」
「俺は呼ぶぞ。リリアナ、リリアナ」
彼は楽しそうに私の名前を繰り返し、私の髪を一房すくい取って指で弄び始めた。
「いい名前だ。口にするだけで甘い味がする」
私は顔を真っ赤にして、窓の外へ視線を逃がした。
どうしよう。
私、とんでもない怪物を起こしてしまったのかもしれない。
嘘から始まった離婚計画。
けれど、この「リセットされた夫」は、私が想像していたよりもずっと厄介で、そして……どうしようもなく魅力的だった。
揺れる馬車の中で、私は強く握られた手を、どうしても振りほどくことができなかった。




