禍水隠し ‐カミカクシ‐
水は繋がっている。水の中は理の違う世界だ。
底知れぬ闇が永遠と広がるかの如く、水底の見えぬ果てを想像した事はあるか。深き青に恐怖を覚える理由を考えたことは?
皆、本能的に知っている。だから怖い。それは最も身近な異世界だと――。
生活の必術品であり、今や創作物の中でも大活躍な水。
妖怪や悪魔が夢物語となった現代でまことしやかに語られる噂話があった。長年使った物品が呪物になるように、一定以上集まった水にも不思議な力が宿るというものだ。
(夜間のプールサイドに出没する幽霊部員、海に潜む恐竜、灯りを消して風呂に入ると水面に運命の相手が見える、6月6日6時に○○トンネルを抜けたら赤い雨が降る……)
タブレットで暇つぶしにオカルト関係の掲示板を流し見る。
別に信じちゃあいない。こんなのは底の見えない恐怖や、妄想、面白半分な作り話の反映でしかないと考えていた。実際、決定的な瞬間を映した心霊動画は稀だ。
「ねえ、聞いた? 行方不明だった先輩の話」
「ちょっと前に帰って来たんだよね」
「うん。でもなーんか様子がおかしいの」
歩きながら話す女子達の声が聞こえてくる。
「どんなふうに?」
「目が虚ろっていうか。顔色も超悪いんだ~」
「それもう病院行ったほうがいいんじゃ……」
「どうだろ。私は禍水隠しに遭ったと思ってるから」
「なにそれ」
聞こえたのはここまでだ。なにやらオカルトチックな単語が出ていた。
興味本位で検索する。一般的な「神隠し」の記事から幾つもの類似案件が並ぶ。彼女らが言っていたのはどれだろうと思い目を滑らせていく。
「似たような内容ばかりだな」
つい独り言を呟いてしまう。小声だったし気にする事はないか。
「よう、何見てるんだ。見せろよ」
「なんだよ急に」
友人が話しかけてきて手元のタブレットを覗く。
「調べものか。好きだな、こういうの」
「別にいいだろう」
「神隠しってまた民族的な……」
理由を聞いて来るので隠さず話す。それを聞いて、友人は合点が言ったように画面を流し一点を示した。きっとコレの事だろうと。
開かれた頁を読む。また水関連か。第一印象はこんなだった。
読み進めていくと、確かに神隠しをもじった雰囲気がある。でも細かな部分が違う。一番の相違点は水に限定した現象ということだ。
「やっぱりよくあるオカルトじゃん」
「いやいや、結構怖くね?」
一定以上集まった水には力が宿る。禍水隠しは底知れぬ水の内側が異世界に通じているというもの。触れると引き込まれ戻って来れない。でも相性があるらしい事まで書いてあった。
底が見えないほど危険度が増し、唐突に起こるので回避し辛いのだ。
「こんなのは怪談でも何でもない。水難さ」
足をつったとか、溺れた恐怖とかそういうの。
記事には相性が悪ければ、帰ってくるが水に支配され人が変わってしまうとある。それこそ、ますます迷信くさい。
「言うけどさ~。最近雨多いし暑いから水浴びしたくなるだろ。気をつけなよ」
「そっちも。舐めた格好で海や川で遊ばないようにね」
準備もなく水遊びして遭難し、禍水隠しと言われるなどバカみたいだ。
間抜けを晒さぬよう友人にも忠告しておく。不幸な事故が面白恐ろしく後世に語り継がれるのは悲しい。自分達はそうなりたくないと思った。
連日と雨が降り、時々晴れまが射して、曇天でも蒸し暑さが続いた。
虫やカエルが昼夜鳴く季節。どんなに警戒してても水溜まりとは離れられない。海、川、プールに行きたくなるのは止められないものだ。
これからの時期、被害者が増えてしまうのだろうか。深い意味などなく考える。
「まあ、関係ないか」
自分は絶対に大丈夫だ、という根拠のない自信があった。
(水に関連する怪談は珍しくない。溺れるっていう恐怖でしかないんだ)
でもふとした時に見つけた水溜まりに目を向けてしまう。
雨上がりはそこかしこに溜まり場はあるし、器に溜めた水をぼんやり眺める事だって。怖いもの見たさかもしれない。信じちゃあいないのに考えてしまうのだ。
「ないない。あり得ない」
1人の時、つい見つめていた事を自覚して呟く。
だいたい雨が降った日の川には誰も近づかないだろう。増水してて危ないから。幼い子供じゃあるまいし、事故に遭うなんて考えも及ばなかった。
慢心していたと言えなくもない。あまりに唐突の出来事だった。
夜、晴れた月明りの下。急にコンビニへ行きたくなって歩いていた時だ。走ってくる車を避けようとして水溜まりを踏み抜く。道幅の都合で他に避けようがない。
気がつくと見知らぬ薄闇の中にいる。次いで息苦しさを感じてごぼごぼと口から泡が溢れ出す。
(お、溺れるッ)
必死に手足を振り乱して藻掻く。肌に水が揺れる感触が触れた。
(――光!)
やや上のほうに光が見えて水面だと思う。当然目指す。
ゆらゆらと丸く揺らめく光は月だろうか。とにかく急いで上がらないと。苦しくて限界だったが気力を振り絞って身体を動かした。上へ、上へ。
(くそっ、いつまで)
しかし幾ら進んでも距離が縮まらない。近づく気がしなかった。
「ぐ、ごぼぼ……」
口から最後の泡が零れ出て水が入ってくる。
身体の感覚が意識と共に薄れていく。不思議なことに身体は向かっていた方向に沈んでいくようだ。ようやく光が近づき始めた。
やがて光は分裂し、全貌が鮮明さを得ていく。同時に目は見開かれた。
(そん、な……)
無数の光がギョロリとこちらを凝視している。
ぬっと何かが伸びてきて、薄れる意識と合わせ視界は闇に包まれていった。
☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂
ナイトプールの片隅で1人溜め息交じりに黄昏ていた。
(気分転換に来た筈がかえって落ち込む)
選択を間違えたと後悔した時には後の祭り。
さっさと撤収するかとも考えたが、料金分はいないと勿体ない気もしている。我ながらバカバカしいと思うがこれも性分だ。
ちょっと行き詰って気分を変えるつもりだった。
プールを選んだのは単純に暑いからで特に意味はない。綺麗な夜光風景でも見れば気持ちが明るくなると考えたが失敗したと思う。
(空しい。なんで1人で来ちゃったのよ)
「――って、誰かを誘う気にもなれないか」
自問自答しては苦笑する。幻想的でファンタジーな雰囲気なのに全然心が躍らない。感覚がマヒしてしまったのか。
気持ちを切り替えたくとも、盛り上がれない自分に物悲しさが増すばかり。
「もう少し落ち着いた所にでも行こ」
自分を促すように零し灯りの少ない所へ移動した。
キラキラした場所を避けるみたいで、なんだか根暗だなと感じつつ水に足を入れる。ちょうど陰になっているので水面は暗い。だから慎重に身体を入水させた、筈だった。
「わっ!?」
不意打ちで反応できず、控えめな声を発して沈む。運よくどこも打つ事なく水中に入れたけど……。
(ムリムリムリ、深いっ)
足がつく気配がない。こんなに深かったっけ?
咄嗟に瞑っていた瞼を開ける。すると我が目を疑った。あまりにも場違いな、いや奇想天外な景色が視界いっぱいに広がっていたからだ。
(綺麗)
竜宮城が実在するならこんな感じだろうか。
艶やかな魚や岩や珊瑚、天然とも人工物とも見える建物。底が見えるのに明るい。紗幕の如く光が揺れている。一瞬、現実を忘れていた。しかし――。
「ごぼごぼっ」
思わず口を開きかけ慌てて手で押える。危ない、ここは水中だ。
自覚した途端に息苦しさを覚えた。出口を求めて視線を彷徨わせ上を見ると、ぼんやりナイトプールらしき風景が映っている。
でもすぐに気配を感じて視線を下へ。
光の紗幕の奥から泳いでくる人影があった。近づくにつれ、ソレが人でない事に気づく。
(あ、これ夢だ。ついに想像が行くトコまで行ったかぁ)
尾ヒレを持つ人を見て直感する。きっと自分は端から出かけてなどいなかったのだ。物凄く疲れ切っていたし、机か、ベッドか、とにかく家で寝落ちたに違いない。
無意識の願望が目の前に現れたようでおかしかった。この息苦しさは何かの演出か。溺れる夢などは大概そういうものだろう。
(ん? なに)
目前まで来た人魚が卵型の果実を差し出してくる。
(歓迎でもしてるのかな。食べろってこと?)
人魚が手と口の動きで食べるよう促していた。
見た感じでは純粋な悪夢とは言い辛い。息苦しい以外は恐怖要素がないのだ。それ故、軽い気持ちで促されるまま果実を人齧りする。
「あ、息苦しくなくなった。――え、水中で声出せる!?」
凄い、と飾らない驚きが言葉にして出た。ちょっと感激だ。
『さあ、行こう』
遊びに誘うような所作で人魚が先を泳いでいく。
なんだか楽しくなってきて後を追う。最初は速度に追いつけなくて手を引いて貰った。でも徐々に身体が慣れて来たのか。その内に手を引かれずとも並んで泳げるまでに――。
「魚みたいに泳げるって結構楽しい。なんだか楽園みたいだ」
『ほら、あっちに美味しい果物がなってるよ』
「本当?』
『うんうん。向こうには可愛い魚や綺麗な玉があるの』
「いいね、それ。いこいこ』
一緒にいろいろな場所へ行く。見れば見るほど、触れれば触れるほど、懐かしさと離れがたさが心の奥底から溢れて消えない。久しぶりに時間を忘れて遊んだ気分だ。
こんな楽園があったなんて。もっと早く来ればよかったとさえ思う。いや?
『楽しかった? ……でも、そろそろ帰らないとだよね』
「帰る、そうだね。えっとどこに』
『もしかして忘れちゃった?』
人魚が心配そうに見つめてくる。けど考えるまでもない。
「大丈夫。忘れる訳ないじゃん』
『じゃあ、1人でも帰れるね』
そういう人魚に力強く頷いた。親しい友を安心させるように。
去って行く背中を見送り、なんとはなしに上を見上げる。そこには反射するかの如く見知らぬ世界が映っていた。
(ああ不吉。異界の月を見続けると禍水隠しに遭うんだっけ)
思わず身震いして視線を戻す。惑わされてはいけない。
強い意志で水を蹴り、己のアシで迷わず光のたなびく水流を歩く。
『さ、お家に帰ろ』
☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂ ☂
嵐の日はとても気分が高揚して水鰻を駆って遊んでいた。
いい感じに蒼流が折り重なって、それを乗りこなすのは楽しい。無事攻略すると誇らしい気になるしスリルだって味わえる。個々に性格や癖の違う水鰻は挑戦する意欲をそそられた。
でも、その日は運が悪かったのだ。いつも通りに嵐へ駆り出て事故に遭うなんて――。
「キュイーンッ」
『どうしたんだ!?』
(おかしい。水鰻は滅多なことで鳴かないのに)
急に流れが変わった。弾かれて身体が浮き上がる。
問答無用で投げ出される感覚。珍しく恐怖を感じた。なぜだ。これまでなら蒼流が入り乱れていようと乗りこなせたのに……。
『身体が、引っ張られる!』
必死に逆らいつつ足元を見る。そこには不吉な円光が輝いていた。
『わあぁぁぁっ』
結局、最後は流れに負けて引き寄せられ意識が飛んだ。
遠くで声が聞こえる。そんな気がして、何かが触れた感じがして瞼を開けた。
肌に触れる感触が気持ち悪い。何度か咳き込むと背中をさすられる。誰だ、と思い頭を上げて視線を滑らせた。
「よかった。無事だったんだな」
歳の近そうな顔が覗き込んできて怪訝に眉を顰める。
「こんな日に何してんだよ。つーか、今までどこに行ったんだ」
『どこって?」
声を発してみてまた咳き込む。なんだこれ、喉が渇く。
「まさか覚えてねーの? ずっと探してたんだぞ」
(探してただと。お前なんて知らねーよ)
反論したかったが正直喉が辛い。必要最低限にするか。
介抱しながらあれこれと話す男の話に耳を傾ける。言葉が通じるのは幸いだ。おかげで段々読めてきた。どうやらコイツは知り合いと勘違いしているらしいな。
(顔や声で別人と気づかないのか。どれだけ似てるんだ)
状況は不可思議だが、帰り道がわからない以上話を合わせるか。
「とにかく家だな。いや、まずは病院か」
『ん? そ、だな」
度々咳き込むのを心配されながら病院とやらに行く。
随分と面倒見のいい奴だ。信用にまでは至らないが適当に合わせるだけは助かる。その後もよく知らない単語が飛び交い、言い淀んでいる内に相手が早合点してとんとん拍子に事が進む。
困った時はひとまず覚えてないで通した。不思議なくらい疑われなくて怖いほどだ。しばらく療養し、学校というのに行くまでになる。
最初の内は意味不明であったが、やがて自分が禍水隠しにあったと気づく。
同時にいろいろ困った事も明確になってきた。第一が体調不良だ。とにかく崩れやすくて周囲からは病弱などと言われる。
(異世界に来た弊害だよな。どう考えても)
気候が、環境が肌に合わない。声出しは慣れてきたが、喉が渇いて痛むので長く話し続けるのは厳しい。なにより全身が干からびるようで気持ち悪かった。
いつの間にか二股に分かれていたアシは最初こそ痛んだ。でも走るのはキツイ。身体が重いしカラッカラで体力が持たないのが現実だった。おかげでずっと顔面蒼白で死んだ魚の如し。
「今日も果物だけか。いつから小食になったんだよ」
「むしろこんな乾いた日に食えるほうがおかしい」
「どっちかというと蒸し暑いだろ」
最初の頃と変わらず馴れ馴れしい男。その手元を見て更に気分が萎える。
(そんなパサパサした物よく食えるな。余計に喉乾くだろう)
他の連中は最初だけ親し気に近づいてきた。
皆人が変わったと言って離れていく。それ自体は特に気にしてない。誰も彼も知らない顔ばかりで、あの頃は帰り道を探すのに必死だったから。
でも、さすがに悟った。もう帰れないのだと。この知らない場所で朽ち果てる運命なのだ。
嵐の日に何度か、最初にいた海岸という場所へ行った。
飛び込みもしたけど帰れない。奇行を繰り返しているように見えたらしく、今ではこの友人(仮)の男がしつこくつき纏って来る。
「では、次のニュースです」
店のテレビにふと気になるものとが映し出される。
なんとなく目を向けた瞬間、死にかけた気持ちが潤っていく心地がした。
「おお、すげっ。アレ本物かな。海龍じゃん」
「何言ってんだよ。水鰻だろ……」
(間違いない。アイツはあの日乗っていた――)
「は? 今なんて言ったの」
「別に。もう行くわ」
「おい、まだ食い始めたばっかだろ!」
本当に久しぶりに身体が軽いと感じる。何をするにも億劫な手足がよく動く。
乾いた空気が容赦なく喉を、身体を焼くが気にしない。空はいい具合に曇っていたが雨はなかなか降って来なかった。いっそ降ってくれればもっと動きやすいのに……。
(今なら。今あそこに飛び込めばきっと帰れる!)
こんな生き辛い世界にこれ以上いたくない。
流れ着いた異世界は酷く乾いていて、苦しくて、知らない事ばかりで。なんと恐ろしい場所なのだろう。光明が見えた途端に溢れ出す思いが止められなかった。
(アイツが呼びに来たんだ)
必死に走って海までたどり着く。後先考えずに青い水面へ向かって行き。
途中で荒々しく引き留められる。それでも、いや今だからこそ、一番の力を振り絞ってその身を深い水の闇中へと投じるのだった。
‐ 終わり ‐
お読み頂き、ありがとうございました。