スノードーム
雪が、頭上に積もっている。
私の頭の上より4センチ高いところにギッシリ積もっている。
頭上に雪が積もってるなんてどうかしている。
まるで重力が反対になったみたいだ。
こんなおかしな現象は北海道に行ったって、ロシアに行ったって、南極に行ったって、起こるはずがない。
だからおかしくなったのは、私を囲う小さな世界そのもののようだった。
見上げると雪は、薄い雲のように広がっていて、ぼんやりと浮かぶ虹色だった。そう。虹色の雪だ。こんな雪も珍しいだろう。
けれど一つ注意しておきたいが、私の世界がおかしくなったから雪が虹色になったわけではない。この世界の雪は初めから虹色なのだ。とても厳粛に輝いていて美しいのだ。
しかし、もう降ってはくれない。
かつては何度も何度も降り注いだ虹色の雪は、沈黙して頭の上で固まっている。
それに今ではその輝きも捉えることが出来ない。
なぜなら、この世界はとても暗いのだ。
かつては文明の光を沢山に浴びて、子供たちが無邪気に笑っていた光景をずっと眺めていたのに、今ではその一切合切がない。
埋め尽くす闇、闇、闇。真っ暗だ。
外の世界で雪が降る光景も見たことがある。
窓枠の中を美しい結晶がいくつもハラリハラリと落ちていく様は、私に憧れを抱かせた。
私の世界に降らない雪に興味を持った。
あんなに白く美しい雪を手に取ってみたい。
誰だってそう思うはずだ。
今となっては叶わない夢にはなるかもしれない。
「おうい、あんたまだいるか?」
ふと暗闇のどこかから声が聞こえた。
「ひょっとしてその声は、緑服のじいさんか?」
私は応えた。
「その通り、俺だよ。赤服の旦那!なんだ、まだ生きてたのかい」
緑服の声は不思議な抑揚で弾んでいる。
この男の癖なのだ。
私は変わらない緑服の様子になんだか嬉しくなった。
「それはこっちのセリフだ。今更どうしたい?やれ、一年前の反省会以来じゃないかい?」
私が言うと、緑服はかっかっかっと笑った。
「そうさね。暫くぶりだ。あんな暗い反省会なんて思い出したくねえんでその話はやめにしようさ」
「確かにそれが良いとも」
私も笑った。
少しの沈黙の後、緑服はまた声を上げた。
「よう、旦那。雪は降ってるかい?」
「冗談だろう。頭の上で固まってるよ。あんたはどうだい?」
「どうもこうもないや。顔の横で固まってますや!」
「なんだ反省会の時とてんで変わってないじゃないか!」
「そらそうだ!この一年で変化なんてないさ!」
私たちはまたかっかっかっと笑い合った。
今度の笑いは乾いていた。
「あんた、まだ坊主のことを思い出すかい?」
急に緑服が神妙な声で言った。
「思い出す日と、思い出さない日があるね。けれど、思い出さなくても良いのは確かだよ」
「そうかぁ」
それっきり緑服は黙ってしまった。
昔、緑服は私と一緒にあの家にやってきた。
坊主を含めて兄弟は三人。
「あの時は楽しかったなぁ」
つい口に出してしまい、緑服に聞こえてしまってないかと咄嗟に口をつぐんだ。
緑服は何も言わなかった。
坊主は三兄弟の末っ子だった。末っ子だが、兄に負けないくらい元気で、活発さは兄弟随一だった。
私、赤服と緑服、金服が家にやってきた時、坊主は真っ先に赤服の私を選んだ。
兄の一人も私を選んで喧嘩になったが、坊主は私を掴んで走り去ってしまった。
私は思わず笑ってしまった。
無論、坊主には気付かれないように心の中で盛大に笑った。
それから一つの冬を越え、次の季節を迎え、私たちは部屋の片隅にて何年も過ごした。
坊主が大きくなった時、坊主はまた私を掴んだ。
久しぶりだった。私たちは彼らの成長を見守るだけでも幸福だったのに、坊主はまた私を掴んだ。
さて、どこに連れて行かれるのだろうと私は思っていた。
そこから先は闇だった。
闇に置かれ、次第に光は薄い線となり、消えていった。
それから光は見えない。
正確には数度ほど感じたがそれも一瞬のうちだった。
私はひどく重い気持ちになった。思い出したくなかった。光がある生活。
その時。
よもやこのタイミングとは何と運命の悪戯であろうか。光は再び開かれた。神々しい光だ。
「あれー、グローブどこだっけ?」
これは坊主の声だ。
「旦那!末の坊主だ!」
緑服がどこかで叫ぶ声が聞こえた。
間違いない。
少し成長して変わってしまったけど、あれは坊主の声だ。
ガサガサという音が聞こえる。
その音に合わせてわずかに私の世界も振動する。
「旦那!ようやくまた光がある生活に戻れるんでさ!」
「ああ、もう一度戻れるかもしれない」
外の世界はまた雪が降っていた数年ぶりに見える白い雪に私は歓喜する。
「旦那、私またあのお兄に会いてえ!またあの子の生活を見守りたいよ!そしたら旦那また」
ガチャン!
破砕音が響いた。
「うわ、やっべ、落としちまった」
男は割れたガラスを眺めてため息をつく。
「なんでこんなところに置いとくんだよ。あーあ、しかもこれ兄貴のやつじゃん」
男は落ちたそれを足でザッザッと払って物置の端にやる。
「っし、水の跡はすぐ消えるな。つーかグローブはどこなんだよ」
男は再び物置の棚を漁り、汚いグローブを見つけ出した。
物置は閉じられ、スノードームはわずかに傾く。
中の虹色の雪が丸みに沿って、さささと音もなく流れる。
外では今年初めての雪が降り始めていた。