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藤野のはなし  作者: 藤野彩月
第2章
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いい子⑥

 「あぁ、分かってるさ。」

女の言葉に、うろたえることなく男は答えた。

 「コホン…そうだな、今の君はかなり混乱していると見える。とても急な知らせを聞いて、それでも何とか必死で冷静さを保とうとしているが、どうやらその……自分で言うのも何だが君は自分が思っているよりかなり僕を…好きでいてくれたんだ……ね?さっきから見てると君は2つの感情の間で葛藤しているようだ。」

 「……。」

 言葉は選んでいるものの、まるでカリスマ占い師にでもなったかのような澱みない口ぶりで男は語る。その一方で顔は真面目だった。女は何も言えなかった。自分が目隠しされた状態で道に迷っている間に、彼は既に先回りして目的地にたどり着いているように思えた。

 男の話す事が事実かどうかはさておき、女は素直になれなかった。そして囁かな抵抗として、次の質問を投げかけた。


 「じゃぁ、その2つの感情が何と何かあててちょうだい。」

 男は少し照れ笑いをしながら、答えた。

 「言わせる気かい?これもちょっと恥ずかしいが、たぶんこうだろう。『この男が結婚すると言うのだから、私は大人しく身を引こう』と言う感情。一方でもう一人の君は…『別れたくない、他の誰にも渡したくない、ずっと私のそばに居てほしい。』と言う感情。違うかい?』


 「……!!」


 女は眉をひそめ、目を見開き、閉じていた口は何かがこみ上げるのを必死で抑えるように揺らいでいた。そして正面にいる男から顔を背け、片方の手のひらで顔の下半分を覆った。直後に男の背後にある側溝に近寄ると、そこで前屈みになった。もはや我慢の限界だ。目頭が熱い。

 

 女は嘔吐を催したのではない。口元は相変わらず一文字を結んだままだった。その代わりに目と鼻がダメになってしまった。目元から黒い液体が流れ落ちていくのがわかった。こんな醜い顔を見せるわけにはいかない。女はしばらく男に背を向けたまま。へなへなと側溝の前にしゃがみこんだ。

 どのくらいそうしていただろう。ようやく感情も、顔の様子も落ち着いてきた頃、女はハンドバッグからポケットティッシュを取り出して後始末をした。せっかくのメイクも落ちてしまったが、夜中だし、この際無様な姿を見られても構わないと思って後ろを振り返ると―


 男の姿がなかった。


 女は不思議と絶望感は湧かなかった。取り乱そうと言う気さえ起らなかった。むしろ崩れた顔を見せずに済んだと言う安堵感の方が強かった。

 

 (やっぱりね。)

 

 女の心にはそれしか感想が思いつかない。パートナーとこういう形で別れたのはこれが初めてではないのだ。みんな最後の言葉さえ交わすことなく都合が悪くなれば邪魔になった自分を置いて立ち去っていく。特に今回の場合は先ほどまで優しい言葉をかけた後にちょっと後ろを向いた隙に消えたのだから、むしろ今までの出来事は自分の悪い夢だったのかと思ったくらいだ。

 女は男と向かい合った、元の場所へ戻ると、塀を後ろに、また静かにしゃがんで考えた。

 (もし彼といつものBarで戯れたことも、私を公園まで連れ歩いたことも、他の女との結婚報告も、全てが嘘なのだとしたら、なぜ私はここにいるの?今夜の久々の連絡は何だったの?)

 のろのろと、コートからスマホを取り出してみる。アプリには確かに彼からの誘いのメッセージがあった。そこからさらに遡ると、できるだけ絵文字や顔文字を使わないようにしたため、文だけを見ると不機嫌に見える女の短文と、男による、まるで昭和の手紙のような文面のメッセージがあった。男は自分からメッセージを送るときは律儀に時候の挨拶から始まり、最後には必ずと言って良いくらい彼の名前があった。そんなことしてくれなくったって、アイコンを見ればわかるのに。逆に女の方はスタンプだけで返信を送り、それで終えているものもあった。


 (君がこんな反応をするなんて正直、戸惑ってるんだ。)


 立ち去る前に放った、男のこの言葉を何度も思い出してみる。怒っているわけじゃないと言っていたが、怒っていないのと迷惑ではないのとはまた勝手が違う。いや、「戸惑っている」からして彼は今の今まで女から真剣に愛されていたなんて思ってもみなかったのだろうか。彼がどれほどの女性経験があるのか考えたことがない、と言うよりも考えたくなかったのだが、自分よりずっと長く生きてきたならありのままの言葉ではなく仕草や表情で自分を愛していることをとっくにわかっていそうなものだ。


 (結局、彼にとって私はいくらでも替えが効くそこらへんの女に過ぎなかったのね。あんなに耳障りの良いことを言っていたけど。でも昔の私も汚父達に対してそう思っていた。ただ彼のようにここまでのことはしなかった。第一面倒くさかったもの。)


女はこう考えながら、それでもどこか淡い期待を抱いて男が戻って来るのを待った。暗い、狭い路地裏に1人でファーのコートに身を包んでしゃがんでいる様は捨てられたペットの様だった。ところが―


―クシュン!!


5度あるかないかの気温の中、男が言っていたようにここにいると風邪をひきかねない。

決めた。休み休み自分で歩こう。もう今更彼に優しくしてもらおうなんて甘えたことしない。

女は自分を奮い立たせながら、すっくと立ち上がった。まだ足が少し痛むが、構わない。痛かったら脱げば良い。


おぼつかない足取りだったが、今度は女自身の足で光の方向へ進み始めた。

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