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藤野のはなし  作者: 藤野彩月
第2章
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いい子⑤

 遂に感情をぶつけてしまった。

 溢れ出る涙を見せまいと女は立つことなく目を地面に落とした。愛憎をテーマとしたドラマによくある「捨てられた女」のポーズ。絶対マネしたくなかったのに。


 男は咥えていた煙草をベンチの傍にあるスタンド灰皿に捨てて、言った。


 「…わかった。」

 

 (嫌われるようなことしちゃった...。でももう戻れない。早く私の元から去って。)

 女は男にテレパシーを送るように強く念じた。


 すると、女の目の前にある物が差し出された。彼のクランチバッグだ。

 「ちょっと、これ持ってて。」

 「?」

 

 フワッ


 女は一瞬、身体が宙に浮いたかと思うと、男の体温に包まれた。

 

 「さぁ、行こうか。」

 男は女の身体を、いわゆる「お姫様抱っこ」していた。

女の鼻に、未だ残る紫煙といつものフェンネルのフレグランスの香りが撫でる。一緒に夜を過ごす際は、よくこうしてベッドまで運んでくれた。


「君は華奢で細身なのはよーくわかっているが、そのコートを着ているし、こちらはなにぶん老体なものでね。途中で休憩させてもらうかもしれないよ。」

こう言うなり、男は公園を出発して細い路地裏に入った。この先を行けば大通りに出るのだ。


着衣ではあるが、2ヶ月ぶりに男の身体に包まれた女は、男の対応による戸惑いとさらなる喪失感で顔を男の胸にうずめた。

(どうして?どうして言う通りにしてくれないの?なぜこんなに優しくするの?お前みたいな女子供に優しくしてやってるって暗に示してるの?)

男の厚い胸板も、襟元から僅かに見える鎖骨も、首元も、この位置から見るのはこれが最後なのか。明日からこの風景が見られなくなるくらいなら、もう何も見えなくなってしまいたい。


細い道は、大人2人も並んで歩けないくらい狭くなっていった。それでも男は息が乱れることなく無言で歩き続けた。

200mほど進むと、小さな街の灯りが遥か先に見えた。大通りが近づいて来たのだ。あそこに出れば、タクシーを捕まえるのもわけはない。

しかし、今の女にとって街の光は死と同様に恐怖そのものだった。大通りに出る5歩手前に来れば、彼は女を下ろし、また元の様に離れて歩き出すのだろう。

(できることなら彼とずっと、陽の当たらない場所にいたい。そうなったら人目を全く気にすることなく愛し合える。どんなに広く明るいと言っても、2人を引き裂くだけの光なんていらない、消えてしまえばいい!)


女の思いを知っているのかいないのか、男は歩くのをやめなかった。


「お願い……おねがいっ!!」

男の胸にしがみついたまま、女は声をあげた。

「どうした?」

男は目線を胸元に落としてひっそりと、低い声で尋ねた。


 「…一旦下して。もう裸足で歩くなんて言いません。」

 哀願する声で女は言った。男の顔を見ながら。

 それなのに、近い距離にあるはずの男の顔がぼやけて見えない。

 

 「ここでかい?まだ通りに出るまでだいぶあるが。」

 「いいの。」

 女に言われて、男はゆっくりと腰を落とし、抱いている腕を緩めた。

 

 「疲れたでしょう?少し休憩しましょう。どうぞ一服なさって。」

 男にクランチバッグを返すと路地の塀にもたれて、女はいつもの調子で(と、女はそのつもりだった)冷静を装って男に言った。

 

 「……。」

 聞こえていないのか、男はシガレットケースを出すことなく黙って女の左隣に立ち、塀に片足をつけてもたれた。

公園で女にとどめを刺す前と同じように、何か考えている様子だった。しかしそれは女の今の心情を思いやっているのか、早く別れたいのになかなか解放してくれないことに閉口しているのかは、わからない。

 

 隣の彼は、誰にも渡さない。相手の女がどう思おうと、私の知った事ではない。


 女は本気でそう考えていた。強がりでもなんでもなく、どうすれば男を引き留められるか、なにか有用な方法はないかと思考の糸を張り巡らせていた。が、それは何とも頼りないものだった。実際のところ、ここで野宿しながら暮らすのはどう考えても現実的ではないし、陽が昇るのを止めることなど、神様でもない限り土台無理な話だ。しかし、女ができないと考えているのはそんな物理的なこと以前のものからだった。やはり私も甘ったるい正義感や道徳心とやらのためにそこらへんの凡人同様ここで諦めてしまうのか。この窮状を見事大逆転できてこそ、「転んでもタダでは起きない女」として、その他大勢のモブに嫉妬と羨望の眼差しで自分の勇姿を眺めさせてやれるのに。


 現に今、この狭い路地裏には女と男の2人しかいない。後にも先にも人の気配は一切ない。

 今だ。今しかチャンスがないのだ。ここで彼を押し倒して妊娠に持ち込ませなければ、永遠に逆転の矢を掴むことなどないのだ。


 気が付くと、女は恐る恐るではあるが、男の方へ手を伸ばしていた。払い除けられるかもしれないという恐怖に抗うかのように。

 

あと数センチで男の腰辺りに届くという時…


女よりずっと素早く、男の右手が女の左手を包み込んだ。それは何の指輪もはめられていない、身軽な手。


すると、男は塀から離れて女の正面に立った。

彼女の濡れた顔を指の腹でゆっくりと丁寧に拭ってやる。

彼の微かな温もりが、女の顔の表面にも感じ取れた


「…君がこんな反応をするなんて、正直戸惑ってるんだ。おっと、勘違いしないでくれ。怒っているわけじゃないよ。」

「?」

「やはり多少の人目があろうとも、いつものホテルに行けばよかったね。いや、かえって君を不幸にしてしまうかもしれないな。でも大丈夫。君は素敵でまだ若いから、僕よりもっと若くて良い男が…。」

「やめて!!」

女の悲鳴にも似た声が、男の最後の言葉を遮った。


「ずるい、ずるい。さっきからずっとあなたばっかり。私にも喋らせて。私あなたの人形じゃないの。ちゃんと心があるし、あんまり良くはないけど脳みそだってちゃんと入ってるの。もし私を一人の女として見てくれてるなら、私が今何を考えているのか当ててみてよ。『悲しい』とか『ムカつく』とかそんな単純なのはナシね。」


再び女の視界は二重にも三重にもぼやけてしまっていた。

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