いい子④
男が右手の指の間にシガレットを持ち、煙を吐く度に顔を上げる姿は、女にとってたまらなくセクシーだった。今日は彼が密かに持ち合わせている色気が、灯りによるシルエットと相まって、いつもより際立っているように見えた。彼が被っているソフト帽と古い蛍光灯の薄暗さで表情を窺い知ることはできないが、今はそれで良い。
どんな顔をしていようと、どの道もう二度とこの男の横顔を独り占めすることはできない。
『これで最後にしようと思う。』
男のこの宣言から、女を愛人にするつもりもないようだった。
遅くとも陽が昇れば、二人きりでいることもできなくなるのだ。
(私がもっと素直になっていればこんなことにはならなかったの?綺麗になったって言うけど、それならもっと私と一緒にいたいって思うんじゃないの?誰だって美人と結婚したいはずでしょう?なんて矛盾したことを言うの!?それともあなたの結婚相手は私よりもっと上等な女なの?)
女の喉元には嗚咽と共にこのような言葉がこみあげて来たが、それでも我慢して抑え込んだ。
男に無理やり意思撤回させようとイヤイヤをするのはブスのすることだ。
煙草がちょうど半分の長さに差し掛かったころ、男は女の方をみた。
「タクシー呼ぼうか?」
「……。」
答えない代わりに、女は後ろに背けていた顔を戻して体ごと正面を向いた。
「もうお邪魔はできないが、せめて家まで送らせてくれ。歩けない人魚姫をここに放っておくわけにもいくまい。」
女は何も言わないまま首を左右に振った。
「だけどいつまでもここにいると風邪をひくよ。それでもいいの?」
確かに男の言う通りだった。Barを出た時から寒かったのに建物の間に挟まれているこの場所は尚更凍える。なのに、女はさっきと同じ反応を示した。
「困ったちゃんだね。君は。」
男はため息をついた。
「お.....せて?」
「えっ何?」
女の不明瞭な言葉に、男は少しびっくりして耳を傾けた。
「お相手の写真、よかったら見せて?」
「あぁ、それならお易い御用さ。ほれ。」
何のためらいもなく男はスマホを取り出した。少々の照れも交えながら。
スマホの中には、彼とその妻となる女のツーショットがあった。
写真を見るなり、女はさっきまでの、いわゆる「大人の女」ではなくなった。
結婚相手はメイクをしていても顔のシワを隠しきれないほどの年増だった。むしろ彼と同じ年代のようだった。
(何!?なんなのこのバケモノ!)
驚いた女は目を見張った。
この世で彼を最も愛しいる自分を押しのけて(と、女は勝手にそう決めつけた。)、自分の最高のパートナーを奪った老女。
若く、美しく、自分の方が大きな可能性を持っているのが悔しくて、彼に結婚を半ば強制した憎き女(これも女の根拠なき決めつけである。)。
「へへ...どうかな?」
さっきの気まずそうな様子とはうってかわって、男は半ば笑いながら目の前の若い女に尋ねた。
「…そうね、お二人共お似合いだわ。ありがと。もういいわ。」
女の頭の中は失恋の悲しみから醜い感情に変わっていきつつあった。
白馬の王子様と信じてやまなかった彼が他の女のものと、否が応でも知った今でも、女は素直に引き下がることなどできなかった。何より女は相手の写真を見せてとねだっておきながら、男がすんなり見せてくれたことも気に食わなかった。本当に私の気持ちを知っていたのなら、少しは躊躇してくれたっていいではないか。
(失恋したら泣くだけ泣いて別の男を見つけろ。)
(今更素直に自分の気持ちを伝えるだけ無駄。ここは黙って引き下がるのが本当の愛。)
(大丈夫!時間が経てば何ともなくなるよ!)
女は世にあふれるこんな腐りきった自慰行為さながらの言葉が大嫌いだ。
(こんなセリフが平気で言える人間は、よほどヌクヌク育ちのお花畑か他人に1mmも関心を抱いたことのない奴なのだろう。私が一番彼を幸せにできる自信があるから一生懸命愛したのだ。この世界中の人間全員に嫌われたとしても、彼だけが、唯一彼だけが私を愛してくれると言ってくれれば、赤の他人がどれほど阿鼻叫喚しようと怒り狂おうと構わない。
私が傷つき泣いている様を見て慰め言葉を言われても耳が腐る。それにそんなことを軽々しく言う奴らは純粋に私を思ってと言うよりは自分より不幸な者にマウントをとって自己満足を得たいだけのカスとしか思えない。どうしても彼を奪いたい!訴えられてもいい!金ならいくらでもアテがある!!慰謝料請求がこわくて尻尾巻いて逃げるようなら最初から彼のことなんか愛してないのも同じ!!泣き寝入りするくらいなら何もかも壊してしまいたい!あの女もろとも!!)
女は頭が痛くなるほどの嫉妬に駆られた。
「私、歩きます。」
女は立ち上がった。何事もなかったかのように。
「どうしたんだ、突然。」
「家まで送ってくれなくていいわ。まだ若いからタクシーなんか乗りません。」
女は突っぱねる。
「でもその靴じゃ足が…。」
「歩きたいの!!」
女の怒った声に、男は一瞬びっくりしたが、次の展開は予想していた。
勇ましく歩こうとしたものの、女は引きずった歩き方の末5歩も進まず、バランスを崩して転んだのである。
「言わんこっちゃない。」
男は呆れていた。
「…裸足で行くわ。」
女は眉一つ動かすことなく言った。
「やめなさい!」
今度は男が諫めた。
「どうして!あなたの事を思って目の前から消えようとしてるのよ!それに私が裸足で外を歩くなんてこれが初めてなんかじゃない!なのになんでこの期に及んであれこれ言うの!」
女の目には必死で抑えていたものが光っていた。