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藤野のはなし  作者: 藤野彩月
第2章
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いい子③

そこは裏寂れた公園だった。

公園と言っても、半畳しかない湿った砂場と所々錆がきている滑り台一台があるだけの、粗末な広場だった。


およそ半世紀前に高度経済成長とベビーブームに則って造られたものの、その後需要がなくなり、今では存在すら忘れられた場所。


それとは対照的に、資産家として年老いてもなお昼夜問わず多くの人々から尊敬と羨望の眼差しを浴び続けている、目の前の彼。


「えぇ、歩き過ぎて疲れたもの。」

女は何も考えず即答する。

「すまなかったね。こんなに歩かせて。」

男はエスコートしようと女に手を差し出したが、女は丁寧に断った。


2人はベンチに腰掛けた。頭上には、この公園唯一の灯りが立っていた。橙色の古いタイプの電灯のため、互いの表情ははっきりと見えない。


男は右隣に座った女を見ず、顔は少し俯いていた。何やら悩んでいる様子で、少し脚を広げて両手を組み、ひとたび天を仰いだかと思えばまた視線を地面の方へ戻した。

 

 「どうしたの?さっきから様子、変よ?あまり無理しない方がいいんじゃない?」

 女は震える声で声をかけ、男の右肩に触れた。酒豪である彼がいつもの酒一杯で寡黙になるなんて今まで見たことがない。


 「ああ、大丈夫、大丈夫。俺もすっかり耄碌しちまった。」

 男は気丈に答え、肩に触れた女の手を優しく握る。

 「お話はまた今度にして、今からでも家に帰ってお休みになったら?私タクシー呼ぶわ。」

 女がコートのポケットからスマホを取り出すより先に、男の腕が彼女の右肩を抱いた。そのまま男は口を女の耳元に近づけて、言った。

 「いや、今じゃなきゃ…ダメなんだ。」

(ずるい男。老人アピールしておいてすぐけしかけてくるんだから。)

女はコート越しに触れられた大きな手の感触と耳元で囁かれたことで全身の官能的な震えを感じた。

微かな心の距離を感じていても、身体は正直だった。


やがて男は女の方を向いて居住まいを正した。

 「実は…今夜急に君を呼び出したのは、他でもないお互いにとって大事な、大事な話がしたかったんだ。だけど…正直…いつものあの店は君にとっても、僕にとっても良い印象のままにしておきたかった。」

男は慎重に言葉を選びながら、時折視線を逸らして前口上を述べた。

 「……どういうこと?話が全く見えないんだけど。」

 「あぁ、そうだろうね。実はかなり迷っていたんだ。本当ならいつものようにホテルとか、僕がよく通う個室制の所の方が良かったのは重々わかってる。だが…どこで誰が見てるか分からないし、個室の店はビジネスでもよく利用するから、だから…その…行けなかった。人気がないとは言えこんな無粋な場所で申し訳ない。こんな場所、君には似合わないね。だから、言うよ。」

 

 「…ええ。」女は静かに頷く。


 「実は、この度結婚()()()()()()()()んだ。」

 

(する…ことになった?やっぱり彼、酔いがまわってるわ。ちゃんと「()()()()()()()()()()」と言えないなんて。)


人は自分が最も聞きたくない事柄を聞かされる時、耳が都合のいい響きに変化させてしまう。防衛本能が働くためだろうか。


 「結婚…するの?」

 女からの問いに男は無言で首を縦に振った。

 「ここにはいない、(ひと)と?」

 「ああ、そうだよ。」

 男はあっさりと認める。残酷なまでに。


 結婚。

 たとえ場所が高級ホテルのスイートルームであっても、汚物や使い込んだ避妊具の散らかった公衆便所であっても、女が目の前の愛する彼から聞きたかったのは、確かに「結婚」と言う言葉だった。しかし、その言葉に余計な尻尾がついてしまっては、どうしようもない。

 女が彼と出会ってから今夜のBarにいた時まで思い描いていた明るい未来は、今この瞬間に黒い灰と化してしまったのである。


 「……。」


 女の心に一切の感情は湧かなかった。この続きに最適な返事が思い浮かばないのだ。

 これまで多くのロクデナシの男達から金を引き出すために心にもない愛想を言ったことはある。しかし最愛の人ならば話が違う。今のこの女にとって嘘でもお祝いの言葉を述べるのは至難の業だった。そもそも愛する人にそんな薄っぺらい祝福をするなどそれこそ不誠実ではないか。

 

 「……今夜は、冷えるね。」

 

 女の心を見透かしたのか、男は返事を促すことなく、固まってしまった女の両手を握った。

 

 「これだけは言わせてほしい。僕は今まで片時も君のことを忘れたりなんかしなかった。本当だよ。さっきの店で綺麗になったって言ったのも決してお世辞なんかじゃない。だから、このまま黙って去ろうか一時は考えた。君の持つ未来と僕の残りの未来の量は全く違い過ぎるからね。でも、コソコソ逃げる真似はしたくなかった。」


 女はプイと顔を背けた。男の言葉に幻滅したのではない。

 女は生まれて初めて「心のナイフ」で刺された心地を味わっていたのだ。刺さった瞬間は何も感じないが、少し時間が経過してから血が流れ出ているような気がした。滝のように絶えず流れ出る心の血は、どんな応急処置も施せない。女が過去に受けて来た幾千もの単なる中傷ならとっさにそれ以上の反撃を喰らわせられるのに。今回はそんな気力さえ失っていた。


 「そういうことで、君と会うのもこれで最後にしようと思うんだ。」

 「……。」

 女は依然、微動だにしないままそっぽを向いたままだった。


 男は何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。そして少し女から離れた。


 カチン


重い空気に穴を開けるように、高い金属音が鳴り響いた。


 気休めだろうか。男は再び正面を向いて紫煙をくゆらせていた。

本当はBarでのひと時と同じように顔に触れたかったが、女の心情を汲んで自重したのだ。


 その頃、ライターの音に気付いた女は密かに横目で男の様子を見ていた。

 なぜなら、女は男が煙草を吸う仕草が大好きだったからだ。

  喫煙可能な暖かいBarではなく、寒く荒れたこの場所で今日初めて見たのが憎たらしいけど。

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