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藤野のはなし  作者: 藤野彩月
第2章
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いい子⑩

 (どっちみち、あなたは私とこれからもつながる気はないのね。)

 それでも女はまだまだ知りたいことがいっぱいあった。しかし、それを男に聞いてもまたさっきのように飄々とした調子でかわすのだろう。

 

 少しの間があった。

 次の瞬間、男は女に微笑むと、自らの右腕を女の背中に回して静かに抱き寄せた。


 「正解だ。その通りだよ。君はやっぱりいい子だねぇ。いい子だよぉ。」

 男は抱いたまま、女の長い髪をクシャクシャに撫でた。

 それはまるで、飼い犬を褒めるような仕草だった。


 (『いい子』?なんなの?そのガキにも通用するような呼び方は。やっぱり私のこと『女』として見てなかったのね!この期に及んでキスの一つもしてくれないなんて!)

 反発する意思を表そうと女は男の首筋に嚙みつこうとした。甘噛みではなく本気の。しかし女は男より30cmほど背が低かったので、いくらヒールを履いていたとしても立ったままで行うのは難しい。どう頑張っても彼の鎖骨辺りにしか口元が届かない。それ以前に女は男の肩で窒息しそうなくらい強く抱かれていたので、実際には顔を彼の肩から首の根元の辺りでモゾモゾ動かす事しか叶わなかった。


 「んっ…、んっ…。」


 じれったくなった女は上半身をジタバタさせながら、無意識のうちに男の首元に向かって喘いでいた。


 溺れる、溺れる。つい二カ月前まで二人はベッドの上でお互いの想いを密かに、激しくぶつけ合っていたのに、今は抱き合うことさえままならない。女はこの状況に抗うかのように、あの時の感覚を取り戻そうと躍起になっていた。


 「さっきからどうした?そんなことをされたらこっちの気がおかしくなるじゃないか。」

 何も知らない男は困り顔で女を肩から離した。

 「だって…。」

 目的が果たせなかった女はできるだけ男に目元を見られないように顔を伏せる。

 「……何もしないまま、私を…帰す気?私がどれだけあなたを…思っていたかもうわかったでしょう?それに…この2カ月の間、私誰とも寝なかったし、会いもしなかったの。好きじゃないヤツと会っても疲れるだけで楽しくないんだもん。本当に。あなたは『そんなのお前の勝手だろ』って思うんだろうけど、事実だからしかたないの。今夜限りで私達の仲が終わるなら、もう連絡しないから最後に思い出ちょうだ…いえ、ください!」

 言いながら女は既に男の両肩に腕をかけた。男からの最後の本能と情熱を受け入れる準備を整えていた。狙い通り男は女の両頬に触れた。そう、それでいい。今から二人は理性を捨てて全てをぶつけるのだ。


 そのつもりでいた。


 「……?」


 微かな温もりが女の額をかすめた。しかし、その後は何も起こらなかった。

 「今まで本当にありがとう。…ごめんね。」


 男は勝手にピロートークを始める。

 あまりにもあっけない思い出だった。男は女の額にキスをしただけで、それ以上の行為に及ぶ気がなかった。欧米のドラマで見かけるような、どんな関係の相手にも通用するような挨拶程度のキスだった。


 「…これだけ?もう、私じゃ感じなくなっちゃったの?」

 (あの(おんな)はそんなに()()()の?)と言いたいところを抑え込んで、女は尋ねた。

 「そんな、とんでもない。僕だってかなり抑えてるんだよ。そのコートがなければどうなっていたかわからない。」

 男は首を振って否定する。

 「そう…それならお言葉に甘えて。」

 わずかな希望が見えたと感じた女は、道端にバッグとガーベラを置き、着込んでいるコートに手をかけた。


 バサッ


 厚みのある大きなファーのコートは女の背後に滑り落ちた。冷たい夜風が露わになった肩を撫でる。無論これで終わる気はない。女は自分の後ろに手を回した。しかし―


 「言ったはずだ。『こんな場所、君には似合わない。』と。」

 女は重く、低い声に驚いて顔を上げた。

 

 そこには、背中のジッパーを下す直前の、女の腕を掴む男がいた。眉をしかめた厳しい表情で、女のこれ以上の勝手な振る舞いを頑として受け付けないオーラが漂っていた。

 彼の顔を見て反射的に女は「気をつけ」の姿勢になった。いつもは頑固一徹の女だが、この時は路上で行為に及ぼうとしていた、自分の愚かさを心から恥じた。しかし、目の前の彼に出会う前はこれで生計を立てていたこともあった。未成年の時から行っていたため、何度も見回りの警察官に追いかけられたし、事実補導されたこともあった。そこで耳が腐るほど(もっと自分を大切に)とか(将来のあなたにツケがまわる)云々の言葉を聞かされたが、当時の女は「そーやってアタシらにえらそーな綺麗事言う(ゆー)アンタらオトナだって、しょせんオナニーみたいなもんなんでしょ?」などと口ごたえしていた。当然倍以上の反撃を喰らったものだけど。

 関係性こそ異なるものの、男の言葉は、その時の警察官が言っていたことと何ら変わりはなかった。だけど、いくら若気の至りだったとはいえ今こうして自分のやったことを自ずと反省するようになったことに、一番驚いていたのは当の本人だった。


 女は急いでさっき脱ぎ捨てたコートを拾おうとした、が、それより先に男が拾い上げ、向かい合ったままの女の背後からそっと着せてくれた。


 「今まで僕がこんな薄汚い場所で、君を抱いたことがあるかい?」

 再び穏やかな声で男は尋ねた。

 「…ないわ。」

 「だろ?もっと自分を大事にしなさい。君は時々無茶をするから。あぁ、せっかくのコートが汚れてしまった。」

 言いながら、男は女の肩辺りをポンポンと払った。

 「でも昔ならそうしてた。あなたと出会う前に、他の…男と。」

 「あぁ、知っているよ。…とても悔しくなるがね。」

 「悔しい?それ、どういう…。」

 女は問いかけたが、言い終わらないうちにとんだ邪魔が入った。


 大通りの方向から、二人組の男が表れた。

 彼らの様子から、ただの通行人ではない。


 男たちの後ろには、街のネオンと車のライトが入り混じった、眩い光が燦燦としていた。


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