職場の推しに告白されまして
わたしの推しは芸能人でも有名人でもない。
いや、有名ではあるか、社内では。
我が丸川コーポレーション一、優秀で見目麗しい彼。
柾木歩、25歳。入社して3年、この若さにしてもうすでに営業部一課、課長である。
彼の部下であるわたしは、入社して15年、淡々と決まった事務仕事をこなす日々。
哀しいかな、彼からしてみたら、きっと単なる雑用のおばさんという認識に違いない。
同じ職場にいるというのに、全く違う世界の住人なのだ。
「前からお伝えしていた通り、本日は前年比大幅達成のお祝い、また親睦会も兼ねて営業部一課二課合同での飲み会があります。極力全員参加ですから、本日の残業は禁止。就業時間内に仕事が終わるよう皆で協力して頑張りましょう」
朝のミーティングで柾木課長がそう言った。
えっと?
飲み会?
そんなことはすっかり忘れていた。
自慢じゃないが、会社のイベントにはほとんど参加したことがない。
目標達成の祝いとはいえ、なんで繁忙期に全員参加の飲み会なんてやるんだろうと思いつつ、朝から課長の爽やかな声と笑顔には癒される。
資料を見るため彼が若干首を傾けると、サラサラで長めの前髪が綺麗な右目を覆った。
肌もきめ細やか、シミ一つない。
今日も美しい。
ああ、いやいや。長時間の直視は危ない。こちらの目がやられる。
そういえば、先ほどロッカールームで会った女子社員たちの私服の気合の入りよう、不思議に思っていたのだ。
理由は飲み会だったか。
わたしは当然参加しないつもりだ。
申し訳ないが急用ができた体で、退社時間になったらさっさと帰らせてもらおう。
課長を観察したいという気持ちはあるものの、こういう場合、同時に彼を狙うネジの外れた女子社員たちのトンデモ行動まで見る羽目になる。
推しのことは心穏やかに見つめたい。
誰が戦場になるようなところに行くものか。
さて、唐ちゃんはどうするのだろう?
お昼休みにでも聞きに行ってみようか。
時刻は11時を回ったところ。
「水瀬さん」
目の前に柾木課長が立っていた。
「は、はい」
これは不意打ち。
当然ポーカーフェイスを保てるはずもなく、声が裏返ってしまう。
「今日の飲み会ですが、勿論水瀬さんも参加してくれますよね?」
彼は極上の笑みでわたしを見ている。
あわわわわ。
距離が近い。
近すぎる。
数歩後ろに下がりながら、パニックになっているわたしは勢いで無言のまま何度か頷いた。
「よかった。では、僕はこれから外回りに行ってきますね」
課長はひらりと手を振った。
「イッテ、ラッシャイ……マセ」
壊れたロボットのごとく、片言で返す。
瞬殺。
彼だって他意があるわけではない。たまたま出入り口近くに立っていたわたしに、軽い気持ちで聞いてみただけだろうに。
けど直接声を掛けられて、どうして断ることができようか。
それにしても間近の課長、何か柑橘系のいい匂いがした。
シャンプーだろうか。
いや、ダメ。
わたしは軽く左右に首を振る。
喜んでいる場合ではない。
気をつけなければ。
わたしの気持ちがばれたら気味が悪いと思われる。そして日々の仕事にも支障が出てしまう。
お昼休憩。
わたしは唐ちゃんこと、営業部二課主任の唐津柊真に会いに行った。
唐ちゃんはわたしより2つ年下で、何を隠そう、柾木課長を推す同士なのである。
今日の合同飲み会、彼は最初から参加の一択だったらしい。
まあ、それもそうか。
唐ちゃんが柾木課長を堂々と見られるこのチャンスを逃すはずもない。
今さっき、課長から直々に誘われたと伝えたら、唐ちゃんはわたしの首を軽く絞めてきた。
殺すつもりか。
ついでに営業二課の女子社員の鋭い視線にも殺られそうだ。
実は柾木課長ほどではないが、唐ちゃんの女子からの人気も相当なもの。
しかし、普段の唐ちゃんはクールなタイプの美形で他人を寄せ付けない。
彼がゲイであることを知らない女子たちは、課が違う(傍目には何の接点もない)不釣り合いなわたしが彼と親しくしていることを快く思っていない。
それが分かっているから、わたしだって社内では気安く唐ちゃんとは呼ばず、唐津主任と呼ぶようにしている。
しかし、あまり意味は無い。
柾木課長のこととなると、いつも話が異常に盛り上がってしまう。
「あ、木村が胸を当てに行ってる。三枝は息を吹きかけてるようにしか見えないが」
「そんな実況聞きたくないんですけど」
わたしはそう言って、普段あまり飲まないアルコールを煽った。
唐ちゃんは、随時わたしの耳元で柾木課長を取り巻く状況を伝えてくる。
勘弁してほしい。
こっちは敢えて見ないようにしているというのに。
「まさに争奪戦だな。けどさすが柾木課長、笑顔はキープ。あ、なんか今、俺、課長と目があった気がする」
「柾木課長を見ながらヒソヒソ話してるんだから、悪口言ってると思われたんじゃないの?」
「これだけ人がいるのに、普通そんな風に思うか? って言ってる間に、割り込んできた隅田が課長にもたれかかってるし。酔って介抱してくださいアピールのようだな。紗彩見てみろよ」
「この場で紗彩って呼ばないで。あー、もう嫌。唐ちゃん、いちいち状況伝えて来なくていいよ。見たくもないし。課長に相応しい女の子なら応援できるけど、なんかこういうのは違うんだよ。気分が滅入る」
だから来たくなかったんだ。
わたしはレモンサワーを勢いよく一気に喉に流し込み、空になったジョッキをテーブルの上に置いた。
「おいおい、ペースが速いって」
唐ちゃんが呆れた声を出す。
「もう一杯頂戴。こう、もうね、何も考えられないように、頭の動きを鈍くしたほうがいいのよ」
「分かった分かった。今日は意識混濁するまで飲んでよし。心配しなくても帰りは俺が送って行ってやるから」
「うー、唐ちゃんはいいやつだね!!」
「声が大きい」
それからわたしはうーうー言いながら、立て続けに色んなお酒を10杯くらい飲んだ。
その後の、記憶がない。
◇◇◇
目を覚ますとベッドの上だった。
知らないベッド。
それでベッドの横の床に布団が敷いてあって、足が出ていた。
これは多分、男の人の足だろう。
わたしはいつの間にかラフな緩い大きいトレーナーを着させられていた。
少しだけ頭が痛い。
昨日唐ちゃんの横で飲んでいた記憶が蘇る。
どうやら飲み過ぎて、自分の家に帰れないほどの泥酔状態に陥ったらしい。
とんだ迷惑を。
わたしは右手で頭を押さえる。
「唐ちゃん?」
そう声を掛けると、上掛け布団が捲り上がる。
「ひっ!!」
声にならない声を上げてしまった。
「僕は、虫かなんかですか?」
視界に入ってきたのは、不機嫌そうな柾木課長。
うっすらと目の下にクマができている。
いやいや、虫なんてとんでもない。
アンニュイな、そのやつれた感じすら美しい。
わたしは呆然と、ただ課長を見つめることしかできない。
何?
何なの、この状況は?
もしかして、夢?
そっか。
そうだ。
夢に違いない。
「唐ちゃんというのは、二課の唐津主任のことですか?」
課長が再び口を開いた。
「……はい」
多分、わたしの顔面は蒼白。
困惑しながら一言返す。
それにしても、かなり鮮明な夢だ。
「唐津主任じゃなくて申し訳ありませんね。それにしても、そんな風に呼ぶなんて、彼とはずいぶん親しいんですね」
口調の柔らかさに反して、課長の表情は冷たい。
普段、あまりお目にかからない表情だ。
「お二人は付き合っているわけではないんですよね」
「お二人?」
さっきから何を言われているのか分からなかった。
というより、まともに頭が働かない。
「水瀬さんと唐津主任です」
冷たいのを通り越して、もはや課長はわたしを睨んでいる。
取り敢えず課長の質問にはきちんと答えなければならない。
「付き合って……ないです」
「ベッドから下りて、僕の前に座って貰えませんか?」
わたしは言われた通り柾木課長の前に座った。
ここ、彼の布団の上だし。
こんなこと現実であるはずがない。
絶対に夢だ。
「好きです。入社した時からずっと好きでした」
柾木課長はまっすぐにわたしを見つめてそう言った。
彼の美しい瞳には、馬鹿みたいに呆けた顔のわたしが映っている。
時が止まる。
あー、もう夢。
夢、間違いなし!!
夢なら少しくらいぎゅっとしたって罰は当たるまいと邪なことを考えつつ、やはり彼に抱きつくなんて夢でも恐れ多い。
「お願いします。水瀬さんのこと、大好きなんです。僕と付き合ってください」
目の前の柾木課長は、再び懇願するようにわたしを見つめている。
いや、付き合うなんて烏滸がましい。
そんなことは望んでない。
でも、嬉しい。
すごく嬉しい。
もしかして私、遠い存在の彼と付き合いたいって心のどこかで思っていたのだろうか?
深層心理の願望?
なんて恥ずかしい。
なんという夢を見ているんだろう。
柾木課長がそっとわたしの腕に触れる。
触れた部分は熱を持った。
嘘。
体温を感じる。
課長のいい香りがする。
あの柑橘系の、課長の香りが漂っている。
これは、紛れもなく現実だ。
「ダメです」
弾かれたようにわたしは彼の手を振り払った。
「ごめんなさい」
部屋にわたしの声が響き渡る。
柾木課長は、哀しそうな表情で顔を伏せた。
夢のような現実。
カーテンの隙間から漏れる日の光が眩しい。
穏やかな、土曜の朝。
次は柾木課長視点です。