冷たい毒飲料をどうぞ
今日も朝から気温がぐんと上昇した。
蒸し暑い。
夏のこの、湿気の不快さで目が覚めるの本当に嫌だと思う。
エアコンを付けたが、すぐには快適な部屋にはならない。イライラする。
毎朝これとか体調崩しそう。
咲子は湿ったベッドから起き上がると、台所に向かった。
小さな冷蔵庫を開け、二リットルサイズのミネラルウォーターを取り出す。
今年の春から独り暮らしをしていた。
実家では、大型のペットボトルに口を付けて飲むのは行儀が悪いと怒られたが、今は誰にも気兼ねすることはない。
両手で持ち上げ、直接口を付けてごくごくと飲む。
タブーを犯した感と、喉から流れ落ちる冷えきった水の爽快さとで、はあ、と大きく息が出る。
まだ出勤までに時間がある。シャワー浴びようか。
汗でべたついたタンクトップの胸元をパタパタと扇ぐ。
風呂場のアコーディオンドアを押し開けようとした。
手が届かない。
あれ。
手を押し出してるつもりが、ドアが遠い。
思い切り腕を突っ張ってるつもりだが、いつまでもドアに触れられない。
「はれ?」
呂律が回らない。
おかしい。
落ち着いて体勢を立て直そうとしたが、どんな風に立て直していいのかが分からない。
平衡感覚が無いが、無いという判断も覚束ない感じ。
倒れた気がするが、倒れたことが自分で認識できない。
床に頭の横を打ち付ける。だいぶしてから凄い音が聞こえた気がすると思った。
あれ。わたし倒れたのか。
そんなはずないと何故か思う。
すぐに立ち上がれるはず。
足を立たせて。
あれ。足ってどこ。
アパートの部屋の景色が、一気に狭まる。
今までいた場所から、物凄い速さで引き離されるような、おかしな感覚。
気が付くと、咲子は倒れた自分の横に座っていた。
「え?」
正座した膝の前に、目を見開いて倒れるタンクトップと短パンの女性。
癖のあるボブの髪、耳に付けた小さなピアス。
自分自身にしか見えない。
なにこれ。
幽体離脱。その言葉が浮かんだ。
それならすぐ戻らなきゃ。
咲子は、立ち上がり爪先でそーっと自分の体をつついてみた。
こ、こんな感じで入ればいいのかなと思う。
「あのそれ、譲って戴けませんか」
後ろから男性の声がした。
「は?」
咲子は振り向いた。
六畳の畳の部屋。中央に置いたテーブルの横に、正座した男性がいる。
咲子よりも少々年上の会社員風だ。
咲子は悲鳴を上げて玄関口まで後退った。
玄関のドアに背中をぶつけ、そのまま外に擦り抜けて慌てて中に戻る。
「な、いや、あああ、泥棒、いえ変質者!」
「どちらでもないです。あなたの前の住人です」
会社員風の男性は落ち着き払って言った。
「ま、前の。何か、お忘れものでもっ!」
咲子は、わたわたと声を上げた。
「いえ、ずっとここにいたんですが。やっぱり気付いてませんでしたか」
男性は淡々と言う。
「やっぱり変質者?!」
「違います。死んでいますから、そんな性欲はもうありません」
「死んでいなければ、あるんですねっ!」
自分でも何を言っているのか分からないが、通報しなきゃ。咲子はスマホを置いた場所を目で探した。
男性のすぐ横のテーブルの上だ。どうやって取りに行こう。
「落ち着いてください、今、事情をご説明します」
男性は一度懐を探り、ややしてから何かに思い当たったように眉を上げた。何も持たず懐から手を出す。
「すみませんが、名刺は切らしておりまして。私、宇美山商事の八月晦日と申します」
八月晦日は畳に手を付き、折り目正しく礼をした。
「はあ。ご丁寧に」
咲子はついつられて正座し、そう返してしまった。
「話せば長くなるのですが」
「出来れば搔い摘んで」
「では搔い摘んで。私、一年前にここに住んでおりまして。ある日、脳梗塞と思われる症状で急死いたしました」
はあ、と咲子は相槌を打つ。
「お若いのに」
何となくお婆ちゃんの口癖を真似てしまった。
「私、当日に大事な商談を控えておりまして。ゆくゆくは独立も考えておりましたので、人脈を作るチャンスとも考えておりました」
「はあ」
「ところが急死してしまった。私は何とか、代わりの身体でもいいから商談に駆けつけられないかと思い」
「え?」
「代わりの身体を手に入れる機会を伺っておりました」
「は?」
八月晦日は頭を畳に擦り付けた。
「お願いです。あなたの身体を私に譲ってください!」
「何言ってんですか。訳分かんないです!」
咲子はきっぱりとそう返した。
「始めは、咲子さんが自然死してくださるのをここでじっと待っておりました。しかし中々死んでくださらない。そこで思い切ってお友達に協力していただきました」
「は?」
咲子は眉を寄せた。
「先日いらっしゃった女性のお友達に取り憑いて、ミネラルウォーターに毒を盛らせていただきました」
咲子は無言で首だけを動かし、先ほど飲んだミネラルウォーターのペットボトルを見た。
倒れた拍子に床に落ち、残りの水が床に零れている。
「何それ。どういうこ……」
咲子は混乱した。
今、自分は一体何に巻き込まれているのか。
「正直、毒の入手には苦労いたしました。私が勤めていた宇美山商事であれば、毒物のひとつやふたつこっそりと輸入するのは簡単なのですが、咲子さんのお友達は携帯ショップの店員さん。どうにか足の付かない毒物の入手経路はないものかと取り憑き続けましたところ、通勤途中にとある植物を発見いたしまして。私はこの植物のオレアンドリンなら致死量は青酸カリよりもごく少量で済み、いけるのではないかと」
「うるさいわ!」
よく分からん講釈を垂れられてる間に咲子はじわじわと理解した。
「つまり殺人じゃないの!」
「誠に申し訳ないと思っております」
八月晦日は握りこぶしを両膝の上に置き、深々と礼をした。
「あたしの友達が殺人に問われたらどうすんのよ」
「それは大丈夫です。取り憑いている間にきちんと証拠隠滅はしておきました」
「そういう問題じゃないわ!」
「本当に申し訳ありません。何とぞ身体を」
「いい訳ないでしょ!」
咲子は、自分の死体の前に立ち塞がった。
「馬鹿じゃないの。もう死んでる身体でしょ。使えないでしょ!」
「いえ、ところが、死んだ本人でなければ人形に取り憑くのと同じ要領で身体を使えると、別のアパートにいた霊からアドバイスをいただきまして」
「それじゃゾンビじゃないの」
「ええ。長くは持たないとのことなんですが、今すぐ商談に行く程度なら使えるかと」
「ムリムリムリムリムリムリ!」
咲子は自分の死体をガードするように両腕をブンブンと振った。
それから数日間、咲子は自分の死体の前にじっと座り続けた。
幽霊なので疲れることはないが、このままではおちおち成仏することも出来ない。
八月晦日は隙をみては咲子の身体に入り込もうとし、咲子にじろりと睨まれては断念していた。
これ、いつまで続ければいいんだろう。
このままではこの部屋は、幽霊二体が睨み合う激レアな事故物件になってしまう。
何日も過ぎたので身体はすでに腐乱していた。
軽いドライアイに悩んでいた焦げ茶色の眼球は乾いて白くなり、口は端から形が崩れて中が黒くなっている。
生きてこの場にいたら、きっと臭いも凄いんだろうなと思う。
会社も無断欠勤になってるだろうし、そろそろ誰かが様子見に来るかも。
部屋、片付けておけば良かった。咲子は部屋を見回した。
「ひとつ聞きたいんですけど」
「何でしょう」
八月晦日は姿勢を正した。
「ここの部屋であなたが死んだってことは、ここ事故物件だと思うんですけど。わたし何も聞いてないし、家賃も他の部屋と同じだったんですけど」
疑問はごもっともです、と八月晦日が頷く。
「正確に言うと、あなたと私の間に一カ月ほど住んだ方がいました」
そう八月晦日は言った。
「なので、あなたに告知する義務がなかったのではないかと」
都市伝説でよく聞く話だけど、マジだったんだと咲子は思った。
「殺すの、その人にすれば良かったじゃない」
「死んでいただく暇が無かったんです。一カ月では」
八月晦日は言った。
「それに、いわゆるキモオタですか? ああいった外見の方でしたので、私としてもそれはちょっと……」
八月晦日が苦笑し頭を掻く仕草をする。
「はああ?」
咲子は声を上げた。
「それで女性の身体を乗っ取ろうって? 最初から思ってたけど、あんたいやらし過ぎんのよ! 商談に行きたいだけが目的じゃないでしょ!」
「本当です。本当に商談に行きたい一心だったんです」
八月晦日は畳に手を付き言った。
「だいたい、そこで毎日あたしの私生活を覗いてた訳よね!」
「覗いていた訳ではありません。真っ直ぐ目の前でしたから」
八月晦日は大真面目にそう言った。
「それで、真っ直ぐ見て何してたのよ、答えろ変態幽霊!」
「始めに言った通り、死んだのでそんな性欲はありません。着替えのときなんかは、申し訳ないので後ろを向いていました」
八月晦日は必死の表情で手を振った。
「私のいた会社は、セクハラに関する教育はそれはもう徹底しておりまして」
八月晦日は言った。
「セクハラに問われそうなものが少しでも目に入りそうになったり、手に触れそうになったら、条件反射的に回避する癖が染み付いております」
な、何だ。何か悲しいなそれ……。咲子は鼻白んだ。
どうしようもない不毛さに力が抜けた。
不意に、玄関の鍵が開けられる音がした。
玄関ドアの向こうから男性の声がする。
「いえね、この部屋から夜な夜な男女の言い争う声が聞こえるって他の住民が」
嗄れた初老の男性の声。大家だと咲子は気付く。
「咲子は彼氏とかはいなかったはずです。それちょっとおかしいです」
若いというより幼い印象の女性の声が答える。
咲子は戸惑った。携帯ショップ店員の友達だ。
連絡が付かないから様子を見に来たんだろう。
八月晦日が正座したままそちらに顔を向ける。
「咲子さん、彼氏いませんでしたっけ? 引っ越しのとき手伝ってくれてた男性は」
「あのあとすぐ別れたの。他人の私生活を知った風に言わないで」
咲子は苛々と返した。
何しれっと言ってんだろう、この人と思う。あのドアの向こうの友達を利用して殺人やらせたんでしょうが。
玄関のドアが開いた。大家が「うっ」と呻く。
「何だこの臭い!」
大家は、ドアを開けた瞬間に口と鼻を手で覆い後退った。
友達がドアの縦枠に手をかけ身を乗り出す。
二、三回視線を左右に動かし、小さな三和土で急いで靴を脱いだ。
「咲子?! 咲子!」
友達が咲子の遺体に駆け寄る。
しかし鼻とメンタルがダメージを受けたらしく、そこで「うっ」とえずいて口を抑える。
「け、警察、警察」
「使いますかっ」
友達は口を抑えながら自分のスマホを差し出した。
大家が友達のスマホで通報し、おろおろとした口調で状況を伝える。
言ってる内容に、自分側に落ち度はない、このことはあまり報道しないで、という言い分が垣間見えて、咲子はイラついた。
立ち上がり大家につかつかと近付くと、腰に手を当て声を張る。
「ちょっとあんたねえ、そんなこと言ってるところじゃないでしょ。あんたがちゃんと告知しないから、こんなことになったんじゃない!」
「咲子さん、電話中ですよ。静かに」
八月晦日が横から口を挟む。
「なに他人事みたいに言ってんのよ、あんた!」
咲子は怒鳴り付けた。
通報を終えた大家に友達が問いかける。
「男女の言い争う声を聞いたって言ってましたよね?」
「ええまあ。ここ数日、夜中になると聞こえるって。他の住民の皆さん、みんな気味悪がって」
大家は不器用な手つきでスマホをタップし、友達に返した。
「え、夜中?」
咲子は八月晦日の方を振り向いた。
「言い争いは、昼間もしてたよね?」
幽霊になってから昼夜の区別はどうでもよくなっていたが、時間は限定していなかったはずだ。
「このアパートは、昼間は仕事に出ていて夜しかいない人が大半ですから」
「ああ……そういうこと」
思いがけず怪談話の絡繰りのひとつを知ってしまった気がする。
友達は咲子の遺体を見下ろした。
「殺人でしょうか……」
「さあどうだろうねえ。腐乱始まってるから、死因の特定しづらいかも知れないし」
大家が言う。言葉の端々に、ただの病死であってくれというような願望が見え隠れして、咲子はイライラした。
「でも、男女の言い争う声を住人の人達が聞いているんでしょ? わたし、咲子の別れた彼氏が怪しいんじゃないかと思うんです」
何で、と声を上げて咲子は友達の顔を見た。
友達は、確信ある表情で持論を続ける。
「彼氏、凄く陰湿そうな目つきの人だったんです。わたし絶対ストーカー気質のある人だと思ってました」
そ、そんな風に見てたのかと戸惑う。いい人だったんだけどな……。
「別れたって言ってたからホッとしてたんですけど、きっと、ずっと付きまとわれてたんです」
つ、付きまとわれてない、付きまとわれてない。
咲子は友達の横で手を左右に振り懸命に否定した。
内気な人だったから、別れてからは気を使って話しかけてすら来ない。
「まあ、そういうのは警察に任せて……」
大家がそう言う。
「分かりました。わたし警察で証言します」
「やめてえええ」
咲子は必死に声を上げた。
「どちらかというと、実際の犯人はご自分なんですけどね……」
八月晦日が咲子の背後で他人事のように呟く。
「どちらかというとじゃないわ!」
咲子は怒鳴り付けた。
「どうすんのよ! わたしの友達だけじゃなく、元カレまで疑われるじゃない!」
「お友達は大丈夫です。証拠隠滅には充分の検品を実施し最善の努力をさせていただきました」
「万が一不備があったらどうすんの! 業務責任取るのかっ!」
咲子は八月晦日に詰め寄った。
「いいこと考えた。あんた、うちのムカつく上司に取り憑いて、犯人はボクですって言って来なさい。ついでに、ここの部屋の特殊清掃の費用は宇美山商事が持ちますって」
「咲子さん、暗黒面に堕ちてます……」
八月晦日は怯えて言った。
暫くすると警察が到着し、咲子の遺体は搬出されて行った。
「ああ……せっかく商談に行けると思ったのに……」
八月晦日が泣きそうな顔で警察車両を見送る。
「泣きたいのはこっちなの分かってる? あんたのくだらない出世欲のせいで、いきなり死んだのよ!」
「それに関しては大変申し訳ないとは思っています。つきましては私からの提案なのですが」
八月晦日が深々と礼をし、馬鹿丁寧な口調で言う。
こういうところが本当ムカつくわと咲子は思った。
「今後は、ここにカップルの男女が住み着くよう仕向けさせていただこうかと。咲子さんには代わりと言っては何ですが、カップルの女性の方の身体を乗っ取りお使いいただけたらと」
咲子は八月晦日の顔をじっと見た。
有りかも。
すでに感覚が麻痺しているのは自覚していた。だがやはり、まだやりたかったことはいろいろある。
「……容姿をそれなりに選んでくれるなら。それなりでいいけど」
咲子は言った。
「ええ、それはもう。ご満足いただけるものをご用意できますよう、最善の努力をさせていただきます」
八月晦日は膝に握り拳を乗せ、折り目正しく礼をした。
朱色の夕焼けが窓から差し、夏の夜が訪れようとしていた。
終