いらっしゃいませ。さようなら。
店の扉が開く音。
時の流れを表すようにゆっくりと開いたそれに、人は何を思うのか。
来てくれたことへの感謝か、接することへの憂鬱さか。それぞれ思うことはあれど、みな発する言葉は同じだろう。
「いらっしゃいませ」
私はそう言うと、案内することなく磨いていたグラスを置き後ろの棚へと振り返った。
背中に感じる気配と聞こえた音で、お客様が座られたことを確認する。お互いに言葉はなく、店内に流れる規則的なBGMが耳に良く届く。
『死にたいんです』
「かしこまりました」
お客様の言葉に、私はありきたりな言葉を返す。
磨いたグラスに、ゆっくりと液体を注ぐ。
透明なそれは少し揺らぎながら、お客様の目の前へ。
「こちらを飲んでぴったり8時間後、あなたは命を終えることが出来ます」
私はそれだけ伝えて、新たなグラスを磨き始める。
お客様はグラスを見つめている。その目に写るのは果たして何なのか、私には分からないが。
それほど重要でもなければ、興味もない。
『・・・これを飲んで、死んだ原因は何になりますか』
「お客様の望むままに。望めばそれがお客様の死になります」
『・・・万能なんですね』
「当店自慢の一品ですので」
そこまで話すと、お客様はグラスを手に取り。
少し笑って。飲み込んだ。
『ありがとう。助かった』
店の扉を手に取りながら、お客様はこちらを向いてそう言った。
「感謝されるようなことはしておりません」
『それでも。俺にとってあなたは恩人だ』
「ご満足いただけたなら、幸いです」
私はそう言って、少し頭を下げた。
扉の開く音。
見送る際に送る言葉。
ありがとうございました。またお越しくださいませ。
それぞれ思うことはあれど。私は皆さんとは少し違う言葉を発する。
「さようなら」
名前も知らない、お客様。
♦️
ニュース速報には殺人事件が流れている。
画面に写る文字で昨日のお客様のお名前を知る。
「殺人ですか」
死にたかったのが本当であれば、あの時少し笑っていたのは。嫌がらせ?復讐? どちらにせよ、わざわざ苦しむ最後を選んだことには共感できない。
時間がくれば死ぬのだから、眠るように終えれば良い。
お客様は私を恩人と言っていたが、感謝などされる覚えがない。
「助かったと、言ってましたね」
私はお客様の前に死を差し出しただけ。それを選ぶのは、お客様である。私は傍観者、ただそこにいた者でしかない。まるで私が助けたみたいに思われるのはなんとも心外だ。
目の前に人が倒れていたら、悩む人は何人いるでしょうね?悩むことなく助ける方は一人はいるでしょうか?
助けた後、周囲の反応を気にする人は何人いるでしょうね?気にせず普通に過ごす方は一人はいますかね?
このお店はお客様に死を提供するのだから、私はそれに従い接しただけだ。どのお客様でも変わらない。昨日のお客様だから、ではない。身勝手な美化は迷惑でしかない。今後会うこともないので、どうでもいいが。
♦️
今日も私はグラスを磨く。棚に並ぶ死を注ぐために。
お客様を待ち望むこともなく、かといってだらけることもなく。
「あ、い、う、え、お」
機械的な定型文でも、噛まないようにとたまに口を動かしながら。
扉の開く音。
「いらっしゃいませ」
いつも通り、お客様にそう告げるのだ。