第86話 灰色の空
「ようやく、ようやく天くんと手を繋いで歩けるようになったのに・・・・・・っ」
「そうだな」
「これから、なのに」
「けど、行かなくちゃなんだ」
魔法なんてないんだ。
箒にまたがって空を飛ぶ方法なんてどこにもない。俺たちは地に足をつけて一歩一歩を踏んでいくしかないんだ。
「祖父がさ、病気なんだ。一人じゃ生活できないから、うちの家で一緒に暮らすことになった。俺が向こうへ帰るのもまったく同じ理由だ」
震える肩を、しっかりと抱きしめる。
「悪意なんてどこにもないんだ。どれも誰かを思っての選択で、もしそれを無碍にしようものなら、俺は俺が忌み嫌っていた世界の一部になってしまう」
なにも意地悪をしようってわけじゃないんだ。
俺が苦労しないように、苦しまないように、なるだけ楽に生活できるようにという、大人の気遣い。
お節介だと言ってしまうかもしれない。余計なお世話だと思ってしまうかもしれない。
だが、そういった無償の善意に気付くのはいつだって後になってからだ。
いざそのときになって、苦い思いをするのはもうこりごりなのだ。
お節介だっていい。余計なお世話だっていい。
それは必ず、誰かを突き動かす力になる。
「だから、行くしかないんだ。そうだろ? この世界にはきっとまだ、救いがあるだろうから」
「天くん・・・・・・」
胸元でくぐもった声が聞こえる。
とてつもなく小さいものかもしれない。99パーセントが辛いことや苦しいことで溢れていて、幸せってやつは残りの僅か1パーセントに隠れているものなのかもしれない。たぶん、それは当たり前で、俺たちが納得しなくちゃいけないルールなのだ。
嫌でも頷かなければならない。
こんな世界もうこりごりだと、死んでしまえる勇気もなければ、それでも生きてやると思えるほどの活力もない。そんな半端な志で前を向くしかない俺たちだ。
やれることなんて、その1パーセントをがむしゃらに探し続けることだけだ。
その1パーセントを、ようやく掴めたかもしれないのだ。
俺はずっと自分を非難して生きてきた。
自信なんてどこにもなかったし、ここから自分を磨きあげようなんて気もなかった。ずるずると落ち続けていく泥沼のような人生でも、それが俺の生き方だからって、諦めていた。
けど、違った。
こんな俺を好きになってくれる人がいた。
俺には誰かに好きになられる権利があった。
一緒にいたいと思ってもらえるほどの温もりを持っていた。
自分の目を閉じることはできても、他人の視界を塞ぎ続けることなんてできない。
だから目を開ける。
諦めて、花畑のように鮮やかな色を見るしかなかった。
「捨てたもんじゃないなって思いたいから」
「・・・・・・はい」
「紫苑を見ているとそう思えるから」
紫苑の頭を撫でる。
この小さなもののどこに、人を想う力が詰まっているのだろう。想いってのは、大きさじゃないのだろうか。
「だから、引っ越したあとも、見続けていてもいいか」
「・・・・・・いいんですか」
涙ぐんだ目が俺を見上げる。
「私、ずっと天くんのこと好きでいてもいいんですか」
「当たり前だろ」
「しつこいかもしれません」
「どんどこいだ」
「毎日電話かけちゃうかもしれません」
「ちゃんとアプリで通話しないと料金かかっちゃうな」
「毎週のように会いたがるかもしれません」
「バイト始めるつもりだから、移動費は俺がなんとかするよ」
「天くんがもう私のこと好きじゃなくなっても、それに気付かないで追いかけちゃうかもしれません」
「じゃあそのときは俺の頭を叩いてくれ。たぶん寝起きか徹夜で頭が働いてないんだ」
「でも、それでも・・・・・・やっぱり私、天くんの負担になっちゃいます」
「負担無しで幸せになれるかよ」
俺はいったいどういう顔をしているのだろう。
鼻がスンと鳴ったことだけはわかった。
「だって1パーセントだぞ? そんなの、試行回数を稼がないとやっていけない。宝くじを引いてるわけじゃないんだ」
紫苑の肩に触れる。強く抱きすぎて紫苑の額と鼻先が赤くなっていた。
「なんで」
小さな唇が震える。
「なんで、もっと早く本当のことを言わなかったんでしょうか」
紫苑は何度も自分の目を擦るが、涙は止まらなかった。
「いい子ぶってないで、もっとわがままになればよかった・・・・・・。そうすればもっと、もっともっと・・・・・・天くんと思い出を作れたのに・・・・・・っ」
気付いたときにはもう遅い。生きているとそんなことばかりのように感じる。
だけど、本当にそうだろうか。
「遅いなんてことないと思う」
何もかもが失敗だったか?
どの選択も間違いだったか?
俺は自分のカバンのチャックを開けて、内ポケットの中から赤いリボンが装飾された包装紙を取り出した。
「これ、開けてみてくれるか」
紫苑は驚いた様子だったが、すぐに頷いて差し出したそれを受け取ってくれた。
細い指が包装紙を丁寧に解いていく。
中身を見ると、紫苑は「あ」と小さくこぼした。
「他にもアクセサリーとか、ハンカチとかもいいかなと思ったんだが、それを見た瞬間これにしようって決めたんだ。俺のセンス、ちょっとヤバいらしいから、気に入らなかったらすまん」
楠木に言われたことをいまだに引きずっていた俺だった。
しかし紫苑はそれを両手で抱きしめたあと、ふるふると首を横に振った。
「そんなことないです、すごく嬉しいです」
俺が紫苑に渡したのはグレーを基調としたブックカバーだった。柄は傘と花。一目見て紫苑にぴったりだと思った。
「本を読むときは是非それをつけて読んでみてくれ。そうしたらさ、きっと紫苑だけの物語になんてならないから」
俺の物語はきっと歪で滑稽だ。紫苑の物語はきっと虚像だらけの造物だ。
当たり前だ。主要人物がたった一人しかいない物語なんて何一つ面白くもない。景色だけが変わっていき、触れるものがない。そんな人間の上っ面を見て誰が心動かされるだろうか。
紫苑が見ていた俺の物語も、俺が見ていた紫苑の物語も、結局はただの失敗作でしか過ぎない。
「これからは俺と紫苑、二人の物語だ」
手を伸ばす。
その手は掴み損ねるばかりで何一つ満足に繋ぎとめることのできなかった頼りない手だ。
紫苑はそんな手を両手で握り、コツンと額を当てた。
「天くんはやっぱり、かっこいいです」
「お、おう」
なんだその返事。
照れることしかできなかった俺は、空を見上げた。
もうじき雨の降りそうな曇り空だった。雲がどんよりと、世界を灰色に染めていく。
これからどうなるかなんて、俺たちにはわからない。
どんどん曇っていって、やがて雨が降るかもしれない。隙間から光が射して、地上が明るく照らされるかもしれない。それを知っているのはあの空だけだ。
それなら、俺たちが空になればいい。
広大な蒼になりきればいい。
『仮面』を被るのには慣れている。もしそれで誰かを満たすことができるのなら、それは偽物なんかじゃない。
「もっとかっこよくなれるよう、頑張るよ」
素顔だけで生きていけるか。
せめて紫苑の前では、取り繕ったっていいじゃないか。
「私も、天くんにもっとかわいいって思ってもらえるようにがんばります」
照れたようにはにかむ紫苑。
久しぶりに見た。俺は紫苑のこの顔が好きだった。
頬を朱に染めて、口元を溶けたようにほころばせたあと、ごまかすように小首を傾げる。その仕草が好きだった。
駅のホームから電車が顔を出して踏み切りを超えていく。
紫苑は俺の手を引いて、歩き始めた。
「引き留めてしまって悪い。えっと、次の電車は・・・・・・」
「いいんです。このまま、歩きましょう。今日はずっと、こうしていたいです」
振り返った紫苑の横顔を見て、俺も後を付いていく。
ああ、繋がっている。
再びこの手が、誰かの手を掴んでいる。
俺は人が嫌いだった。人と関わって、無駄な労力を割くのが嫌いだった。人と人との不純な関係の築き合いが苦手だった。
でも、それは違った。
俺は、俺が大嫌いだったんだ。
なにもできない、何も変わってない、そんな自分が嫌で嫌で、仕方がなかったんだ。
「紫苑」
視線の隅で上下する小さな顔がこちらを向く。
「好き、です」
混じり合った視線を逸らさぬまま、揺れる水面を見つめ続けた。
「ふふっ、天くん敬語になっちゃってます」
「あ、なんか・・・・・・緊張してしまって」
その言葉を口にするのは簡単ではなかった。要は自分の心を曝け出すようなものなのだ、そんなこと今までしたこともなかったし、しようとも思わなかった。
「じゃあ、私も」
ぎゅっと手を握る力が強くなる。
吹いた風に、紫苑の髪が静かに靡く。
「好きだよ、天くん」
砕けた口調に砕けた表情。
俺たちは見つめ合ったまま固まって、堪えきれずに吹き出した。
「なんだそれ、あははっ」
声を震わせて、目尻に涙がにじむほどに笑った。
笑い合うって、こんなにも素敵なことなのか。
思いを告げ合った、たった一日目で、大事なことを教えてもらった。
こんな日々がこれからずっと、ずっと待っているっていうのなら、それはなるほど。教わることは多そうだ。
変な口調って、ただそれだけが面白おかしい。
けど、変ってことは変わったってことだ。
変わったってことは、前を向いたってことだ。
広大な曇り空を見上げる。
ごう、と強く風が吹き、俺たちの背中を軽く押してくれた。
――一緒に頑張ろうな。
心の中でそう言うと、返事代わりとでも言うようにどこからともなく花びらが現れて。
俺たちを追い越すように飛んでいった。




