第81話 熟した果実をもぎとって
「前に別れたって言ってたけど、本当に別れたの?」
楠木には紫苑と前にした会話をそのまま話していた。相談、というよりは報告に近かった。
「別れたよ。前にも話しただろ。紫苑がさ、別れようって、あっちから言ってきたんだ」
「うん、その話を聞いたときはあたしも驚いた。でも、そっかって、そのときは思うしかなかった。でもね佐保山、この間体育の時間に紫苑ちゃんのことチラっと見たんだよ。紫苑ちゃん、なんか、ずっとずっと前の状態に戻っちゃったみたいな感じだった」
「なんだよそれ」
「わかんないの? 紫苑ちゃん、悲しそうな素振りすら見せないんだよ?」
「そりゃそうだろ。あっちから別れるって言ったんだから、むしろ嬉しいって思ってるんじゃないのか」
「それ本当に言ってるの?」
「そっちこそ、なんでそこまで俺と紫苑に肩入れするんだよ。別れたなら別れたで、もういいだろ」
別に損なんてしていない。俺たちはただ元の状態に戻っただけだ。
いや、むしろ進歩したのかもしれない。
俺と紫苑は以前付き合った後、すぐに自然消滅した。だが、今回はきちんと別れると言って別れた。これだけで俺たちは成長したといえるのではないだろうか。
過ごした時間は、無駄じゃなかったのだ。
「そりゃするよ。だってまだ、佐保山の気持ち聞いてないじゃん」
「だから言ってるだろ。俺はもう、それで納得してるって」
信号が青になる。しかし俺たちが歩き出すことはなかった。
「紫苑はさ、たぶん心配してたんだ。もし付き合ったまま俺が引っ越して、遠距離恋愛なんて、ハンパな関係になることを。どうせそうなって、また自然消滅するくらいなら、今ここで別れを告げる。そういう気持ちだったんだと思う。だからこれは利口な決断なんだよ」
「利口だとか効率だとか、そんなのあたしにはわかんないけど、でも・・・・・・なら、佐保山はどうしてまだ不安そうな顔してるの?」
「・・・・・・・・・・・・」
自分の顔に触る。いつもの感触だ。しかし楠木は、そんな俺の顔を睨んだ。
「楽しい思い出たくさん作ったじゃん。これからも作ってさ、もう悔いなんてない! って思えるくらいに。そうやって、清々しい気持ちで転校するために、みんな協力してくれたし、そうやってまた佐保山が新たなスタートを切れるようにってみんな願ってるんだよ。あたしだってそう。だから、佐保山には不安を残したままこの学校を去ってほしくないの」
「・・・・・・うるさいな」
違う。
楠木、お前が今その名前を出さなければ俺は清々しく転校することができたんだ。
お前はいつだってそうだ。俺が逃げようとすると後から追ってきて正論を叩きつけてくる。
「確かに人と関わって、よかった部分もたくさんある。今まで知ることのできなかった楽しさもあったし、誰かと食べる飯があれほど美味いものだとは思わなかった。面倒なこともあるけど、その分の見返りもきちんとあるんだってこの間の送迎会でも思い知らされた」
――人と関わるのって、素晴らしいことなんですよ。
それは誰が言っただろうか。
「だけど」
空を見上げる。
冬が残していった、灰色の空が広がっていた。
「恋愛は、別だろ」
「どういうこと?」
正面で対峙する楠木が問いかける。
「人間と関わる。これはまだいい。けど、俺はやっぱり恋愛におけるリスクは、無視できない。人と関わる以上の消費カロリーと、蝕まれていく心。悪いことばかりで、良いことが何一つないじゃないか。今までの全部、別に恋人じゃなくったって叶えられることばかりだ。ほらな、恋愛なんて、したい奴だけしてればいいんだ。無理にするものじゃない」
これだけは自信を持って言えた。
紫苑との時間は貴重なものだった。だが、なにも恋人じゃなくたってよかったじゃないか。
紫苑はただの俺の居場所だ。傷をなめ合うだけの都合のいい関係だ。困ったときだけ頼ればいい。だって紫苑が、あのどしゃぶりの雨の中、そう言ったのだ。
薄々思っていた。
俺は本当に紫苑のことが好きなのか。
考えれば考えるほど、自分がわからなくなる。
紫苑と手を繋いで幸せそうに笑う自分。電車でちょっと体が当たって恥ずかしそうにする自分。俯瞰で見ると、怖気が走った。
それに、恋人でさえなければ、転校する話なんてもっと気楽にできたはずだし、こうもギスギスすることもなかったのだ。
恋人ってなんなんだ。
付き合う、別れる。いちいち決めて、報告して、互いに納得して。そんなことして、なにが楽しいんだよ。
――佐保山くん。
なにが楽しいんだよ。
――天くん。
なにが、楽しいんだよ。
――大好きです、天くん。えへへ。
なにが、そんなに。
「好きになんて、なるんじゃなかった」
吐き捨てるように言う。
すると楠木はものすごい形相で俺の胸ぐらを掴み、そのまま壁に押しつけた。
「痛いだろ、なにすん――」
「それだけは言っちゃだめでしょ!!」
聞いたこともない楠木の大きな声に、二の句が継げなくなる。周りを歩く人たちも何事かと俺たちを見ているが楠木はそんなもの気にしてもいなかった。
「それだけは、言っちゃだめでしょ」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、楠木と目が合った。
負けじと俺も睨み返すが、楠木の瞳は微塵も揺れはしなかった。
「あたし、佐保山のこと好きだよ」
抵抗しようとした俺の手から、ふっと力が抜ける。
「小学校の頃から好きだったよ。いっつもキョロキョロしてて、ぼそぼそ喋って、変な子だなって思ったけど、いっつも不味いって言いながら嫌いな牛乳を飲むところとか、怠いって言いながら体育のマラソン最後まで走るところとか。不器用なんだなって思ったけど、それと同時に、諦めきれない気質なんだろうなって、印象だった。困り眉のまま、汗を流す佐保山が、好きだった。話しかけるとさ、顔を真っ赤にして焦って、あたしただ話しかけただけなのに。そんな佐保山がかわいくて、好きだった」
「楠木・・・・・・」
「あんなことがあったとも、ずっと佐保山のこと気にしてた。だってはじめて好きになった男の子なんだもん。中学の間も、あたし佐保山のことばっかり気になってて、他の男の子から告白されても全部断ってたんだよ? めっちゃ一途じゃない?」
おどけたように楠木が笑う。
「それでね、お店の都合でこっちに引っ越して、高校で佐保山のこと見たときは驚いたし、また会えたってそりゃ一日中はしゃいだんだよ。そのときあたし、自分をめいっぱい褒めたの。まだ好きだったんだね、偉いねって。佐保山のこと。、ずっとずっと、大好きだったんだ」
制服を掴む手に力がこもる。指先が赤くなっていた。
「そりゃさ、もう叶わない恋なのかもしれない」
声が震えていた。
「あたしの初恋は長すぎたから、きっともう腐ってたのかもしれない」
実ることはなかった。
「ずっとずっと好きだったのに、あたしの想いは届かない」
届くだけだった。
「布団の中で何度も想像した。佐保山とあんなこと、できたらなって、でも、それは一つも叶わない」
赤裸々な告白だった。
「佐保山と手を繋ぐのはきっとあたしじゃない。佐保山を抱きしめてあげられるのもあたしじゃない。佐保山と・・・・・・キスできるのも、あたしじゃない」
単純だから、包み隠さないから、その強さが伝わってくる。
「ずっと願ってた佐保山の隣に、あたしはいられない」
俺は返事をすることができなかった。
「あたしは佐保山に抱いてた全部を、これから諦めなきゃいけない。これから先、あたしは佐保山以外の男の人を好きにならなきゃいけない。そんなのできる自信がない。でも、やらなきゃいけない」
それが現実だ。
「正直、ちょう辛いよ。・・・・・・でも!」
楠木が顔をあげる。
「あたし、後悔なんて一回もしたことない!」
涙は一滴も、零れていなかった。
「あたし、自分を褒めたい。佐保山を好きになれて偉いねって、あなたが好きになった人はとっても素敵な男の子だよ。あなたの選択はぜったいに間違いなんかじゃないんだよって! 言ってあげたい!」
「楠木・・・・・・」
「あたし、佐保山のこと好きになってよかった」
楠木の表情は、晴れ晴れとしたものになっていた。
決して嘘なんかじゃないんだと、俺は思った。
「佐保山!」
「うわ!」
胸ぐらを掴んでいた手が俺の背中をバチンと叩いた。
「しっかりしなさい!」
遠慮のない平手打ちに、背中がヒリヒリと痛む。
だが、その痛みはいろいろなものを打ち消していった。
「佐保山がここでウダウダしてるんだったら、あたしここでキスしちゃうよ!」
「はあ!?」
「ほらほら、いいのー!?」
「うわ、やめろ!」
どんどん楠木の顔が迫ってくるので、俺は慌てて後ろに飛び退いた。
楠木の視線が、虚空をさまよう。
「ほら、佐保山。それが答えだよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「紫苑ちゃんにできること、まだまだたくさんあるよ」
「・・・・・・遠距離恋愛だぞ」
「できるよ」
「いつまで好きでいられるかわからないんだぞ」
「大丈夫だよ」
「何を根拠にそんなこと言えるんだよ!」
キツい言い方をしてしまうが、そんなもの微塵も気にしていないようで、楠木は顔の横でピースを作り、明るい声色で言った。
「ギャルは恋愛に詳しいんだよ」
だから任せなさい。と楠木が胸を張る。
馬鹿か。
理想を見過ぎだ。
楽観視しすぎだ。
希望的観測ばかりじゃないか。
最悪の事態を考えろよ。まずはそこからだ。
なんでそんな前向きでいられるんだよ。
キャピ、と楠木がポーズをとる。
「はぁ・・・・・・」
どうしてだろう。
そんな言い分、おかしいはずなのに。
楠木が言うと、どうにかなりそうな気がしてしまう。
こっからがギャルの独壇場だとそう言わんばかりに、楠木がウインクしてくる。
「一度も男と付き合ったことのないギャルがいるかよ」
俺がそういうと、楠木はバツの悪そうに笑った。
「あはは」
楠木が俺の前を歩く。
信号がちょうど青になった。
今度こそ、俺も後をついて行く。
楠木の背中を見ながら、歩いて行く。
「その皮肉はキツいよ」
歩道の白線を飛び越えて、楠木は困ったように笑った。




