第74話 決して枯れない
楠木の喉が鳴る。唾液と、込み上げる何かを飲み込んだ音だった。
「うん」
その返事は、声こそ出てはいるがイントネーションがおかしかった。
会話の練習はしてきたとはいえ、緊張でその成果は思う存分発揮されていないように思える。
どちらから切り出すのか。靴が床を擦る音。息遣い。そんな微かな音ですらカーテン越しに聞こえてくる。
「あの、さ」
切り出したのは恵だった。
「・・・・・・ごめん」
掠れているのはむしろあちらの方かもしれない。
「ひどいことして、ごめん。なんであんなことしたのか、自分でもよく考えてみたんだけど、やっぱり、よくわからなかった。柚子っちのこと友達だと思ってたはずなのに、周りが柚子っちのこと悪く言うと、アタシまでそんな気になっちゃって、あのときも、自分がひどいことしてるって自覚なんにもなくて、あれも、さ、作り笑いなんかじゃなかったんだ。ホントに笑ってたんだよ、アタシ。なにもおかしくなんてないのに、後になってさ、柚子っちが学校にこなくなってから、少し経って、ようやく自分のしたことに気付いた。そんなん遅すぎるし、自分でもマジで、ヤバいなって、思う」
楠木はじっと、恵の声に耳を傾けた。
「でも、そんなん言ったってアタシがしたことは事実だし、知らないで済ますつもりなんかないから。本当に、ごめん。柚子っちが辛い思いしてるのも、傷ついてるのも、全部アタシのせいだ。普通さ、友達なら助けてあげなきゃいけないのに、アタシ、なにもできなかった。ってことはさ、アタシってたぶん、ヤバい側の人間なんだよ。そんなアタシがのうのうと学校にきて、柚子っちが学校に来れないなんて、おかしいって、クラスの子にも言われた。もちろん自分でもその通りだなって」
声は震えていた。だが、泣いていいはずがない。それは楠木への冒涜だ。
もしここで涙の一滴でも零そうものなら、俺はすぐにでもこいつを部屋から追い出すつもりでいた。
「だからって、謝れば済むってわけでもないし、じゃあ代わりになにができるのかって言われても、なにもできないし、するなって感じだよね。そんな資格ないし、なにかしようとするほうが、かえって目ざわりだって。だからアタシ、学校辞めようかなって思ってる。責任とってとか、そういうわけじゃなくて、柚子っちの学校に来れない理由のなかにアタシがいるなら、てか、いるよね。当たり前だ。アタシがしたことって、本当にそれくらい重いことで、アタシが思ってるよりも、柚子っちは傷ついてるってことも、知ってる。知ってるなんて、何様だって話だよね。アタシが全部、壊したくせに」
しかし恵は段々と吐き出すように、語尾が強くなっていった。
「けど、そうやってひとつひとつ償っていくしかないのかなって、思う。アタシはさ、柚子っちと違って授業もマトモに聞いてなかったし、親にも先生にも将来を期待なんてされてないから学校辞めたって全然平気だけど、柚子っちは違うじゃん。柚子っちにまた学校に来て欲しいって思ってる人たちはいっぱいいるよ、友達も、先生も。アタシは、すぐにでも辞められるから、だから柚子っちは安心して戻ってきなよ」
楠木はどう思っているのだろう。ここからじゃ横顔しか見えないが、唇はしっかりと締められていた。
「許してもらおうとか、謝ってどうにかこの件を解決させようとか、そういうつもりはないし、そんなんアタシがどうこう決める問題じゃないって思うし、でも、謝らないなんて訳にはいかないと思うから、もう一度謝らせて、柚子っち。あのとき柚子っちにひどいことをしたのはアタシだ。それが世間でいう虐めってやつで、絶対友達にしちゃいけないことだってのも、分かってる。でも、あのときはそんなこと微塵も分からなかった。自分たちは遊びのつもりで、なのに全然楽しくもなくて、それでも乾いた嗤い声だけが喉から出続けて、周りと同じように嗤えることだけが、そのときの目的だった。柚子っちのこと嫌いだからとか、普段から疎ましがってたとか、そういうんじゃないんだ。柚子っちのこと大好きなのに、誰よりも優しい柚子っちだって分かってたのに、あんなことしちゃった」
その言葉は、誰に刺さっているのだろう。
胸のあたりが苦しい。
同じように楠木も、喉のあたりに手をやっていた。
「どういうつもりなんだって思う。今まで過ごした時間とか、交わした言葉とか、全部うそだったのかって、うそじゃないんだけど、でも、それを全部うそにしてしまえるほどの力があのときのアタシがした行為にはあって、喉が震えるたびに、楽しくてしかたがなかった。これが仲間だ、アタシたち友達だって、そのときのアタシは紛れもない、悪魔みたいなこと考えてて、でも、それが全然悪いことだって思ってなくて、花をちぎったあとの柚子っちの顔みて、そのときようやく気付いた。遅すぎるって思ったのに、もう後戻りなんてできなくて、謝る勇気もなくて、取り返しのつかない、傷を負わせたことを、やっと、知って、そのあと先生に呼ばれてめっちゃ怒られて、親にも殴られた。でも、アタシがどんな目に合ったって、柚子っちにはなんの慰めや、償いにだってならないって、アタシ知ってた。だって柚子っち、自分が嫌な思いをさせられたからって、その相手にも嫌な思いをしてほしいなんて考えるようなヤツじゃないじゃん。そんな悪意の欠片もない純粋な友達を、アタシは裏切ったんだ」
そして一番、大きな声。
「あのときひどいこと言って、本当にごめん・・・・・・! それから・・・・・・」
カーテンの向こうで、恵が頭を下げたのが分かった。
「せっかく貰った花なのに、ぐちゃぐちゃにしちゃって・・・・・・ごめん」
涙が一滴、床にこぼれた。
それは純水ではない。穢れで淀みまくった、汚染された泥水だ。
滲むように、床に広がっていく。
悲しむ権利などない。後悔する資格などない。
傷つき、それを治癒するように流す涙など、決して許される行為ではない。
しかし、俺が動くよりも先に、楠木が口を開いた。
「あのね、あたし『あ、これハブられてるなー』って思ったときすごく辛かった」
ここにきて、はじめて楠木がきちんと話す。恵も楠木が口を開いてくれたことに、僅かならが反応した。
「ずっとなにが悪かったのかなって考えてて、でも、あたしバカだからさ、よくわかんなくて、人それぞれだよねって簡単に諦めちゃってた。でもそんなとき、恵が仲直りしようって言ってくれたでしょ? あれね、すごく嬉しかったんだ。やっぱり持つべきものは親友だなって、スキップしながら家に帰って、一番元気なお花を探したんだ」
恵の息を飲む音が聞こえた。
「だから、目の前でお花をズタズタに斬り裂かれたとき、本当に、たぶん、今までの人生の中で、いちばんショックだった」
楠木は空っぽの手を何度か遊ばせて、ギュッと握りしめた。
「本当に、ごめん・・・・・・柚子っち。柚子っちが花大好きなの、知ってるのに」
知ってたからこそ、それを逆手にとった。
考えれば考えるほど、惨いやり方だ。
けど、いつだってそうだ。
人が心に傷を追う時、それは好きだったものや信頼していたものに、裏切られた時だ。
俺も、楠木も、そうだった。
すると楠木は体にかかったシーツを取り、足元に追いやった。
「お花は虫とか、動物と同じで、生きてるんだよって、前に言ったの、覚えてる?」
「うん。覚えてる。一緒に帰ってるときに教えてもらった」
「お花はね、すごく強いの。だって生きてるんだもん。踏まれようが、枯れようが、折れようが、それこそ、ズタズタに斬り裂かれようが」
楠木がベッドから立ち上がる。
「どんなに負けそうになっても、根っこがある限り、何度でも咲こうとする。恵が斬り裂いたマリーゴールドも、花弁は散っちゃったけど、あれ切り花だから、実は家にまだ残ってるんだ」
後ろに結んだ黄色の髪が、ふわりと揺れる。
それはまさしく、咲き誇った花の先に実った、黄色の果実のようだった。
「斬り裂いても、また咲くよ」
楠木が、そのカーテンを開ける。
「根っこはまだ、ここにあるから」




