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第73話 褪せし初恋を信じて

 ノックしてから保健室に入る。奥のベッドはカーテンが閉められているが、床に置いてあるうち履きには赤い文字で楠木と書かれていた。


「楠木、いるか」


 俺の声に反応したようにカーテンが揺れ、中から楠木が遠慮がちに覗き込んでくる。


 上向きのまつ毛が、開閉するまぶたを追うように動いた。


「先生はいないのか?」

「さっき教務室に呼ばれて出て行っちゃった。佐保山は授業じゃないの?」

「まだ始まってないし、一時間くらいサボっても大丈夫だろ」

「ワルだね」


 俺はベッドのすぐそばに置いてあった椅子に腰かけてカーテンを閉めた。まるで見舞いにでも来ているような感覚になる。


「催促したみたいになっちゃった。そういうんじゃないんだけど」

「わかってる。俺だってそんなつもりで来たんじゃない」


 シーツを半分体にかけた楠木は、顔色はいいがどこか落ち着かない様子で天井と俺の顔を交互に見ていた。


「辛いのか」

「ん、まぁほんのちょっち」


 拒否反応を起こす心と体を抑えて、無理やり登校してきているのだから、ある種当然とも言えた。


「でも大丈夫だよ。ちょっとずつ楽にはなってきてるし、それに、早くみんなに会いたいなって気持ちも出てきたんだ。だから心配しないで」

「心配、ね」 


 その言葉は適格ではなかった。


 楠木は言った。前に進むと。


 曖昧模糊なその表現が果たしてどこまで通用するのかは分からない。だが、楠木の見せた前向きな笑顔は昔と変わらなかった。あの楠木柚子ならきっとやってみせる。絶対に上手くやる。そういった感慨を、小学校時代の記憶が連れてくるのだ。


 心配なんて、したことはなかった。


「はあ・・・・・・あたし、なんでいっつもここで止まっちゃうんだろう」

「玄関は通れるのか?」

「うん。でも、なんだろ、階段の向こうから聞こえてくる声とか、椅子の音とかを聞くと体がビクってなって、足の力が抜けちゃうんだよね」


 掴んだシーツにシワができる。楠木としても、それは辛いことなんだろう。


「みんながどう思ってるかなんて、わかってるのに」 


 楠木はカバンからはみ出た色紙に指を這わせた。おそらくお守り代わりに持ってきているのだろう。


 あと一歩、あと一歩なのだ。 


 楠木は自分を迎え入れてくれる環境と、人物の心境をひどく気にしていた。それが今色紙に書かれたメッセージにより露呈した今、問題点はひとつに絞られる。


 自分をイジめた人間との和解。


 その難しさと、受け入れられるかどうかという疑問に、楠木は常に悩まされているのだ。


 以前教師に呼び出されて事情聴取を受けた時に、当人同士の話し合い。つまり謝罪は済んでいるはずだ。


 それでも立て直すことのできなかった楠木の心が求めているもの、それは。


「恵をな、連れてきた」


 なんの突拍子もなくそう言うと、楠木は大きな目を見開かせ俺を見た。


「それ、どういう・・・・・・」

「今扉の向こうで待機させてる。もし楠木が会いたいって言うんなら今すぐ呼ぶし、会いたくないのなら追い出す。二度と会いたくないならそう伝えるが、どうする?」

「ちょ、ちょっと待ってよ佐保山。そんないきなり・・・・・・心の準備が・・・・・・」

「楠木」


 ベッドに手をかけ、楠木の目を見ながら言う。


「小学校の頃さ、俺に人との話し方を教えてくれたよな」

「え、う、うん。覚えてたの・・・・・・?」

「ああ。俺は乗り気じゃなかったのに、お前はそんな俺になんて言ったか覚えてるか?」


 楠木はハッとして、その唇を震わせた。


「もっと楽しくなるはずだから・・・・・・」

「お前が言ったんじゃないか」


 自信を持って言う。


「楠木、お前ならできる。だってお前は、こんな俺がはじめて――」


 所詮過去の産物だ。


 振り払うことのできない足枷だ。


 小さい頃に見た夢の欠片だ。


 それでもまだ、眩しいんだ。


 太陽だってそうだろ。何千、何万年前の光ですら、あんなに輝かしいのだ。


「――はじめて恋した人間なんだ」


 何度も焼き焦がされた。


 けれど同時に、何度もその温もりに触れた。


「佐保山・・・・・・」


 今はその光が多少褪せていたとしても、いつか輝きを取り戻すことを、俺は信じている。


「あたし、恵と話したい。話させて」

「わかった」


 楠木の顔を上げることはできた。


 あとはこいつら次第だ。


「入ってきていいぞ」


 しんとした保健室から外へ向かって合図を出す。


 ・・・・・・・・・・・・。


「もうちょっとおっきな声じゃなきゃ聞こえないんじゃない?」

「わ、わかってる」


 俺はもう一度大きな声を出す。普段からこんな声を出すことはないので、若干裏返ってしまった。


「なんか雰囲気でないんだけど」

「うるさいな」


 楠木にからかわれるように笑われたが、空気は少し和らいだように思える。


 しばらくしてから、扉の開く音がする。あちらもあちらで、心の準備をしていたのだろう。


 足音が近づいてきて、ベッドの前で止まる。


「あ、柚木っち・・・・・・」


 カーテンの向こうから聞こえる声。楠木の瞳が大きく揺れるとシーツを強く握り、その寂しげな腕に抱き寄せた。


「恵、だけど」

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